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誰かからの応援メッセージ  作者: 松山 さくら


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第三章 未来

 保健師の武山さんから与えられた、三か月間の猶予が折り返し地点を過ぎて、これまでの努力の甲斐あって、僕の体重は五キロ減った。なんとなくズボンのウエストが緩くなってきたような気がする。お腹の出っ張りがなくなり、身体が軽くなった。

 それら見た目の変化以上に変わったのは、僕の気持ちだろうか。心持ち明るくなった。これまでの休日と言ったら、家でゴロゴロしているだけだったけど、外に出てみたいと思うようになった。この齢になってまで、まわりの目が気になるというのも滑稽なことかも知れないけど、自分が周囲にどう映っているのかを気にしていたのも確か。

 普通のおじさんとして見られるならまだ耐えられるけど、ずんぐりとしたメタボおじさん、暑苦しそうな脂ギッシュなオジサンなんて、若い子たちに見られていたとしたらどうしようかと、頭を悩ませていた。

 できれば、ダンディなおじさん、スーツがよく似合う中年男性でいたい。男は外見じゃなくて内面が大事なんて言うけれど、人間、一人で生きている訳ではないし、誰かを思いやる心を持つことは確かに大事。そんな人の元には、自然に人が集まってきているではないか。

 だけど、それだけでは足りないとも思う。自分の健康を顧みない人が、誰かに説得力を持って接することができるだろうか。『心の平安は体の美しさ、健康な体は心の余裕』なんて諺めいたものを思いついてみたけれど、心身ともに健康であることが元気でいることの秘訣だと思う。まっ、そんなことを、したり顔で考えている時点で、僕は若い子たちから頭の固い変わったおじさんだと、決めつけられてしまうかも知れないけれど……。

 かくして、僕は久しぶりに雅代を誘って、街まで買い物に出かけた。駅まで歩く道は、まるでこれから遠足にでも出かける子供に還った気分。歩きながらそっと伸ばした僕の腕が雅代のものと触れて、自然に手を繋ぐ。最初は目を丸くして驚きの表情を見せていた雅代だったが、いつしか顔が赤く染まっていき、やがて穏やかな表情に落ち着く。

 若い頃は当たり前のように、毎日そうやって歩いていたっけ。それがいつからか、互いにスマホを見つめながら歩くようになり、自然に会話が減っていった。一緒に出かけるならまだいい方で、結婚何年目からは僕が散歩に誘っても雅代は乗って来なくなったし、雅代から買い物に付き合って欲しいと言われても、僕は疲れていることを理由に、家から出なくなった。

 夫婦って長く付き合っていると、互いに空気のような存在になるって言うけど、僕たちの場合は、本当の意味で空気になりかけていた。無味無臭、無色透明の空気に触れているかのように互いを意識しない生活、お互いにいてもいなくても大して変わらない日常……。

 だけど、どうせ同じ時間を生きるなら、一緒にいて毎日が楽しい方がいいに決まっている。ちょっとした互いの変化に気づいてそれを話題にしたり、いつもと同じ生活にほんの少し彩を添えてみたり……そうすることで、互いに思っていることを打ち明けて、理解し合って、また新たな一日を共に歩んでいくことができる。

 だから、駅に着いた僕は、エスカレーターに乗るのを止めて、雅代と階段を上る競争をした。あえぎ気味に駆け上がる僕に競り勝ったスリムな体型の雅代は、「やったぁ、私の勝ち」得意げに言う。飛び乗った急行電車の中では、電車の激しい揺れから雅代を庇うように、そっと腕をまわしてエスコートしたし、雅代が次々に店に入って買った荷物を、僕は両手いっぱいに抱えて笑顔を振りまいた。

 まるで気分は、僕たちが付き合い始めた頃のよう。お互いの仕事が休みの日に電車に揺られて、いろいろなところに出かけた。次に会う日が待ち遠しくて、一週間も前から僕は情報誌をめくって、デートで訪れるレストランや遊び場所を探していたかな。付き合い出して半年、腫物に触るようにそっと手を伸ばして初めて手を繋いだのも、今となっては眩い日の思い出。

