表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰かからの応援メッセージ  作者: 松山 さくら


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/5

第二章 メッセージ

「お母さん、もうこんな時間、どうしよう。今日は模擬試験の日なんだけど……」

 娘の歩美の声が、夢の中で聞こえている。

「何時からなの? 場所は?」

 続いて聞こえてきたのは、雅代の声。

「えっと……九時十分に集合なんだ。場所は山手大学なんだけど……」

「えっ、九時十分だったら、あと一時間しかないじゃないの。それにしても、山手大学で模擬試験だなんて、随分遠いところであるのね。今から電車に乗ったんじゃ、間に合わないかも知れないわ」

「どうしよう……。学校の先生から、進路決定の大事な試験になるから、必ず受けるように言われているんだ……」

「う~ん」と、雅代が唸り声を出しているのは、娘のこの難局をどう乗り越えるべきかを、思案しているのだろうか。

「まぁまぁ、そんなに慌てなくたって、夢の中でのことなんだからいいじゃないか」

 僕は、他人事のようにそう呟いたつもりだったが、その声が雅代たちに届いていないのか、二人は「どうしよう」と、相談し合っている。

「仕方ないわ。こんなときは、お父さんの車よ」

 閃いたように、雅代の声のトーンが高くなる。

「え~っ、嫌だ。お父さんと一緒に行くなんて、朝からテンション下がっちゃうよ」

「そんなことを言ったって仕方がないでしょ。試験に遅れる訳にはいかないんだから」

「絶対に嫌だ。お父さん、汗臭いし、中年のオジサンみたいにいつもダサい恰好をしてばかりいるから、同じ空気を吸いたくないよ」

 悲鳴にも似た声で、歩美が声を放つ。

「えっ、汗臭い? オジサンみたいにダサい恰好?」

 僕は思わず声を出してしまった。いくらなんでも、ダサいオジサンはないだろう。これでもれっきとした歩美の父親だし、歩美が小さかった頃は、肩車をして公園を駆け巡ったものだった。

 僕は、夢の中で腹を立てていた。休日の朝に見る夢としては、なんとも後味の悪い夢。

 そう思っていたとき、「あなた、起きて。起きてよ」と、雅代の声がして視界が揺れた。いや、正確には、夢の中の視界が揺れているのではなく、その夢を見ている僕の身体が揺すられている。

「あぁ……どうしたんだ? 今日は日曜日だぞ。たまの休みなんだから、もう少し寝かせてくれよ……」

 そう呟きながら、目を開けてみると、そこには眉をハの字にしている雅代の姿があった。

「あなた、何のんきなことを言ってるのよ。大変なのよ、歩美が寝坊しちゃって、今日の模擬試験に間に合わないんだって。会場まで車で送ってあげてよ」

 その言葉に、さっきまで夢の中で繰り広げられていた雅代たちのやりとりを思い出してみる。いや、あれは夢じゃなくて、本当に雅代たちが会話していたのだ。僕はそれを夢うつつで聞いていた。歩美は今年、受験生なので、試験に遅れるようなことはあってはならない。そう思った僕は、ハッとなってバサッと飛び起きた。

 着の身着のまま、歩美を後部座席に乗せて家を出た僕は、ワンボックスカーを走らせている。休日の朝の高速道路は空いていた。この分では、なんとかギリギリ、目的地に到着できそうだった。

 考えてみれば、このワンボックスカーに乗るのは、久しぶりだった。家族でどこかに遠出するときに便利なようにと、およそ八年前に、以前乗っていた軽自動車から乗り換えたのだった。当時、僕の頭の中にあったのは、家族揃ってスキーに出かけたり、キャンプに行ったりしているシーン。雅代たちの前で颯爽とシュプールを描いたり、慣れた手つきでテントを組み立てて焚火をしたりする、頼りになる父親役をイメージしていたけど、それらを実現したことは一度もなかったっけ。

 今では、雅代に頼まれて、近くのロードサイドのお店に買い物に行くときに乗るだけの、単なるでかいだけの箱。ガソリンだけをやたらと消費する我が家のお荷物。

 バックミラーに目を遣ると、たまたま問題集から視線を外していた歩美と目が合ってしまって、「見ないでよ。気持ち悪いから」と言われた。別に見ようとしていた訳ではないけれど、歩美にとっての僕は、もはや見られるのも気持ち悪い存在になっている。

