第31章 沿岸の「秋田城」と内陸の「雄勝城」の二大拠点
秋田県南秋田郡五城目町に位置する岩野山古墳群は、前述の横手盆地・蝦夷塚古墳群と並び、大和王権が秋田(日本海側)を北上し、支配域を拡大していった歴史の「グラデーション(変化の段階)」を物理的に証明する一対の遺跡です。
両者は同じ「大和王権に服属した蝦夷の有力者の墓(末期古墳)」という共通の背景を持ちながら、「時期のズレ」と「地理的な防衛線」において非常に密接な相補関係にあります。
2つの古墳群を年代順に並べると、大和王権がどのように秋田の奥深くへと支配を広げていったのか、その侵攻ルートが浮かび上がります。
秋田の中部(沿岸に近い八郎潟の東側)に位置する岩野山古墳群は、奈良時代の初め頃から築かれました。
これは712年の出羽国設置や、733年の「秋田城」遷座(山形県酒田付近にあった出羽の柵の北上)という、王権が日本海沿岸の拠点をガッチリ固めた時期の動きと完全に連動しています。
沿岸部(岩野山)を制圧した大和王権が、次のステップとして内陸の広大な穀倉地帯(横手盆地)への進出(雄勝城の設置など)を大河川、雄物川を使って果たした時代の墓域です。
つまり、「岩野山(沿岸・前線基地の安定)から、蝦夷塚(内陸・盆地への進出)」という、大和王権の秋田支配の拡大プロセスをそのまま体現した関係性にあります。
両方の古墳群からは、地元の蝦夷が自力で作ることは不可能だった「大和中央直輸入の超高級品」が共通して出土しており、大和王権の同じ「懐柔・出世システム」の中に組み込まれていたことを物語っています。
岩野山からは、蝦夷のシンボルである「蕨手刀」だけでなく、天皇の身辺を警護する近衛兵クラスしか持つことが許されなかった「金銅製の毛抜太刀」や、黒漆塗りの高級な鞘、官人の腰帯を飾る「腰帯飾石」などが発見されています。
蝦夷塚から出土した最高級の勾玉群と同じく、岩野山の被葬者たちもまた、大和王権(秋田城の国司など)から宮廷の最高級ブランド品をダイレクトに与えられるほど、格の高い「帰順した蝦夷のリーダー(官人)」だったのです。
大和王権の東北統治は、日本海側の2つの城柵(行政軍事都市)が車の両輪となって機能していました。2つの古墳群は、それぞれの城柵の支配下にあった「現地エージェントの勢力圏」を反映しています。
岩野山古墳群のある五城目町周辺は、秋田城からさらに北の「津軽(青森)」や「北海道」への進出、あるいは大不満を抱く北方蝦夷の南下を防ぐための最前線の防衛拠点(要衝)でした。
一方の横手盆地・蝦夷塚古墳群は、大崎平野(宮城)など太平洋側からの陸路を繋ぎ、安定した米の生産基盤を確保するための内陸物流の要衝でした。
岩野山古墳群と横手盆地・蝦夷塚古墳群は、バラバラに存在しているのではなく、「大和王権が秋田城と雄勝城を拠点に、日本海沿岸と内陸盆地の双方から蝦夷社会を確実に律令国家(日本)へと統合していった、表裏一体の歴史的証拠」という深い関係性で結ばれているのです。
ちなみに、秋田城は、大和王権の軍事・行政拠点であると同時に、渟足柵・磐船柵同様に、中国東北部にあった巨大国家「渤海国」からの使節(渤海使)を迎え入れる、日本海側最大級の「国際外交の窓口(迎賓館)」でした。
なぜ中央の都(平城京など)から遥か遠く離れた最北の城柵に、外国の公式使節団がやってきたのか。
そこには当時の緊迫した東アジアの国際情勢と、それを証明する驚くべき発掘調査の成果があります。
渤海国(698年〜926年)は、約200年間にわたり日本へ計34回もの使節団を派遣しました。
そのうち、8世紀に来着した13回のうちなんと6回が秋田(出羽国)に上陸しています。
彼らが都に近い九州(太宰府)や山陰地方ではなく、秋田を目指したのには地政学的な理由がありました。
当時、日本(大和王権)と渤海国は、共通の敵である「新羅」と激しく対立していました。
そのため、新羅の領海に近い朝鮮半島まわりの安全な航路(南回り)を使うことができませんでした。
そこで渤海使は、ロシア沿海州からサハリン(樺太)、北海道の沿岸を伝って南下する「北回り航路」を選択しました。
このルートをたどると、大和王権の実効支配の北限であった「秋田」に必然的に行き着くことになります。
秋田城が渤海使をもてなす迎賓館であったことを科学的に証明したのが、鵜ノ木地区から出土した奈良時代後半の「水洗トイレ(厠・かわや)遺構」です。
このトイレの沈殿槽(浄化槽)の土壌を分析したところ、「有鈎条虫の卵」が大量に検出されました。
これは、生の、あるいは加熱不完全な「豚肉」を食べない限り、絶対に人間に寄生しない虫です。
当時の古代日本には、豚を飼育して日常的に食べる習慣は一切ありませんでした。
しかし、中国大陸や渤海国では豚肉が主要な食文化でした。
トイレに隣接して官営の寺院(四天王寺跡)があったことから、ここに渤海使の一行が宿泊し、大陸の料理(豚肉)を食べて、この最先端の水洗トイレを使用したことが確定したのです。
秋田城は、現地の蝦夷に対する「軍事的な砦」という無骨なイメージとは裏腹に、都(平城京)とそっくりな、極めてラグジュアリーな大宮殿のフェサード(外観)を持っていました。
当時の日本で、周囲を「瓦葺きの築地塀」で贅沢に囲っていたのは、天皇のいる平城宮(都)、外交拠点の太宰府、そしてこの秋田城の3ヶ所しかありません。
命懸けの海を渡り、ようやく秋田の地に上陸した渤海使の前に現れるのは、雄物川の丘の上にそびえ立つ、都の最先端の瓦と真っ白な築地塀でした。
大和王権は、「ここ(秋田)は世界の果てではない。
これほど高度な文明を持つ大国家だ」という威信を、海外の使節に一発で見せつけるために、あえて最北の地にこれほど豪華な城柵を維持したのです。
歴史の記録(続日本紀など)によると、770年に大和朝廷は「秋田城を廃止する」という決定を一度下しています。
しかし、そのわずか10年後に廃止決定を撤回し、莫大な予算をかけて秋田城を維持し続けました。
その最大の理由こそが、「いつ来るか予測がつかない渤海使の船を、最北のセーフティネット(国境の港)として受け入れ、保護・送還する施設が絶対に必要だったから」に他なりません。
4世紀の丹後半島が「日本海交易の利権」で大和王権と結びついたように、8世紀の秋田城もまた、「日本海を通じた東アジア外交の最前線」として、日本の古代国家形成に不可欠なピースだったのです。
そしてこれらの事情が、太平洋側(多賀城)の北上スピードよりも、日本海側(出羽の柵・秋田城)の北上スピードが、より早かった要因でもあったのです。