 たまにはこうして、雅代と一緒に出かけるのも悪くない。本当は、もっと早くに気づくことができていれば、今の僕はもう少し変わっていたかも知れないけれど、それでも元気でいればいつだって雅代とデートを楽しむことができる。そのためにも、僕は健康な身体を取り戻すのだ。数年ぶりに、夫婦水入らずの時間を過ごした後、僕は、そう自分に誓ったのだった。


 だけど、そんな舞い上がった気持ちは、家に帰ってみて瞬時に吹き飛んだ。

「いい齢して、なによ。気持ち悪い」

 手を繋いで帰宅した僕たちの姿を見るなり、歩美が口に出した言葉だった。僕たちに向けたというよりも、正しくは僕に向かって発した言葉といった方がよいかも知れない。だって、歩美は、僕から雅代を奪い取るように、「お母さん、行こう」と言って、雅代とリビングに入っていこうとしたのだから。

「おい、歩美。なんだよ、別にお母さんと仲良くしたっていいじゃないか」

 呆気に取られた僕は、歩美の背中に向かってそう言うのが精いっぱいだった。

「お父さんは、何もわかっていないよ」

 歩美は立ち止まって、振り返ることなくそう言い返す。

「わかってないって、何をだよ」

 つい、むきになる僕。

「もういいよ。お母さん、お父さんなんて放ってあっちに行こう」

 それから、ガチャンとリビングの扉の閉まる音が、家の廊下に響き渡る。

 リビングに入るとき、ほんの一瞬、雅代が僕の方を振り向いて、口の動きで何かを伝えようとしていたが、それが何であるかは、頭に血が上っていてよくわからなかった。

 仕方なく行き場を失った僕は、いつものように二階の部屋へと向かう。せっかくいい気分になったと思ったのに、歩美のひと言で台無しになってしまった。

 椅子に腰かけた僕は、目の前の真っ暗なパソコンの画面をぼんやり見つめながら、「はぁ~っ」と、ひと際大きなため息を漏らす。

 よくよく考えてみれば、最近、ここに座ってため息ばかりついていたような気がする。最初は、雅代のこと。雅代との間に距離ができてしまい、そのことに悩んでいたのだったが、それが上手く縮まってきたかと思っていた矢先に、今度は歩美のことで頭をもたげている。

 高校三年生というのが、歩美にとって大事な時期であることはわかっている。目前に迫る大学入試という大きな壁、心身ともに大人の女性に近づいていき、青春という名のもとで、自分自身と向き合わなければならない過酷さ。

「子供ってのは、俺たちが思っている以上に、まわりのことをよく見ていて、自分のことを考えているものだ。だから、子供のすることにあまりガミガミ言わずに、そっと見守ってあげるに越したことはない」

 いつだったか、陽平がそんなことを語っていた。陽平には子供が三人もいるので、子育てに関する悩みは、僕以上だったかも知れない。

 それを聞いたときは、確か歩美はまだ小学校低学年の可愛い頃だったので、そういうこともあるのかくらいにしか感じていなかった。可愛さ余って、目の中に入れても痛くないほどに溺愛していたし、歩美もそんな僕の愛情を素直に受け取って、笑顔を振りまいてくれていた。

 それが、中学校に入った頃からだろうか。歩美が急に口を利かなくなってしまった。親として、学校でのことが気になるのは当然のことだろう。だから、僕は、毎日のように歩美と顔を合わせては、学校の勉強の進み具合はどうかとか、友達とうまくやっているのかをしきりに訊いた。

 最初は、面倒くさそうな表情を浮かべながらも、それなりに答えてくれていたと思う。だけど、いつしかそれが「別に、何もないよ」という答えに変わっていき、ついには訊いても答えてくれなくなってしまった。

 雅代は、そんな僕に、「この時期の女の子はみんな、こんなものよ。私があなたの代わりに話を聞いておくわ」と言ってくれた。歩美への接し方に頭を悩ませていた僕にとっては、雅代のその言葉は、まさに渡りに舟だった。

 だけど、それがいけなかった。雅代に任せてしまったばかりに、僕はいつからか歩美の気持ちを考えなくなってしまった。今、振り返ってみれば、多感な時期を過ごしていた歩美のことである。そんな僕の心境の変化を、いち早く感じ取っていたのかも知れない。その結果が、僕を無視すること。何か言いたいことがあれば、雅代を介した。逆に、僕も雅代に頼った。親として、それではいけないと思いつつ、仕事の忙しさを言い訳にして、歩美と正面から向き合おうとしてこなかった。

