第38章 多賀の神威と蝦夷
「多賀の神威」とは、大和王権が東北支配の絶対的な最高司令部として築いた「多賀城」において、国家の公的な法(律令)と、王権が持ち込んだ神々の呪術的な威光によって、蝦夷を精神的・政治的に統合・制圧しようとした統治システムそのものです。
神亀元年(724年)に大野東人によって創建された多賀城は、単なる兵舎や役所(城柵)ではありませんでした。
そこは、大和王権が東北の地に「ヤマトの秩序」を現出させるための、最大の宗教的・政治的な結界でした。
多賀の神威と蝦夷の関係性を、多賀城周辺の神社配置と歴史的事件から解き明かします。
多賀城の神威を支えた最大の宗教的バックアップが、多賀城からわずか数キロメートルの位置に鎮座する[鹽竈神社]と、後に合祀された[志波彦神社]です。
鹽竈神社の祭神(塩土老翁神ら)は、人々に「塩造り」と「航海術」を伝えたとされる神です。
これまでみてきた太平洋側の海上輸送ルート(磐城〜石巻・牡鹿柵)において、船団の安全を守り、兵士たちの食料となる塩を確保することは軍事的な最重要課題でした。
王権はこの神を手厚く祀ることで、「多賀城の補給線は神によって守られている」という神威を蝦夷に示しました。
鹽竈神社は、全国で唯一「国司(多賀城の長官)」が祭祀を直接主導することが公的に定められた神社でした。
多賀城の役人や兵士、そして王権に帰順した蝦夷のリーダーたちは、この神社の前で王権への忠誠を誓わされたのです。
横手盆地の蝦夷塚古墳群や岩野山古墳群の章で考察した通り、当初、王権は協力的な蝦夷のリーダーたちを多賀城に招き、饗応を開いて高級な勾玉や衣服を与え、役職(官位)を授けました。
平城京のミニチュアとして整備された多賀城の壮麗な政庁や、瓦葺きの築地塀、そして厳かに行われる神社の祭祀は、現地の蝦夷にとって圧倒的な「神威(高度な文明の力)」として映り、王権への服属を促す強力な視覚的効果を持っていました。
しかし、王権の支配が強まるにつれ、多賀城の貴族たちは現地の人々を「夷俘(野蛮人)」と見下し、精神的に踏みにじるようになります。
その結果、宝亀11年(780年)、王権の役人であった蝦夷のリーダー伊治呰麻呂が反乱を起こし、「不落の神威」の象徴であった多賀城を急襲して焼き払いました(宝亀の乱)。
蝦夷の手によって多賀城が炎上したことは、ヤマトの神威が絶対ではないことを東北全土に知らしめる大事件となったのです。
多賀城を焼かれた大和王権(桓武天皇)は、アテルイとの激戦を経て、坂上田村麻呂の手によって多賀城を完全に再建・復興させます。
この際、田村麻呂はさらに強力な「神威の結界」を多賀城の周囲に張り巡らせました。
田村麻呂の時代、多賀城のすぐ近くに陸奥国のすべての神社(313社)の神々を合祀した「総社」=陸奥総社宮が建てられました。
これは、「東北すべての土地の神々は、多賀城の支配下に置かれた」ということを宗教的に宣言する究極のシステムでした。
国司はここを参拝すれば、陸奥国全体の神々にお参りしたことになり、その神威を背景に蝦夷への統治とさらなる北進(胆沢城の築城)を進めることができたのです。
古代の日本海側(丹後・越・秋田城)が、国宝『海部氏系図』に繋がる渡来系ネットワークや「渤海使」という国際外交の顔を持っていたのに対し、太平洋側の中心である「多賀城」は、大和王権の純粋な国家威信と、それを支える神々の呪術パワー(鹿島・鹽竈・総社)が最も濃密に集められた場所でした。
蝦夷にとって「多賀の神威」とは、ある時は自らを大和の役人へと引き上げてくれる輝かしい文明の光であり、またある時は自らのアイデンティティや土地を奪い去る侵略者の冷徹なバリケードだったのです。
「多賀城」という名称の由来、そしてこれまでに見てきた東北の蝦夷征討の歴史は、滋賀県の多賀大社を総本社とする「多賀神社(多賀信仰)」が持つ「生命の誕生・再生」という強烈な神威、そしてそれと表裏一体である「死と不老不死」の呪術的な国家戦略と深く結びついています。
なぜ大和王権は、東北の最高司令部を「多賀」と名付け、周辺に多賀神社を配置したのか?
多賀神社の祭神は、日本神話において国土と八百万の神々を生み出した国家の父神、伊邪那岐命です。
近江(滋賀県犬上郡多賀町)の多賀大社は、古くから「お多賀さん」と親しまれ、延命長寿・子孫繁栄(生命力を高める)の聖地として大和王権から絶大なリスペクトを受けていました。
当時の東北(陸奥国)は、大和の兵士たちにとって「ひとたび足を踏み入れれば、過酷な気候、未知の疫病、そして蝦夷の不意打ちによって命を落とす【死の地】」と恐れられていました。
王権は、この最高司令部を「多賀(生命が最高潮に満ちる場所)」と命名することで、「ここに集まるヤマトの兵士の命を護り、蝦夷の死の呪いを打ち破る」という宗教的な魔除け(結界)としたのです。
これが「多賀城」の名称の最大の謎(秘密)であったのです。
多賀城と多賀神社の関係を歴史の面から裏付けるのが、滋賀県の多賀大社周辺を本拠地としていた古代の有力豪族「犬上氏」の存在です。
初代遣隋使・犬上御田鍬の系譜である犬上氏は、多賀大社がある滋賀県犬上郡を支配し、敏達天皇の子孫を称する名門でした。彼らは大和王権の外交や軍事の尖兵として活躍していました。
神亀元年(724年)、多賀城を築いた最高責任者は大野東人ですが、その実務や兵士の動員、そして本拠地である滋賀の「多賀の神」の勧請には、東北へ遣わされた犬上氏ら近江出身の豪族や兵士たちが深く関わっていました。
彼らは故郷の最強の延命神を多賀城の周辺に祀り、軍事拠点の精神的コアとしたのです。
大和王権が太平洋側を北上したルート(福島・宮城)には、多賀城の設置と連動するように、重要な多賀神社(あるいは多賀の地名)が配置されていきました。
多賀城の南側、名取川を望む要衝に建つこの古社は、多賀城へ入る直前の「最後の聖なる関門」でした。
ここで兵士たちは身を清め、イザナギの神威(生命力)を身体にチャージして、蝦夷との最前線である多賀城へと向かったのです。




