第11章 もう一つの東征
ここで神武東征で最大の謎、なぜ同じ天孫族が既に大和の地にいたのか?
について、これまでの検証方法に倣ってみていきたい。
2世紀後半から3世紀初頭にかけての日本列島で発生した最初の大規模な内戦「倭国大乱」は、近年の自然科学(古気候学・地質学)の発展により、「世界規模の巨大火山噴火」が引き起こした「極端な気候寒冷化(冷夏)」が真の原因であるという説が急速に有力視されています。
近年の氷床コア(氷の化石)や東京湾の堆積物コアなどの高精度分析により、2世紀後半(180年前後)に、地球規模の激しい環境変化をもたらした超巨大火山噴火が起きていたことが分かっています。
過去数千年間で最大級とされるタウポ火山(ハテペ噴火)がこの時期に爆発。成層圏まで達した大量の硫酸塩エアロゾルや火山灰が地球全体を包み込み、太陽光を遮る「日よけ」となって地球の平均気温を急激に低下させました(火山の冬)。
日本国内でも、先述の通り阿蘇山や霧島山、あるいは開聞岳などがアクティブに活動し始めており、ローカルな地域(特に九州)の視界不良や降灰がこれに拍車をかけました。
火山噴火の影響は、稲作を始めたばかりの弥生時代末期の日本列島(倭国)に、致命的な冷夏と異常気象として直撃しました。
中国の史書にも「夏なのに寒い」「旱魃と大洪水が同時に起きる」といった異常気象と大飢饉の記録が残されています。
当時の弥生人は、気温や水利の変動に極めて脆弱な初期の稲作に依存していました。
2年、3年と冷夏による凶作が連続したことで、列島各地の食料生産の基盤が完全に崩壊しました。
飢餓に陥った人々が取れる選択肢は多くありませんでした。
これが内戦へと発展します。
飢えに苦しむ地方の民や、崩壊した集落の難民が、わずかに備蓄のある豊かな地域(佐賀平野、筑後平野、あるいは拠点都市)を襲撃し始めました。
これが『魏志倭人伝』に書かれた「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」の正体です。
同時に、限られた資源や、これまで見てきた「北九州・宇佐の渡来系ハイテク鉄器ルート」を誰が占有するかという権力闘争も激化しました。
長引く戦乱と飢饉(寒冷化)に対し、武力だけではどうにもならないと悟った諸国の王たちは、独自の解決策を見出します。
それが「卑弥呼の共立」です。
卑弥呼が用いた「鬼道」とは、神の声を聴く呪術(祭祀)です。
当時の人々にとって、寒冷化や日照不足は「太陽の神が怒っている(または隠れてしまった)」ことを意味しました。
諸国の王たちは、太陽の神を宥め、再び暖かい夏を呼び戻すことができる最高の霊力を持った「太陽の巫女(日女命=ヒミコ)」を全体のトップに据えることで、神の怒りを鎮めようとしました。
科学的なアプローチがない時代において、卑弥呼の擁立は「最大級の国家規模の気象祈願プロジェクト」だったのです。
「倭国大乱(2世紀後半)」の時期と、物部氏の祖神である「饒速日命」の天孫降臨神話は、「自然災害による大飢饉(大乱)を背景に、飢えに苦しむ人々を救うため、先進的なテクノロジーと富を持った北九州の渡来・海洋勢力が近畿(大和)へ救済・植民のために進出した歴史」を象徴する関係にあると予想されます。
神武天皇の東征よりも「先」に大和に降臨していたとされる饒速日の正体、そして大乱とのタイムラインの重なりを紐解くと、古代日本の誕生を巡るもう一つの壮大なドラマが見えてきます。
2世紀後半(170〜180年代)、火山噴火による世界的な寒冷化が原因で「倭国大乱」が勃発します。
列島中で食料の奪い合いが起き、3世紀初頭(200年前後)に卑弥呼が共立され、九州全体を巻き込む巨大な連合(邪馬台国連合)が成立すると、大乱が一旦収束しました。
饒速日の大和への「天孫降臨」は、まさにこの倭国大乱の最中、あるいは大乱の終結とほぼ同時期(3世紀初頭)に行われたと考えられます。
饒速日を祖神とする物部氏の本来のルーツは、福岡県北部(遠賀川流域や博多平野)の海洋民族(海神族)や大陸渡来人と融合した、最も早く「鉄器文化」を手にした最強の氏族です。
饒速日は、神武の祖先のように山(霧島山など)に降り立ったのではなく、「天の磐船に乗って大和(大阪湾から生駒山周辺)に空から降臨した」とされています。
これは、北九州の高い造船技術(海洋民族のインフラ)と航海術を使い、関門海峡を抜けて瀬戸内海をダイレクトに東進してきた「大規模な武装船団(大渡海)」の記憶であるのではないでしょうか?
なぜ饒速日(北九州の物部勢力)は、大乱の時期にわざわざ大和へと向かったのでしょうか?
ここにも気候変動と火山の影があります。
火山灰や寒冷化により、九州平野部での稲作が打撃を受ける中、大陸の玄関口である北九州には次々と渡来人や難民が流入し、人口過密と食料不足(大乱の直撃)が深刻化していました。
そこで彼らは、優れた航海術を使って瀬戸内海の最奥にある大阪湾・大和盆地(奈良盆地)に目をつけました。
大和盆地は内陸のため火山の直接の泥流被害を受けにくく、まだ開発の余地が無限に残されている肥沃な土地でした。
大乱で列島中が飢える中、饒速日の船団は北九州・宇佐譲りの「最新の鉄製農具」と「高度な土木技術」を携えて大和へ上陸しました。
地元の豪族である長髄彦らは、その圧倒的なテクノロジーによって土地を豊かに(開墾)してくれる饒速日を「天から降ってきた神の御子(救世主)」として崇め、妹を嫁がせて主君として仰いだのです。
もう一つの東征。
それは、「大自然の激変(大乱・噴火)によって、九州の海神族・渡来人・天孫族たちが次々と押し出され、奈良盆地へと集結していったリアルな民族大移動の記録」そのものだったと言えます。




