第43章 最古の氏族 多氏と名門大伴氏
多氏と大伴氏は、大和王権が東北の蝦夷征服を推し進めるにあたり、「精神的・イデオロギー的支配(多氏)」と「物理的・軍事侵攻(大伴氏)」という、文字通り「車の両輪(表裏一体)」となって機能した二大巨大氏族です。
これまでにみてきた古代国家の膨張の裏側には、常にこの二大氏族の戦略と血の歴史がありました。
大和王権の蝦夷征服において、多氏と大伴氏が果たした生々しい役割と関係性を考察します。
多氏は、日本最古の歴史書『古事記』を編纂した太安万侶を輩出した、大和王権の中で最も古い格式を持つ「神武天皇の直系子孫(皇別氏族)」です。
彼らの蝦夷征服における役割は、「ヤマトの神話と血統」を最前線に植え付けることでした。
太安万侶らが『古事記』において、天皇家がいかにして日本を平定したか(国譲りや神武東征)の物語を完成させたことは、東北の蝦夷を「まつろわぬ(従わない)賊」と定義し、征服することを正当化する強力な旗印となりました。
前述したとおり、「多賀城」を724年に築いた最高司令官は、多氏の同族である大野東人です。
彼は多賀城を建設すると同時に、陸奥国一宮である[鹽竈神社]や「陸奥総社宮」のシステムを整備しました。
多氏(大野氏)は、自らが創り上げた「ヤマトの神話の神々」を東北の最前線に配置することで、現地の蝦夷に対し、武力だけでなく「精神的・宗教的な圧倒と融和」を仕掛けたのです。
多氏が文(神話・呪術)を司ったのに対し、大伴氏は神話の時代から天皇家を武力で守護してきた、王権最強の「軍事豪族(武の氏族)」です。
彼らは蝦夷征討の「実戦部隊の最高総司令官」として東北の大地に血を流しました。
大伴氏は、天皇の行幸や宮中の門を守るエリート軍事集団「靫負(ゆきえ・王権の親衛隊)」でした。
彼らの精神は「海行かば 水漬く屍」の歌(大伴家持の作)に代表されるように、天皇のために命を捨てることを至高の誇りとしていました。
延暦13年(794年)、大伴氏のトップである大伴弟麻呂は、「初代・征夷大将軍」に任命され、10万の軍勢を率いて岩手のアテルイの本拠地へ攻め込みました。
しかし、蝦夷の強靭なゲリラ戦の前に、大伴氏の伝統的な戦術は通用せず、戦線は泥沼化(三十年戦争)しました。
結果として、大伴氏は軍事的な限界を迎え、次代の将軍である坂上田村麻呂(新興の渡来系軍事貴族)へと、東北平定の主役の座をバトンタッチすることになります。
東北の最高中枢である「多賀城」の歴史は、この二大氏族の栄枯盛衰のドラマそのものでした。
大伴氏が多賀城を管理した時代は、まさに蝦夷たちが「もうヤマトの神話や富の誘惑(多氏の融和政策)には騙されない」と牙を剥いた激動の時代でした。
大伴家持は、燃え盛る東北の前線で、かつての栄光ある武神の一族としての誇りと、目の前の凄惨な現実(蝦夷の反乱)の狭間で苦悩しながら、多賀城でその生涯を閉じました。




