第30章 幻の城柵「雄勝城」との深すぎる繋がり
前章で出てきました、秋田県の横手盆地(横手市雄物川町造山)に位置する「蝦夷塚古墳群」は、8世紀(奈良時代)の大和王権による「北辺征服と城柵統治」の生々しい最前線を示す超極要な遺跡です。
この古墳群は、王権の出先機関である城柵のすぐ近くに築かれ、大和の支配を受け入れながらも独自のアイデンティティを残した「在地の有力蝦夷(あるいは王権の現地役人)」の墓と考えられています。
横手盆地の蝦夷塚古墳群が古代史において持つ重要な意味を見ていきます。
この古墳群の最大の特徴は、奈良時代に大和王権が秋田県南部に築いたとされる政府の軍事・行政拠点「雄勝城」の最有力候補地(あるいはその外郭)という点にあります。
発掘調査により、古墳群の敷地内から長さ100.4メートルに及ぶ巨大な「材木塀跡(大柵列)」が検出されました。
これは大和王権の城柵に特有の構造であり、国家的な重要施設がここにあった決定的な証拠です。
周辺からは、当時の一般集落では絶対に見られない政府公認の須恵器を焼いた「末館窯跡」や、役人の筆記用具である「円面硯」、官営の寺院に使われる「丸瓦・平瓦」などが出土しています。
つまり、蝦夷塚古墳群は山奥の辺境にあったのではなく、大和王権が横手盆地を支配するために設置した政治中枢の「ど真ん中」に組み込まれていたのです。
大和王権の支配地にありながら、なぜ「蝦夷塚」という墓が造られたのか。
ここに王権の絶妙な統治戦略が見えます。
現在は水田造成や道路工事によって墳丘は削平されていますが、地下からは複数の「古墳周溝(溝)」が見つかっており、本来は小さな円墳が密集する群集墳(末期古墳)でした。
特筆すべきは、ここから出土した48点に及ぶ勾玉やガラス玉などの古代アクセサリーです。
これらは非常に精巧で、当時の大和の中央宮廷(京都国立博物館などに収蔵されるレベル)から「王権に協力したご褒美(威信材)」として直接もたらされた最高級品です。
被葬者は、大和王権に牙を剥いた蝦夷ではなく、王権の圧倒的な富と文化を受け入れ、盆地開拓や雄勝城維持のために大和側の「現地エージェント(役人)」として働いた、この地域の最高有力者(首長)たちだったと推測されています。
横手盆地の蝦夷塚古墳群は、「大和王権の最先端の政治システム」と「現地蝦夷の伝統」が、1つの空間に完全に融合していたことを示す奇跡的な遺跡です。
4世紀に大和王権が「婚姻」によって丹後(日本海側)を吸収したように、8世紀の東北でもまた、「富の授与と墓制の容認」という極めて政治的な対話と支配のプロセスが、この横手盆地で繰り広げられていたのです。




