第36章 鹿島神社に奉納された「アテルイと貞任」の影
平安時代後期に東北を揺るがした「前九年の役(1051年〜1062年)」の英雄であり、奥州の覇者であった阿倍貞任と「鹿島」の関係は、かつての阿部氏の歴史と同様に、大和朝廷(中央政府)の「征服のシンボルとしての鹿島」と、貞任を慕う「民衆による信仰(神格化)としての鹿島」が表裏一体となった、極めて象徴的な関係にあります。
これまで太平洋側を北上してきた「阿部氏・磐城・鹿島・坂上田村麻呂」の全ロジスティクスが、11世紀にアテルイの再来と恐れられた安倍貞任(阿倍貞任)と源頼義・義家親子の戦いにおいてどのように交錯したのかみていきます。
源頼義・義家ら朝廷軍にとって、奥州六郡を支配し、圧倒的な鉄の武力と騎馬隊を誇る安倍貞任は、国家を脅かす最大・最強の「賊」でした。
源頼義・義家親子は、かつて坂上田村麻呂が敷いた太平洋沿岸(福島・宮城)の「鹿島ライン」をそのままなぞるように北上しました。
彼らは、福島の鹿島神社や、石巻の鹿島御児神社など、街道沿いの鹿島神にひたすら戦勝を祈願しました。
朝廷側は、中央の絶対的な正義を示すため、「国譲り」の武神である鹿島神(武甕槌命)の威光を掲げました。
貞任の首をあげることは、すなわち「鹿島の神がヤマトの勝利を再び証明すること」に他ならなかったのです。
前九年の役の結末として、安倍貞任は衣川柵や厨川柵(岩手県盛岡市)の激戦の末に戦死し、安倍一族は滅亡へと向かいます。
しかし、その凄惨な死は、東北の地において強烈な「怨霊・鎮魂信仰」を生み出し、なぜか宿敵であったはずの「鹿島神社」と結びつきました。
岩手県奥州市周辺の鹿島神社などには、朝廷に反抗した東北の英雄の象徴である「悪路王」の首級(巨大な鬼の生首の像)が奉納され、現代に伝えられています。
この「悪路王」とはアテルイの別名ですが、中世の伝承では「大和に抵抗して壮絶な死を遂げた安倍貞任」のイメージも完全に重ね合わされています。
地元の人々は、朝廷の神である「鹿島」の境内に彼らの首級を祀ることで、その強大な怨霊を鎮め、同時に「奥州の真の王は貞任たちである」という記憶を、皮肉にも朝廷の神社の中に永遠に閉じ込めた(守らせた)のです。
そして、安倍貞任の弟である安倍宗任やその家臣たちの足跡をたどると、「鹿島」の本拠地である関東において、驚くべき歴史の逆転現象が起きています。
戦後、捕虜となった安倍宗任らは一度都へ連行された後、由緒ある常陸国(茨城県:まさに鹿島神宮のお膝元)の周辺にもその一族や家臣が配流、あるいは土着しました。
茨城県下妻市には、貞任の弟・宗任を神として祀る[宗任神社](天仁2年・1109年創建)が今も鎮座しています。
そこでは、貞任・宗任の兄弟が「子供の虫封じの神」として、関東の人々から深く信仰されています。
4世紀の「丹後(海部氏)」の鉄から始まり、越の国の[継体天皇]、太平洋側を北上した名門「阿部氏」のロジスティクス、そして坂上田村麻呂が率いた「鹿島神の進軍」。
安倍貞任という男は、大和王権が数百年にわたって作り上げてきた「日本海と太平洋の全ネットワーク」が東北の地で結実した、いわば『奥州独立王国の最高到達点』でした。
朝廷は「鹿島の武」によって一度は貞任を滅ぼしたものの、東北の民衆、さらには関東の民までもが、貞任たちの不屈の魂を[鹿島神社]や[宗任神社]という「神の世界」へと昇華させ、現代へと語り継ぐことになったのです。