 そう言えば、さっき夢の中で聞いた歩美が放った言葉。

「お父さん、汗臭いし、中年のオジサンみたいにいつもダサい恰好をしてばかりいるから、同じ空気を吸いたくないよ」

 夢の中で聞いていたときはそれほどではなかったけれど、あれが今の歩美の僕に対する気持ちだと思うと、虚しさややるせなさが僕の心の中を支配していて、僕は、「はぁ~」っと、大きなため息をつくことしかできなかった。

 結局、試験会場までの四十分間、歩美とはほとんど何も話さなかった。会場に着いて、「頑張っておいで」と励ますつもりで声をかけると、歩美は「そんなのいいから。キモイし」と言い残して車から降りていき、僕の娘を思う気持ちはあえなく玉砕された。

 遠ざかっていく歩美の背中をぼんやり見つめながら、父親って何なのだろうかと、考えずにはいられなかった。

「はぁ~」

 さっきよりも大きなため息が漏らしてから、僕は来た道を戻り始めた。


 生活習慣の改善の第一歩は、食生活の改善からと、二回目の保健指導で会ったときに武山さんは言っていた。糖質の高いものを避けるだけでなく、塩分を控えるためにソースや醤油は少なめ、食事をしたときの血糖値の上昇を抑えるために、野菜から食べることなど、僕の食生活の中で改善できる余地はいくらでもあった。さらに言えば、糖質を摂ることにつながるからお酒を控えて、お腹いっぱいになるまで食べずに腹八分目を目安に食事をする。間食を止めて、ゆっくりよく噛んで食べる。面談のときのチェックリストのほとんどすべての項目に当てはまっていたので、逆に言えば、僕はそれだけ不摂生な食生活を送っていたということだった。

 雅代は、僕が保健指導を受けたときから、食事には気を遣ってくれていた。インターネットで調べて、僕が少しでも美味しく食べられるように、料理を工夫してくれてもいた。

 だけど、慣れって怖いもので、気をつけようと思っていても、ついいつもの調子で食べようとしてしまう。野菜中心の献立は、どこかもの足りない。ソースをつけないささみフライは味気ないし、白米や麺類を除いたメニューは食べた感じがしない。ビールをちびちびと飲むのもどこか寂しいし……。

 食事をすることでイライラが増していき、つい不機嫌になってしまう。それだけ、今までの生活の中で、食事が大きなウエイトを占めていたということ。人間、食べないと生きていけないのだから、美味しくお腹いっぱいになるまで食べていたい。だけど、健康のことを考えたら……。

 そんなある日のこと。いつものようにもの足りない食事を終えた僕は、二階の自分の部屋に上がった。そこは、子供が二人できたら子供部屋にあてようとしていた部屋だったけど、ずっと空き部屋のままだったので、いつしか僕が持ち帰りの仕事をするための部屋になっていた。

 パソコンの電源をつけてみる。今や、スマホがあれば、どこにいたって瞬時に情報を入手できるので、普段はあまり開かないパソコンだった。

 どうせ、以前に買い物をしたことのあるネットショッピングの案内や、セミナーの勧誘のメールしか届いていないと思いつつ、家族で共有しているメールソフトを開いてみた。

『匿名』と差出人欄に書かれた未読のメールが、目に入ってきた。件名欄には、『生活習慣の改善』の文字が並んでいる。

「何だこれ?」と思った。件名に『生活習慣の改善』と書かれているってことは、このメールは僕に宛てられたものだろう。だって、今、まさに僕はそれに取り組んでいるのだから。

 武山さんが送ってくれたものだろうか。確か、初回の面談のときに、申込書か何かを書いたことがあった。そこには、メールアドレスを記入する欄があって、仮にスマホのアドレスを書いて、仕事中に鬱陶しいメールが送られてくるのが嫌だったし、かと言って空白のままにしておくのに気が引けた僕は、とっさにこのパソコンのメールアドレスを書き込んだのだ。

 武山さんには、次回の面談までに目標を達成できるように頑張ると伝えていたし、その後の経過がどうであるかを気にかけて、親切にメールを送ってくれたのだと思った。

 あの人、会ったときは事務的に淡々と面談を進めていたけど、僕が挫折しそうになっているこのタイミングでメールを送ってきて、励まそうとしている。なかなか気が利くじゃないかと感心したのだったが……。

 浮き立つ気持ちを抑えながらメールを開いてみると、そこにはこんなことが書かれていた。

『頑張っていますね。その調子です。応援しています』

 読んだ瞬間、「何だこれ?」と、さっき発したものよりも一オクターブ、声のトーンが上がってしまった。

 どういうことだろうと、僕は首を傾げる。武山さんが送ってくれたものだと思っていたけど、文面からそうではないことがわかる。武山さんが書くのなら、『頑張っていますね』ではなくて『頑張っていますか』だろう。『頑張っていますね』ということは、メールの送り主は僕の頑張りを見ているということ。