 そのツケが、今になって僕にまわってきているのだと思う。「うざい」とか「気持ち悪い」とか、最初は言われる度に僕の心は傷ついていたけど、今では慣れてしまった。もはや、そんな言葉を浴びせられても、何とも思わなくなってしまった。

「はぁ~っ」

 再び、大きなため息が漏れた。ため息をつく度に、僕の身体から気力が奪われていくように思えるのは、この齢になって心身ともに活力が衰えてきている証拠だろうか。

 目の前のパソコンの画面には、僕の疲れ切った顔が映っている。急速に痩せているがために現れていると思しき皺が、やけにくっきりと見えていた。


 画面の後ろのボックスの中で、電子機器が動き出す音が聞こえる。やや間を置いて画面に明かりが灯った。パッと表示されたのは、見慣れた家族写真。見飽きてしまったけど、改めて眺めてみると、僕と歩美との間に、目に見えない壁のようなものが横たわっているのが感じられて、落ち着かない。

 真っ先に開いてみたのは、メールソフト。これまでに二通も不明なメッセージを受け取っていただけに、新たにメールが届いていないかが気になったからだった。

 受信箱を開いてみると、案の定、メールが届いていた。差出人欄に『匿名』の二文字、件名には『生活習慣の改善への提案』と書いてある。

「生活習慣の改善への提案って、今さら何?」

僕は、心の中でそう呟きながら、震える指先でマウスを動かすと、メールを開いてみた。

『目標達成まであと少し。毎日、コツコツと頑張っている姿が素敵です。そこで、今回は私からの提案です。目標を達成した後、どんな生活を送りたいですか。まさか、目標を達成することが、ゴールと言う訳ではありませんよね。その後に、どんな毎日を送っていくかを考えておくことが、その先の幸せな日々に繋がっていくと思います。応援しています』

 今回は、これまでのものと比べて長い文章だったが、またしても不思議な文面だった。何度も読み返してみて、僕はいくつかのことに気づいた。

 最初に気になったのは、『毎日、コツコツと頑張っている姿が素敵』と書いてあるところ。この文章だけを読んでみれば、僕が健康を取り戻すために頑張っている姿を、これを送った人が見ているということ。保健師の武山さんとは、あれから一度も連絡を取っていないので、まさか武山さんが書いたということはないだろう。

 次に僕の目が留まったのは、『今回は』という文言。この言葉を使うということは、当然このメッセージを書く以前に同じようなことがあったということを意味している。メッセージの文面から、一通目のメッセージは雅代が、二通目は僕が倒れたことを知っている誰かが書いたものと思っていたけど、今回届いたものを含めて、同じ人が書いたということを示しているのではないだろうか。

 そして、最も大事なのは、目標を達成した後に、僕がどんな生活を思い浮かべているかを訊いてきていること。この人が言っていることはよくわかる。僕もその通りだと思う。今、僕が取り組んでいる数々のことは、健康を取り戻すための手段であって目的ではない。目的は、健康な身体を取り戻して、毎日を元気に過ごすこと。だから、目標体重まで減らしたら、それで終わりという訳ではないのだ。

『どんな生活を送りたいですか』……突然訊かれてしまうと、答えに詰まってしまう。これまで体重を減らすことだけを考えて、数々の苦行に立ち向かってきたけど、達成した日の後のことは深く考えたことはなかった。強いて言えば、取り戻した身体を維持することだろうか。よく無理にダイエットをすると、リバウンドが待っているって聞くけれど、これだけ辛い思いをしているのだから、もう二度と前の身体には戻りたくないと思っている。少しずつ目標に近づきつつある今の僕には、そうする自信だってある。

 そもそも、『どんな生活』かと、訊いているのは、僕の身体のことに限ってのことだろうか、それとも僕の生活というか、生き方にまで話を膨らませているのだろうか。

 身体に関しては、リバウンドをしないようにしたいし、ダンディなおじさんと呼ばれるように、服装にも気を遣っていきたい。身軽になった身体でやりたいことと言えば、爽やかな高原でプレイするテニスや、颯爽と雪原を駆け下りるスキーなどのスポーツだろうか。ジムに通ってみるのも悪くはないかな。陽平のような、鍛え上げた逆三角形のボディで佇むプールサイドなんて気持ちがいいだろうな……あぁ、だめだ、考え出したら止まらなくなってしまう。まっ、これまでにやってこなかったことに、チャレンジしてみたいということかな。

