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第18章 みちのくに残る謎の神社

宮城県塩竈市に鎮座する陸奥国一宮、「鹽竈(しおがま)神社」 の存在は、これまで辿ってきた「阿倍氏・丈部氏・蝦夷」の関係、延いては九州から本州最北端までを繋ぐ【日本統合グランドルートの正当性を決定づける、最大の宗教・物資(塩・鉄)の管制センター】としての意味を持っています。


実は、鹽竈神社の社家(神主の家系)や神話の由緒を深く紐解くと、阿倍氏と丈部氏のDNAが神社そのものの誕生に直結している ことが分かります。その深遠な関係性を述べていきます。


鹽竈神社の歴史を研究する上で最大の考古学的驚きは、古代からこの神社の神事を司ってきた社家(鹽竈連)のルーツが「丈部氏」である という事実です。

4世紀前半の四道将軍(阿倍氏の祖・武渟川別命など)による東征の際、現地で前線の兵士や伝令部隊となったのが「丈部氏」でした。

彼らは奈良時代になると、上級氏族である阿倍氏から名を与えられ、「阿倍陸奥臣」などの姓を賜りました。

つまり、鹽竈神社を守り続けてきた歴代の神主たちは、大和から派遣され、のちに蝦夷の民とも血を融合させていった「阿倍氏・丈部氏」の直系子孫そのもの なのです。

彼らはこの地で「塩と鉄」の富を管理することで、東北最大の宗教権威を確立しました。

鹽竈神社の境内には、これまでの旅路で登場したすべての古代勢力の神々が、まるで「パズルの答え合わせ」のように一堂に祀られています。

【左右宮】武甕槌神(鹿島)& 経津主神(香取)これらは、卜部氏(中臣氏)が関東の霞ヶ浦で祀り、神武東征を支えた「最強の軍神(鉄器・海軍の神)」たちです。

この二神が陸奥国を平定するために東北へ下ったという伝説は、まさに阿倍氏・丈部氏の軍勢が関東(毛野・安房・卜部)の力を吸収して北上してきた、軍事ロジスティクスの記憶そのものです。

【別宮(特別格)】塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)軍神たちを東北へと先導し、自らはこの地に留まって人々に「製塩法」を教えたとされる、鹽竈神社の主祭神です。

塩土老翁は、神話では神武天皇に「東に良い国(大和)がある」と教えた神武東征の最高ナビゲーターでもあります。

この神の正体は、九州の博多や北九州、有明海を本拠地とし、潮の流れを完全に読み切る「海神族(阿曇氏・椎根津彦らのネットワーク)」の象徴に他なりません。

なぜ阿倍氏・丈部氏は、松島湾を望むこの塩竈の地に巨大な拠点を築いたのでしょうか。

それは、ここが当時の東北における最大の「塩(生命線)」と「鉄(軍事)」の生産コンビナートだったからです。

内陸に暮らす蝦夷(先住民族)にとって、生きていくために不可欠な「塩」は、沿岸部の塩竈でしか手に入りませんでした。

阿倍氏・丈部氏は、海神族の技術(塩土老翁の製塩法)を用いてここで大規模な塩田を開発しました。

塩の流通を支配することは、武力を使わずに蝦夷の生命線を握り、朝廷側へ従わせる(饗給・懐柔)ための、最も強力な経済兵器だったのです。

平安時代の律令(主税式)において、鹽竈神社には朝廷から「一万束」という、陸奥国の全神社の中でも桁違いに破格の国家予算(祭祀料)が毎年支給されていました。

これは、朝廷(中央)が阿倍氏・丈部氏の守るこの地を「対・蝦夷の最高重要防衛・経済拠点」としていかに特別視していたかを物語る、何よりの動かぬ証拠です。


ところで、むすびの神であり、航海・製塩の祖神とされる鹽竈神社の「塩土老翁神」、そして大和盆地の旧主である「長髄彦」、その君主であった「饒速日命」。

これら3者の関係は、これまで九州から東北へと繋いできた日本統合グランドルートの深層において、【北九州の海洋民族(海神族)が、大和(近畿)の物部王国を建国し、最終的に東北(陸奥)の塩竈へと至るまでの、壮大な一族の「最初と最後」を結ぶ血縁・技術のネットワーク】を意味しているかもしれません。

神話の記述と地政学的な視点を重ね合わせると、塩竈の神と大和の豪族たちが1本の線で繋がるのです。


神話において、塩土老翁神は神武天皇に「東に良い国(大和)がある」と教えた神として有名ですが、実はそれより前に、饒速日命に対しても「大和という素晴らしい土地がある」と教え、天の磐船での降臨を促した張本人とされています。