 そこで浮かんだのが、雅代の顔だった。最近、仕事の帰りが遅いことに加えて、空腹が慢性化していて僕はイライラしてばかりいるので、なんとなく夫婦の会話が減っていた。

 そんな僕に、直接声をかけるのを遠慮した雅代が、僕を励ますつもりで、こっそりメールを送ってくれていたのだ。

 そうとわかったら、僕はなんだか嬉しい気持ちになった。ずっと長い間連れ添っていると、色々なことがマンネリ化してきて、感情を出さなくなる。昔は一緒に喜んだり笑ったりしていたことでも、あえて心を動かされることがなくなってしまい、無反応になってしまう。そうして続いてきた代わり映えのしない単調な夫婦生活。

 僕は、雅代が中学校のときにメッセージカードに書いていた言葉を思い浮かべた。

『十年後、二十年後、三十年後……圭介くんと一緒に笑っていられますように 雅代』

 口には出さないけど、雅代はそのことを今もしっかり覚えていて、三十年後の今、僕と一緒に何かを成し遂げて、笑っていたいと思っているのだ。だから、毎日ひと手間をかけながらも、僕のために栄養バランスに配慮した食事を作ってくれている。

 そう思ったら、なんだか心が温かくなってきて、陰で支えてくれている雅代のことが愛おしく思えてきた。なんて言うのだろう、まるで、初めて公園で雅代と話したときのような胸の高鳴りが、僕をふわっと浮き上がらせる。四十も後半へと突入していく大の大人が、心のときめきを感じているなんて、傍から見ればただ気持ちが悪いだけかも知れないけど、僕は本当に幸せな気持ちでいた。なんとしてでも、雅代の気持ちに応えたいと思った。

 だから、僕はパソコンの電源を落とすと、階段を駆け下りて行き、リビングの掃除を始めた。リビングが終われば、次はダイニング。そして、雅代がいつも過ごしているキッチン。流し台の排水溝を手でこすって、油まみれになりながら換気扇の汚れを落とした。せめてもの日頃の感謝の気持ちのつもりで。

 そんな僕の姿を、雅代は口をポカンと開けて眺めていたが、僕は雅代にリビングのソファーで寛いでいるようにすすめて、食後のコーヒーを淹れた。

 雅代がテレビのリモコンを触って、天気予報の画面に変えたのは、この暑い季節に雪でも降るのかと案じたからだろうか。

 その日、僕は鼻歌を歌いながら、家じゅうをきれいにしたのだった。


「よっ、圭介。その後、調子はどうだ? ダイエット、順調に進んでいるか?」

 昼休みに会社の休憩室でひと息ついていると、陽平が入ってきて、ズボンのポケットから煙草の箱を取り出して、ライターで火を点ける。

「あぁ、なんとか順調にね」

 僕は、笑みを浮かべながらそう答えると、飲みかけていたブラックコーヒーをひと口啜る。

 僕の右手の指に目を遣った陽平は、

「あれっ、圭介、煙草吸わないのか?」

 と、不思議そうな視線を向けてきたので、僕は首を振って、煙草を我慢していることを話した。

「へぇ、圭介、頑張っているじゃないか。やればできるものだな」

 陽平が、ふーっと煙を吐き出すのを、僕は視線を逸らしてやり過ごす。煙草をやめたと言っても、まだ最後に吸った日から一週間しか経っていない。今でも吸いたい気持ちはあるし、誰かが美味しそうにふかしているのを見ると、一本欲しくなる。だけど、その一本が命取りであることを、僕は知っている。これまでに何度か禁煙を試みてきたけど、「一本だけ」が災いして、何度挫折してきたことだろう。

「まぁね、この際だから、徹底的に生活習慣を改善してやろうと思って……」

 そう答えて、缶コーヒーを口に含む。口もとが寂しいので、この部屋に入ったときはそうしている。ガムを噛んでみるのもいいと、調べたインターネットのページには書かれていたけど、ガムには甘味料などが含まれているって言うし、ブラックコーヒーならカロリーがゼロに近くて、苦さが口の中を紛らわせてくれるので、徹底して生活習慣の改善に取り組んでいる僕には合っているような気がする。ちょっとやり過ぎかなとも思いつつ、頑張った結果が毎日乗っている体重計の目盛りに現れてきているので、今が踏ん張りどころ。