 あれこれ考えていたらつい夢が膨らんでしまって、気づけばパソコンの前に座ってから一時間近くも経過していた。部屋の扉の隙間からほのかに漂ってくるのは、カレーの匂い。今夜の夕食のメニューはカレーに決めたようなことを、帰りの電車の中で雅代が話していた。

 そろそろ、ダイニングに下りて行ってもよい頃だろうか。さっき、歩美はあんなことを僕に言っていたけれど、まさか本心で言ったのではないことぐらいはわかっているつもり。歩美も、毎日の学校や受験勉強で疲れているのだ。誰だって疲れているときは、不機嫌になったりするじゃないか。

 きっと今ごろは歩美のほとぼりは冷めていて、キッチンで雅代とお喋りしながら過ごしているのかも知れない。そんな歩美の気持ちを逆なでしないように、今は何も言わないでおこう。

 そう思って、メールソフトを閉じようとしたとき、開きっ放しにしていたメッセージのある言葉が、僕の目に留まった。それは、『私からの提案』という言葉と最後に綴られた『応援しています』のフレーズ。

『提案』とは、誰かに何かを勧めるときに使う言葉だ。そのようにすれば問題が解決するのではないかとか、こうすればさらにパフォーマンスが上がるかも知れないといったことを、相手に気づかせるためにすること。

 だけど、何かを勧めることの裏には、提案者の希望が隠れているもの。つまり、提案したことを実行に移して欲しいという願望。単に、相手のことを思って提案している場合もあれば、まわりまわって自分に何かが返ってくることを望んでいる場合もあるだろう。

 問題は、誰が僕に、幸せな日々を送って欲しいと思っているかと言うこと。『応援』しているからには、僕にとって身近な人であることは間違いない。誰だろう……武山さんとは親しい間柄と言うほどではないし、雅代は二通目のメッセージの文言から外れてしまう。僕が生活習慣の改善に取り組んでいることは陽平にも話していたけど、陽平がわざわざパソコンのメールというまわりくどい方法で、僕に何かを話してくることはちょっと考え辛い。

 そうなると、パソコンのメールアドレスを知っている人で、僕の親しい人といえば……。

「えっ、まさか?」


 ある意味で、天地がひっくり返るほどの衝撃だった。なぜなら、僕の頭に浮かんでいるのは、僕にそのようなメッセージを、最も送って来なさそうな人だったから。だけど、消去法でいくと、そうとしか考えられなかった。

 念のために、以前届いた二通のメッセージを表示させてみる。一通目のメッセージ、僕が生活習慣の改善に取り組み始めたことを、その人は知っていた。僕が直接話す機会がなくても、雅代を介して伝わっていたかも知れない。

 そして、二通目のメッセージ。僕が意識を失って手当てを受けたクリニックの医師は、出勤した看護師が倒れた僕の姿を発見して、通りがかりの学生の手を借りて、僕をクリニックの中へと運び入れたと話していた。僕の頭の中に浮かんでいるその人なら、毎朝、わざと僕から数分遅らせて、クリニックの前を通っていただろう。

 一つ、疑問が浮かび上がった。もしもそうだとしたら、僕が倒れていたことを、雅代に話していてもよさそうなもの。だけどそうしなかったのは、その人なりの僕に対する配慮があったのかも知れない。そう、僕が挫折することなく、最後までやり遂げることができるようにと……。

