第29章 越の国からさらに「北・東」へ広がる王権の野望
前章まで、継体天皇の誕生とともに「越の国(福井・石川)」の日本海ネットワークが大和の権力を掌握した歴史を見ました。
この継体王朝以降、大和王権はさらに日本海を北上し、新潟(渟足柵・磐船柵の設置)を経て、山形・秋田(出羽の柵・秋田城・雄勝城)や宮城(多賀城)といった東北地方への進出(蝦夷征討と植民)を本格化させていきます。
「蝦夷(えぞ/えみし)塚」の名を冠する古墳群(あるいは古墳)は、日本国内に大きく分けて「東北地方の末期古墳群(群集墳)」と、「石川県能登半島の須曽蝦夷穴古墳」の2つの文脈が存在し、いずれも大和王権の「対外外交」および「境界支配」の歴史を象徴しています。
大和王権の標準的な支配の証である「前方後円墳」とは全く異なる特異な構造を持ち、王権の拡大プロセスを異なる視点から物語るこれら2つの「蝦夷塚」と大和王権の関係性は?
岩手県、宮城県、秋田県などに点在する「蝦夷塚」と呼ばれる古墳群の多くは、7世紀後半〜9世紀(飛鳥時代〜平安時代初頭)に築かれた「末期古墳」に分類される小型の円墳群です。
大和王権は5世紀〜6世紀にかけて、南東北(宮城の雷神山古墳など)や北東北の南端(岩手の角塚古墳)まで前方後円墳を造らせ、政治的同盟を広げました。
しかし、大和で古墳造りが禁止された後、7世紀以降に東北独自の形として現れたのがこれらの蝦夷塚古墳群です。
これらを築いたのは、大和王権の支配(律令国家)に組み込まれつつも、まだ独自の文化を維持していた在地の有力者(王権に協力的な蝦夷の首長など)です。
古墳は小さく簡素ですが、内部からは大和王権から文字通り「ご褒美(威信材)」として下賜された、「蕨手刀」や高級な和同開珎(銭貨)、ガラス玉、最先端の鉄製品が出土します。
大和王権が武力征服(征夷)と並行して、「物資や富を与えることで、北方の首長たちを懐柔・支配しようとした痕跡」がこの古墳群です
もう一つ、日本の古代史において極めて重要な「蝦夷」の名を持つ古墳が、石川県七尾市(能登島)にある須曽蝦夷穴古墳です。
7世紀前半に築かれたこの古墳は、大和王権の緊迫した東アジア外交を現代に伝えています。
この古墳の最大の特徴は、ドーム状に石を積み上げ、内部を2つの部屋(並列する横穴式石室)に区切るという、朝鮮半島の「高句麗」にそっくりの特殊な構造を持っている点です。
当時、大和王権は唐や新羅に対抗するため、朝鮮半島北部の巨大国家・高句麗と同盟を結ぼうとしていました。
高句麗からの使者は、新羅の目を盗んで「日本海」を渡り、能登半島に上陸していました。
「蝦夷穴」という名は後世に「正体のわからない異界の穴」として名付けられたもので、実際の被葬者は蝦夷ではなく、大和王権の命を受けて日本海側の対高句麗・渤海外交ルートを管理していた渡来系の最高級技術者、あるいは外交を担った現地首長と考えられています。
このように、東北の「蝦夷塚古墳群」も、能登の「須曽蝦夷穴古墳」も、大和王権が「日本海」という巨大なハイウェイを使って、国家の境界線をさらに北へ、そして東アジアの国々へと押し広げていったエネルギーの到達点を示す歴史的遺産なのです。