「陽平がそんなにもやる気を出したのなら、雅代さんも喜んでくれているんじゃないか」

「あぁ、そうだね。毎日、夕飯のメニューを工夫してくれているよ。それに……」

 そこまで話したところで、僕は一瞬、その先を話そうかどうか迷ったけれど、なんと言っても陽平は、僕たち夫婦のことを誰よりも心配してくれているから、そこは包み隠さずに話そうと思った。

「僕が頑張っているのを見ているからか、最近の雅代は、随分明るくなったような気がしてさ。こないだも、こっそり僕にメッセージを書いてくれたんだ」

 そう前置きして、僕はパソコンに送られてきたあのメールのことを話した。

 それを聞いた陽平は、吸っていた煙草の吸殻を灰皿の中にねじ込むと、眉を跳ね上げて驚いたような顔を見せた。

「へぇ、自分の気持ちをメールで伝えるなんて、なんだか雅代さんらしいな」

「そうだね。最近、僕の言葉数が少ないから、中学生の頃のように、メッセージに書いて残してくれているんだと思う」

「えっ、中学生の頃って?」

「どういうことだ」と言わんばかりに、訊いてくる陽平。

 僕はしまったと思った。陽平には、雅代が下駄箱にメッセージカードを残してくれていたことは、話していなかったのだ。だから、僕はとっさに、

「あっ、いや、なんでもないんだ」

 と、赤面しながら腕を振ってやり過ごす。

 僕が話を途中で遮ったので、陽平はどこか不満げな表情を浮かべていたが、すぐに平静を取り戻すと、僕を気遣うように漏らした。

「まっ、とにかく頑張るのはいいけど、くれぐれも無理は禁物だぞ。圭介には、大事な奥さんと娘さんがいるんだからな」

「あぁ、ありがとう。気をつけるよ」

 そう言いながら、そっと胸を撫で下ろす僕だった。

 

 次の日の朝、いつもの時間に目が覚めた僕は、身支度を整えて、野菜中心の朝食を摂った。以前なら、朝からお茶碗に軽く二杯は白米を食べていたけど、今、食べているのはキャベツの千切りに目玉焼き、そして無糖のヨーグルト。

 胃が小さくなったのか、それともゆっくり噛みながら食べているからだろうか。たったそれだけの食事でも満腹感が得られるから、人間の身体は不思議。

「それじゃ、雅代、行ってきます」

 玄関まで見送ってくれている雅代に笑顔を見せてから、僕は玄関を颯爽と出て行ったのだったが……駅までの道、バスに乗らずに歩いていると、急に立ち眩みがした。すっと意識が遠のいていく感じ。額には、べっとりと汗、いや、冷や汗をかいていて、それを拭おうとしたときに、僕は意識を失った。

「あれっ、ここはどこだ?」

 目を覚ました僕は、まわりをキョロキョロと見渡してみる。近くには、青のナース服を着た人が、高齢の男性と何やら世間話を交わしている。

「あっ、ようやく気がつきましたか」

 ベッドに横たわる僕をのぞき込むようにそう言ったのは、白髪の白衣姿の男性だった。

「えっ、こっ、ここは?」

「内科です。〇〇クリニックですよ」

 よく見ると、僕の右腕には針が刺さっていて、そこから細い管が天井に向かって伸びている。医療ドラマとかでよく見る点滴だとわかった。

 仕事に出かけたはずなのに、どうして近所の内科のベッドに横たわっていたのだろう。その答えは、白髪の医師によって聞かされた。

「あなた、運がよかったですね。うちのクリニックの前で倒れていたんですよ。出勤してきたうちの看護師がすぐに気づきましてね、それで通りがかった学生さんの力を借りて、うちに担ぎ込んだと言う訳です。血液を採って調べてみたら、あなた極度の低血糖でしたよ。今朝、ちゃんとご飯を食べましたか?」

「えっ、あっ、いや……」

 戸惑いながらも、今朝食べたものと、最近の食生活のことを伝えると、医師は腕組みをして眉間に皺を寄せながら言葉を発した。

「駄目ですよ。ちゃんと食べないと。ダイエットをしているのは身体によいことですけど、それで身体を壊してしまったら、元も子もないじゃないですか。短期間で達成しようと思わないで、長い目で見ましょう。単に辛いだけなら、長続きしませんよ。決して、無理をしてはいけません」

 まるで担任の先生が、生徒にこんこんと説教をしているときのような口調だった。

そのときになって、僕はようやく自分が置かれた状況を飲み込んだ。低血糖がどんな状態かはわからないけど、歩いていて意識を失ったのだ。それで、まわりにいた人たちに迷惑をかけてしまった訳で……こんな姿を雅代に見られたらなんて言われるだろうかと思うと、気が重い。