 あのメッセージを送った人が、今、僕が頭の中に思い浮かべている人だったとしたら、三通目のメッセージの意味が少し変わってくる。

 これは、その人の願望、いや、想いと言った方がよいだろうか、僕にやって欲しいと思っていることを、僕を応援するメッセージの形を取りながら、伝えてきているのだ。

 つまり、僕が目標を達成して新しい一歩を踏み出そうとするとき、僕がその人にどんな言葉をかけて、どのように接していくのかを、真剣に考えておいて欲しいということ。

 これまでの僕と言えば、その人に遠慮ばかりしていて、言いたいことを伝えてこなかった。そうすることがその人のためだとさえ、思っていた。だけど、本当のところは違った。目前に迫る人生の選択に圧し潰されそうになりながらも、その人は必死に迷っているのだ。いや、もしかしたら、すでに進む道は決まっているのかも知れない。そうだとしたら、きっと僕に背中を押してもらいたいのだろう。「大丈夫、頑張っていればきっとうまくいくよ」と、笑顔を見せながら……。

 気づけば僕の身体は震えていた。不安や後悔、情熱や希望といった、ありとあらゆる感情がごちゃ混ぜになって、僕の心の中を渦巻いている。

 僕は、ごくっと唾を飲み込むと、その人に気持ちを伝えようと決心した。

 そのとき、一階から雅代の声が聞こえた。

「あなた、夕飯できたわよ」

「今、行くよ」

 僕はそう返事すると、ゆっくりと立ち上がって、部屋を出た。

 電源を切り忘れたパソコンの待ち受け画面の中では、家族写真の中の三人が、ほんの少し顔をほころばせて映っていた。


「今日は夏野菜のカレーライスにしてみたの」

 雅代がテーブルの上に置いたカレー皿には、少なめのご飯の上に、カレールゥがたっぷりとかけられている。僕が生活改善に取り組んでいるというのに、カレー皿から溢れんばかりにルゥがかけられているのは、ナスや獅子唐辛子、カボチャやパプリカなどの野菜をふんだんに使っているからだろうか。ヘルシーなカレーライスと言う訳だ。

「へぇ、美味しそうだな。いただきます」

 僕は、野菜の鮮やかな色合いに食欲をそそられるように、スプーンを手に取った。

「うん、美味しい」

「あなたに喜んでもらえてよかったわ。野菜は、実家から送ってもらったものなの。ルゥもトマト風味だから、カロリーを気にしないで、たくさん食べて」

 僕が美味しそうに食べたことに満足したのか、雅代はニッコリ微笑んでいる。

「ありがとう。これなら、食べ過ぎを気にしないで、美味しく頂けるよ」

 思えば、雅代はまるで人が変わったかのように、僕に優しく接してくれるようになった。それは、僕が雅代に言われて生活習慣の改善に取り組んでいるからかも知れないし、その甲斐あって僕が明るくなって、雅代との会話が増えたことが影響しているのかも知れない。

 雅代は、僕が美味しそうに食べている姿を、目を細めながら見つめている。そんなに見つめられてしまうと、喉に詰まりそうで食べにくくもあったけど、頬を赤らめながらうっとりとした表情を浮かべているのは、まるで付き合い始めて間もない頃に、一緒にレストランに行ったときのよう。あのときは、僕の方が緊張してしまって、口に入れたものがほとんど喉を通らなかったけど……。

「あなた、顔が少しシャープになってきたわよ。頑張っている成果の現れね」

「えっ、あぁ、そうかなぁ。自分ではわからないけど……」

 カレーを口に運び始めた雅代に、僕はそう答える。続けて、「でも、そう言ってもらえると、嬉しいよ」とも。

 この齢になって誰かに褒められて嬉しいだなんて、子供じみているかも知れないけれど、やっぱり誰かに褒めてもらえるのは嬉しい。そうしたちょっとした言葉で、また頑張ろうと思えるから不思議だった。

 僕は、とっさに、パソコンに届いていた二通目のメールを思い浮かべた。

『楽しくなきゃ、続かないじゃない。無理せずに自分のペースで』

 その言葉の通りだと思う。いつもと違うことをするのは、不安もあるし苦痛を伴うことだってある。だけど、それでもそれを続けられるのは、強靭な忍耐力があるからではなくて、やっていて楽しいと思えるからだ。誰かに褒められて、嬉しくないはずはない。褒められて、いい気になっても構わないじゃないか。それが、更なるステップへの原動力になることを、今の僕は知っているのだから。

