第42章 鹽竈神社の謎 パート2
鹽竈神社は、国から破格の待遇を受けながら『延喜式神名帳』に載っていない不思議な神社でした。
その理由は何だったのでしょう?
また、数少ない最高格式の志波彦神社との合祀(同一境内化)という奇妙な顛末の真相は?
隣り合って鎮座するこの二社ですが、歴史的な出自は「式外社」と「式内社(名神大社)」という真逆の属性を持っています。
その相反する謎と、明治時代に起きた劇的な合祀の真相を考察します。
平安時代の927年にまとめられた全国の神社一覧表『延喜式神名帳』に名がない神社を「式外社」と呼びます。
鹽竈神社が載らなかった理由には、大きく分けて2つの強力な説があります。
ひとつは、主税式(財政)での「一万束」という超越した特権です。
神名帳には載っていないものの、同じ延喜式の財政規定である『主税式』やそれ以前の『弘仁式』には、「鹽竈神を祀る料、壱萬束(当時の税の単位)」と明記されています。
国家からこれほどの巨額の祭祀料を受けていた神社は、全国で数社しかありません(他社はそれでも数百〜2000束程度)。
つまり、一般の神社リスト(神名帳)に並べる必要すらなく、「多賀城の陸奥国府が国家予算から直接維持する、天皇直轄の超別格の宗教施設だったから」という説が最も有力です。
もうひとつは、神名帳に載る「志波彦」などが古くから現地にある土地の神であるのに対し、鹽竈神社(左右宮に祀られる鹿島・香取の神)は、大和王権が東北統治のために後から持ち込んだ「新参の国家神」であったため、古来の神名帳の基準から外れたという見方もあります。
ただし、左右宮に祀られる鹿島・香取の神と別宮に祀られる塩土老翁神というフォーメーションは、仙台藩四代藩主綱村が最終的に定めたものともいわれているので、主祭神たる塩土老翁神がその古来の神名帳の基準から外れるというのは考えにくい気もします。
一方の[志波彦神社]は、神名帳の中で陸奥国にわずか数社しかない最高格式「名神大社」に指定された正統なる式内社でした。
しかし、中世以降は衰退し、元々の鎮座地であった宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区)では、小さな牛頭天王社(現・八坂神社)の境内にひっそりと間借りするほど困窮していました。
この両社が明治時代、塩竈の地で合流することになります。
そこには、近代国家ならではの政治的な「真相」がありました。
明治政府は、神道を中心とした国家造りを行うにあたり、東北開拓の象徴である二社を復興させたいと考えていました。
そこで、「志波彦神(農耕・国土開発の神)は、かつて塩土老翁神(鹽竈神社の主祭神)とともに東北を拓いた」という古文書の伝承(神縁)を大義名分とし、地元の希望も踏まえて、志波彦神社を岩切から鹽竈神社の境内へと劇的に遷座(引っ越し)させたのです。
この合体により、明治7年(1874年)12月、志波彦神社の格式を引き継ぐ形で、両社を合わせた「志波彦神社・鹽竈神社」として国の最高峰の社格である「国幣中社」に列格することに成功しました。
現在の[鹽竈神社]の境内(一森山)を訪れると、装飾を抑えた古式ゆかしい鹽竈神社の社殿のすぐ隣に、昭和13年に建築の粋を集めて完成した朱と黒の鮮やかな[志波彦神社]の社殿が並び立っています。
この光景は、ただ神社が2つあるというだけでなく、「国家予算で動いていた古代の式外社(鹽竈)」と「歴史の荒波で一度は衰退した名神大社(志波彦)」が、1000年の時を経て明治の国家戦略によってガッチリと手を結んだという、日本の宗教史の奇跡的な「真相」を雄弁に物語っているのです。




