第40章 ふたつの多賀神社
仙台市内南西部にある「西多賀」の地名は、仙台市太白区富沢に鎮座する仙台市内最古の古社[多賀神社](富沢多賀神社)に由来して誕生しました。
この地名と神社の関係には、明治時代に起きた「神社の正統性をめぐる大論争」と、それによって生まれた「東」と「西」の対比という、非常にユニークな近代史のドラマが隠されています。
「西多賀」という呼称が公式に生まれたのは、明治22年(1889年)の町村制施行のタイミングです。
当時、富沢村・大野田村・鈎取村・富田村・山田村の5つの村が合併した際、この地域の中枢に祀られていた[多賀神社](富沢)にちなんで「西多賀村」と名付けられました。
これが、現在の西多賀の地名の直接のルーツです。
実はこの合併の際、前述の東隣にある現在の名取市高柳の[多賀神社]との間で、平安時代の歴史書『延喜式』に記された格式高い神社(式内社・多加神社)の「どちらが本物か」という大論争が勃発しました。
審議の結果、「富沢の多賀神社が本物(式内社)」と認められ、高柳の多賀神社はその社領(神社の領地)があった場所、という結論に至りました。
これに伴い、富沢側を「西多賀村」、高柳(現在の閖上方面)側を「東多賀村」と分け合う形で自治体名としたのです。
東多賀村はのちに閖上町(現・名取市)となったため地名は消滅しましたが、西多賀の地名は、昭和7年(1932年)に仙台市へ編入された後もそのまま現代へと引き継がれました。
西多賀の地名を生み出した太白区富沢の[多賀神社]は、「仙台市内で最も古い神社」として知られています。
境内に一歩足を踏み入れると、住宅街の中とは思えない厳かな空気に包まれます。
社伝によれば、今から1900年以上前の景行天皇40年(西暦110年)、日本武尊が東国の蝦夷を征討するためにこの地を訪れた際、国の生みの親である伊弉諾尊を勧請して社を建てたのが始まりとされています。
平安時代には、前九年の役で安倍貞任らと戦った源義家(八幡太郎)が名取川を渡って参拝し、武運長久を祈ったという記録があります。
また、江戸時代には[伊達政宗]をはじめとする仙台藩主代々から篤く信仰され、社殿の修復や造営が行われてきました。
この多賀神社と西多賀のエリアには、他にはない独特の民間信仰や、近代のノスタルジーが今も語り継がれています。
多賀神社の境内には、全国的にも珍しい「箍納め所」があります。
これは、木桶の周りを締め付ける竹の輪(箍・たが)のことで、神社の名前に引っ掛けて「願いが外れないように」「病気や災いから身を締め直す(延命長寿)」という祈りを込めて箍を奉納する、古くからの習わしが今も続いています。
かつて、長町から秋保温泉を結んでいたチンチン電車「秋保電鉄」(昭和36年廃止)には、まさに「西多賀駅」が存在しました。毎年5月1日の例大祭の日には、この西多賀駅から多賀神社の境内まで、延命長寿を祈る参拝客の列が延々と続いたといいます。
ちなみに、この「西多賀駅」は、日本帝国陸軍の第2師団が置かれた軍都・仙台において、昭和期に仙台陸軍幼年学校が設置された重要な軍事教育の敷地(三神峯)への最寄り駅でした。
戦後は学校の敷地を経て、現在は市民の憩いの場である三神峯公園となっています。
公園内には、多賀神社の社領であったことを示すわずか数十センチの小さな石柱が人知れずひっそりと現存しています。
「三神峯」といういかにもいわくありげな地名の由来にも、かつて山頂や丘の上に3つの神々が祀られていたという説があり、現に名取川の北側にある台地状の丘(標高約50mほど)には、縄文時代から古墳時代に至るまで連綿と続く史跡が眠っています。