 ただ、そのメッセージを僕に送ってくれた歩美は、相変わらず僕たちの会話に入ってくることなく、カレーを口に運びながら、片手でスマホを操作している。

 その様子をチラ見しながら、僕は話しかけるタイミングを探していたが、歩美はそれをまったく受け付けないといった様子で、心の扉を固く閉ざしてしまっている。無理に話しかけようものなら、せっかく歩み寄りを図ろうとしてくれている彼女が、またいつ心の扉を閉ざしてしまうかが怖くて、僕の方からは話しかけられなかった。

 だから、仕方なく、僕は雅代とご近所さんのことや仕事のことなどを会話していたのだが、カレーを食べ終わった歩美が、ふと席を立ったかと思うと、

「ごちそうさま。これ、書いたけど、中身が合っているか、確認して」

 と言って、一枚の紙をテーブルの上に置いた。「確認して」とは、僕と雅代、どちらに対して言ったのだろうかと僕は考えを巡らせていたが、歩美がそそくさと自分の部屋に向かうのを見届けると、僕はその紙を手繰り寄せた。

『入塾申込書』の文字が目に入ってきた。どうやら、進学塾の申込書のようだった。

「あぁ、それね」

 歩美が残していった紙を見るなり、雅代が声を出す。

「歩美ね、大学の看護学部に入りたいんだって。キャリア教育って呼ぶのかな、高校で現役の看護師の人が話を聞かせてくれたみたいなのよ。それで、その人の話に感銘を受けたみたいで、『私も病気で苦しんでいる人のそばに寄り添いたい』って言い出してね。私、あなたには内緒で相談に乗っていたのよ」

「えっ、歩美が、看護師を?」

 声のトーンが一オクターブほど上がってしまったのは、それまで歩美の口から看護師の『か』の文字も聞いたことがなかったから。だけど、歩美は自分なりに考えて、その道に進もうとしているのだ。

「実を言うと、私、歩美を心配していたの。あの子、ああ見えて意外と引っ込み思案なところがあるでしょ。そろそろ受ける大学を決めないといけない時期なのに、どうしたらいいかわからないって話していたから、気を揉んでいたのよ。でもね、ちゃんと歩美は歩美で、自分の将来のことを考えていたの」

「そっ、そうだったのか……」

 語尾を下げたのは、僕の気持ちを表現するため。そんな歩美の大事な時期に、僕は歩美とかかわることを恐れてばかりいて、歩美と向き合ってあげられなかったことを、僕は後悔していた。

「その申込書を出してきたのは、きっとあなたに認めてもらいたかったからだと思うわ。ほら、そこを見て」

 雅代が指さしたのは、申込書の下にある保護者の署名欄。その上の欄までは、歩美の字ですべて埋まっていて、入塾を承諾する保護者の署名欄だけが空白のまま残されていた。

「歩美、あなたに背中を押してもらうのを待っているのよ。だから、ほら、このペンでサインをしてあげて」

「えっ、あぁ。おっ、そうだね。こっ、これは……」

 雅代から受け取ったペン……それを見て、微かな記憶を辿る僕。確か、結婚式のときに、受付カウンターで使っていたものだった。参列者たちに僕たちの堅結びした気持ちを表明するためのもの。永遠の愛を誓って、そこには『K&M』のイニシャルが彫られている。

「さぁ、あなた、歩美と私たちの未来のために……」

 僕は、目の前に座る雅代と目を合わせて「うん」と頷くと、震える指でペンを持った。それから、大きく息を吸うと、『本山圭介・雅代』と、ゆっくりと丁寧に書き込んだ。これまでの歩美に対する諸々の感情を、すべて吐き出すように……。

「それじゃ、この申込書は、私から歩美に渡しておくわ」

 雅代が申込書を取り上げようとしたとき、僕はそこに書かれていたあるものに視線が向かった。これがあれば、歩美と心を通わせることができる。そう思った僕は、

「ちょっと待って。大事な書類だから、書き間違いがないか、もう一度、目を通してみるよ」

 と、真剣な表情を作って見せた。

「あら、そう。それなら歩美、きっと喜ぶわ。それじゃ、私は夕飯の片づけを始めるわ」

 そう言って、鼻歌を歌いながら流し台に向かう雅代の背中を見届けてから、僕はポケットの中に入っていたレシートの裏に、アルファベットの文字列を書き写したのだった。

 それが、どんな毎日を送っていくかという、あの三通目のメッセージに綴られていたことへの、僕なりの答えだったのだから……。


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