 そんな僕の気持ちを察したのかどうかはわからないけど、医師はこう続けた。

「ご家族に連絡しようかと思ったのですが、幸い症状が軽かったものですからね、あなたが気がついてからにしようと思っていました。うちのクリニックから電話を入れて、迎えに来てもらいましょうか?」

 僕は、手足を動かして、自分の身体が思い通りに動くことを確認すると、ベッドからゆっくり起き上がった。

「いえ、大丈夫です。どうやら自分で歩けるようですし、今日は大事を取って仕事を休むことにしますので。妻には、自分の口から説明します」

 医師はその言葉に納得したようで、点滴が終わるまで安静にしているようにと言って、僕の元を去っていった。

「はぁ~やれやれ」

 心の中で胸を撫で下ろす。医師には会社を休むと言ったけど、今日は大事な会議があって休めない。それにこんな時間に家に帰ったら、それこそ雅代に心配をかけてしまう。

 僕は、点滴が終わると、身体の自由が利くことを確認してから、家とは反対方向の駅へと向かったのだった。


 その日の夜、僕が家に帰ると、雅代はいつものようにキッチンで用事をしていた。

「あら、あなた、おかえりなさい。すぐに夕飯の準備をするから、先に着替えてきて」

 明るいその顔に、僕を心配している気配はなかった。通りがかりの誰かが僕のことを見ていて、妻に伝わっていたらどうしようかと、内心そわそわしていたけど、どうやら朝のことを妻は知らないようだった。僕は、「それじゃ、着替えて来るよ」とだけ言って、自分の部屋へと上がったのだった。

 普段より気持ち、ご飯を多めに食べた。その分、ビールは控える。医師からも、アルコールを控えるように言われていたから。

 それから持ち帰りの仕事を整理するために、部屋に上がった僕は、会社にいるときの癖でパソコンの電源を入れてしまった。

 電源が入ったパソコンの待ち受け画面には、家族三人で最後に旅行に行ったときに撮ってもらった写真が表示された。どこか強張った表情の僕と雅代、そして僕を避けるように、雅代に寄りかかるように立っている歩美。次に旅行に出かけたときは、誰が見ても仲の良い家族三人で写真に写りたいと思いつつ、僕は何げなくメールソフトを開いた。

 ネットショッピングの最新情報を知らせるメールとともに表示されたのは、またしても差出人欄に『匿名』と表示されたメールだった。件名には、『生活習慣の改善の注意点』と書かれている。

 僕は、とっさに「えっ?」と声に出してしまった。一階にいる雅代に聞かれなかっただろうかと、耳をそばだててみたが、幸いにも雅代が階段を上ってくる気配は感じられない。

 はやる気持ちを抑えつつ、メールを開いたとき、僕はまたしても「えっ、どういうこと?」と、声を出してしまった。

 メールには、こう記されていた。

『無理は禁物。楽しくなきゃ、続かないじゃない。無理せずに自分のペースで』

 読んだ瞬間、今朝のことを指しているのだと思った。医師からも、無理しないように言われたけど、あのとき、僕がいたベッドのまわりには、看護師の人と患者らしき人がいただけ。もしかして、そこにいた誰かが、僕にこのメールを送ったのだろうか。

 いやいや、それはないだろう。誰かが一部始終を見ていたとしても、第一このメールのアドレスを知らないじゃないか。医師は、雅代には連絡を入れなかったと話していたし、雅代は今朝のことは知らないはず。そうすると、前回のものとは違って今回のこのメールは、雅代以外の誰かが送ったことになる。差出人欄の『匿名』といい、用件だけを端的に書いている文面と言い、一体、誰が送ってきているのだろう……。しばらくの間、考えていたけど、それらしい人物は思い浮かばなかった。

 とにかく、このメールを雅代に見られたらまずいと思った僕は、慌ててメールソフトを閉じて、パソコンの電源を落とした。

 真っ暗になった画面を見つめながら、僕はさっきのメールに書かれていた文面を思い浮かべていた。確かに、あのメールに書かれていた通りだと思った。楽しく続けられなければ、やる意味がない。そもそも、生活習慣の改善に取り組むことで、身体の調子がよくなっていくのだとしたら、取り組むこと自体が前向きなことでなければならない。武者修行のように粉骨砕身の心構えで挑むのではなくて、取り組みの過程を楽しみながら無理なく行う。それが、長く取り組みを続けて、目標を達成していくための秘訣だろう。

 そういう意味では、さっきのメールは、僕に大事なことを教えてくれているとも言える。いつしか僕は、メールの先にいるまだ見ぬ応援者に思いを馳せていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