第10章 神武東征の足跡の謎
巨大古墳の分布と、神武東征の中継地として描かれる「安芸(広島)」「吉備(岡山)」「阿波(徳島)」の3地域の符合は、瀬戸内海の海上輸送・製鉄・軍事ロジスティクスを完全に制圧するための【最重要の戦略拠点(経済コンビナート)】であったことが分かります。
これまでの九州大連合(天孫族・海神族・秦氏)が、なぜこれらの地にそれぞれ数年間(安芸に7か月、吉備に8年間など)も滞在し、足場を固めたのか。その考古学的・地学的リアリティは?
神武軍が九州(北九州・岡田宮)を発ち、瀬戸内海へ入って最初に長逗留(多祁理宮に7か月)したのが「安芸」です。
周防灘と安芸灘を隔てる半島状の地、室津半島周辺には100m超の巨大古墳が複数存在します。
そして多祁理宮が築かれる安芸の地には、巨大古墳とはいきませんがそれなりの古墳群が確認されます。
3世紀当時、日本海側には「出雲」という強大な独自の文化圏が存在していました。神武軍が瀬戸内海を東進する際、出雲から南下してくる勢力に退路を断たれるのは最大の弱点となります。
安芸に拠点を築くことは、山陰に対する強力な防衛線の確立を意味しました。
安芸の沿岸部(厳島周辺)は、古くから瀬戸内海の東西を結ぶ潮流の要衝です。北九州の海神族(阿曇氏・宗像氏)にとっても、安芸は最初の「中継ドック(軍船の補給・修繕港)」として絶対に必要な場所でした。
神武東征において、最も長く(高島宮に8年間)滞在したのが「吉備」です。
これは単なる休憩ではなく、吉備の巨大勢力を調略(同盟)し、大和へ突入するための「最大の軍事・兵糧基地」を建設していた期間です。
吉備(岡山平野)には、5世紀前半に築かれた全長350mの「造山古墳」(全国4位・天皇陵を除けば日本最大)をはじめ、100mを超える巨大前方後円墳が山のように並んでいます。
これは、3世紀〜4世紀当時から大和(近畿)に匹敵、あるいはそれを凌駕するほどの圧倒的な経済力・人口を持っていた証拠です。
吉備で生まれた巨大な土器(特殊器台)の文化は、のちに大和へそのまま伝わり、古墳の「埴輪」のルーツとなりました。
これは、吉備の勢力が神武の「大和朝廷樹立」の共同創業者であったことを示す何よりの物証です。
吉備は、中国山地から採れる「砂鉄」を使った黎明期の鉄生産地であり、同時に広大な平野による大穀倉地帯でした。
ここで神武軍は、8年かけて数万人規模の軍隊を維持する兵糧と、最新の鉄製武器を大量にチャージしたのです。
そして、瀬戸内海の東の出口、大和(近畿)の目と鼻の先に位置するのが「阿波」です。
徳島県の吉野川流域からは、3世紀初頭(邪馬台国・大乱の時代)のものとしては日本最古級の前方後円形の突堤を持つ積石塚(萩原1号墓など)が発掘されています。
これは、大和に前方後円墳が定着するよりも前に、阿波に最新の王墓の設計テクノロジーが存在していたことを意味します。
記紀にははっきりとした長逗留の記載はありませんが、神武をナビゲートした海神族「椎根津彦(珍彦)」や、忌部氏の足跡を通じて、阿波が隠された超重要拠点であったことが浮かび上がります。
阿波(若杉山遺跡など)は、古代の最高級の交易品であり、邪馬台国も魏に献上した「水銀朱(赤い不老不死の薬・儀礼用の染料)」の日本最大の採掘地でした。
この莫大な富を操る阿波の海洋勢力(阿波忌部)が神武軍に加わったことで、紀伊半島(和歌山)から大和の背後へ回り込む「熊野バイパスルート(海軍戦術)」が可能になりました。
「九州大連合(佐賀・筑後・久留米・熊本・大分・宮崎・北九州)」の全エネルギーは、瀬戸内海という天然のハイウェイを通じて、安芸(防衛)、 吉備(兵糧・鉄)、 阿波(富・海軍)という3大ドミノを次々と倒し、味方に引き入れることで膨れ上がっていきました。
この経済的・軍事的なドミノがあったからこそ、神武軍はついに大和盆地へ君臨し、先に大乱を避けて大和を開発していた饒速日(物部氏の祖)の勢力と対等以上の大同盟を結ぶことに成功したのです。
100m超の巨大古墳の分布路は、九州から安芸・吉備・阿波を経て大和へと至る、この「日本建国・奇跡のグランドルート」の足跡そのものを美しくトレースしています。