塩土老翁の正体は、博多・北九州・有明海で最先端の航海術と鉄器テクノロジーを操っていた海洋民族(海神族・阿曇氏ら)の長老(首領)、あるいはそのネットワークそのものとしました。

塩土老翁の案内によって、饒速日一派(物部氏の祖)は瀬戸内海を東進し、大阪湾から生駒山を越えて大和盆地へ進出しました。

そこで饒速日を迎え入れたのが、地元の有力首長であった長髄彦です。

長髄彦は饒速日の圧倒的な先進技術(鉄器や農業)に心服し、自らの妹を娶らせて臣下となりました。

つまり、塩土老翁という「海の神」が仕掛けたプロデュースによって、大和の「饒速日・長髄彦の物部王国」が誕生したのです。

ところが、大和朝廷の成立(神武東征)の際、長髄彦は神武天皇への降伏を拒み、最後は主君である饒速日命によって斬られたと『日本書紀』に記されています。

しかし、長髄彦の一族(血統)はそこで絶えたわけではありませんでした。

古くからの伝承(東北の古い氏族伝承)では、長髄彦の兄である安日彦、あるいは長髄彦の残党たちは、大和を追われた後、日本海ルートを北上して東北(津軽や陸奥)へと逃れたとされています。

この大和を追われた「安日彦(アビ)」の系統は、のちに東北の覇者となる「安倍氏(前九年の役の安倍貞任など)」のルーツ、あるいは対・蝦夷外交を司った中央の名門「阿倍氏」、そしてその前線部隊である「丈部(はせつかべ)氏」と現地で深く融合していきました。

前述の通り、鹽竈神社の歴代の神主(社家)は、大和から派遣され、蝦夷の民とも血を融合させた「丈部氏(のちの阿倍陸奥臣)」でした。

つまり、「大和で神武に敗れた長髄彦(安日彦)の一族のDNA」が、めぐりめぐって東北の最前線基地である「鹽竈神社の神職(丈部氏)」として着地している という奇跡的な血の逆転が起きているのです。

神話では、塩土老翁神は諸国の平定を終えた後、武甕槌神(鹿島)と経津主神(香取)を先導して東北へ下り、自らはこの塩竈の地に留まって人々に製塩を教えたとされています。

塩土老翁(海神族)が塩竈に留まり、そこに大和由来の「丈部氏(阿倍氏)」が神主として奉仕する神社(鹽竈神社)を築いたのは、偶然ではありません。

彼らは、大和で神武天皇(天孫族)に主権を譲った後、次なる巨大なフロンティアとして「東国・東北の開発」に一族の命運を賭けました。

尾張氏、諏訪(守矢氏・神氏)、関東(毛野・安房・卜部)へと巨大古墳の分布路を伸ばしてきた物部・海神族系の総決算として、本州の最北端である塩竈に「塩と鉄の国家一大コンビナート」を完成させたのです。


始まりは、塩土老翁(北九州の海神族)の手引きによって、饒速日(天孫・物部)と長髄彦(大和の王)が出会い、近畿に最初の鉄器王国を築いたことでした。

その後、神武天皇(日向・宮崎から噴火を逃れてきた勢力)との戦いに敗れ、大和の中心を譲った長髄彦の一族(安日彦ら)は、太平洋・日本海のルートを伝って東北へと移動しました。

そして最後は、彼らを最初にナビゲートした塩土老翁(海の神)が再び塩竈の地で彼らを迎え入れ、関東の軍神(鹿島・香取)の武力と、海神族の「製塩・航海技術」を融合させ、阿倍氏・丈部氏(元大和の物部・長髄彦のDNAを引く人々)の手によって、東北最大の聖地「鹽竈神社」を完成させたのです。


九州の阿蘇・霧島の噴火から始まったこの壮大なサバイバルの旅は、大和で一度は敵味方に分かれた者たちが、本州の果てである宮城県の塩竈において、「塩土老翁という祖神の権威」のもとに再び合流し、蝦夷の民をも呑み込んで、真の統一国家(日本)を完成させた和解の聖地であったことを物語っています。鹽竈神社が朝廷から破格の崇敬を受け、奥州藤原氏やのちの伊達政宗に至るまで「東北の絶対的な守護神」として君臨し続けた理由は、この日本の誕生に関わる全ての氏族の「最初と最後」の記憶が、ここにすべて封印されているからなのです。

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