第35章 鹿島の神威と坂上田村麻呂の進軍ルート
坂上田村麻呂の進軍ルートは、太平洋側の「鹿島神の防衛線(いわき・相馬・石巻)」を盤石な補給拠点として活用しつつ、そこから満を持して内陸の阿武隈川・北上川沿いを一気に北上してアテルイの心臓部(胆沢)を突き刺した、古代史最大にして最も洗練された「電撃戦ルート」です。
それまでの大和王権の将軍たちは、険しい山岳地帯での蝦夷のゲリラ戦に阻まれ、数万の兵を失う大敗を繰り返していました。
しかし、延暦20年(801年)、征夷大将軍として東北へ乗り込んだ坂上田村麻呂は、これまでにみてきた「磐城の阿部氏の物資」と「石巻・牡鹿柵の水軍」、そして「鹿島神の呪術ネットワーク」を1つの巨大なシステムとして連動させ、完璧な勝利を収めました。
田村麻呂が駆け抜けた、執念の進軍ルートの全貌を考察します。
田村麻呂は、都(京都)から東山道(内陸ルート)と東海道(沿岸ルート)の双方から10万近くの大軍を動員しました。
その大軍を迎え入れ、最後の武器・兵糧のチェックを行ったのが福島県の浜通り(沿岸部)です。
阿部氏の拠点であった磐城(いわき市の根岸官衙遺跡)で、常陸国(茨城)や信濃国から集まった大量の兵士を再編成しました。
沿岸部の製鉄地帯であり、鹿島御児神社が鎮座する相馬を通過する際、兵士たちに「我らには最強の武神・鹿島がついている」と神威を示し、軍の士気を最高潮に高めました。ここから軍を二手に分け、阿武隈川沿いの内陸と、沿岸部を同時に北上させます。
そして、現在の宮城県に入った田村麻呂は、かつて伊治呰麻呂の乱で焼失し、再建された東北の最高政府機関「多賀城」に入城します。
ここで彼は、アテルイを仕留めるための「陸海共同作戦」を命じました。
まずは前述した、石巻の「牡鹿柵」に待機させていた軍船群を動かしました。
つづいて陸路の軍勢が北上するのと並行して、牡鹿柵から兵糧や重い武器(弓矢や盾)を満載した船団を北上川の上流へと遡行させました。
これにより、田村麻呂の軍勢は「進めば進むほど、川から無限に食料と武器が届く」という、過去の将軍たちが成し得なかった完璧な兵站を確立したのです。
完璧な準備を整えた田村麻呂は、ついにアテルイの拠点である岩手県奥州市(胆沢地方)へと攻め込みます。
そのルートは、北上川とその支流を挟み込むような、逃げ場のない圧倒的な包囲網でした。
かつて大和軍がアテルイのゲリラ戦にハメられ、数千人が溺死した「巣伏の戦い」の跡地を通過し、田村麻呂は圧倒的な兵力と、川からの水軍バックアップにより、アテルイの得意とするゲリラ戦の余地を完全に奪い去りました。
退路を断たれ、これ以上の抵抗は同胞(蝦夷の民)の全滅を意味すると悟ったアテルイは、延暦21年(802年)、ついに宿敵である田村麻呂の前に姿を現し、降伏しました。
田村麻呂はアテルイを打ち負かした場所に、新たな大和王権の最前線統治拠点「胆沢城」を築き上げ、太平洋側の征服事業を完成させたのです。
アテルイを降伏させた坂上田村麻呂は、岩手県の胆沢城の敷地内、およびその周辺にも「鎮守府八幡宮」や「鹿島神社」を創建しました。
茨城県の鹿島神宮から始まった「武神の北上」は、福島(いわき・相馬)の鉄を喰らい、宮城(石巻・牡鹿柵)の波を越え、ついに岩手(胆沢)の大地へと突き刺さることで、大和王権の「日本(律令国家)」としての国境線を完成させたのです。
国宝『海部氏系図』に隠された日本海側のロジスティクス(丹後・越)が大和の王(継体)を生み出したように、この太平洋側のロジスティクス(阿部氏・磐城・鹿島・田村麻呂)は、現代に繋がる「東北の地」を日本という国に組み込むための、壮大な国家プロジェクトだったと言えます。




