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誰かからの応援メッセージ  作者: 松山 さくら


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第一章 圭介

「圭介、お疲れ様。今夜、一杯どう?」

 同期の陽平だった。

「あぁ、いいね。駅前の焼き鳥屋あたり……」

 調子に乗って、そう答える僕の脳裏には、すでに数名の渋い顔が浮かんでいる。年上の僕に向かって、平気であれこれ注文をつけてくる人間ドックの武山さんや、僕のことをただの稼ぎ頭としか思っていない妻や娘……この齢になると、誰かに指摘されるのが正直言って辛い。自分でもわかっていることを、論理立ててか感情の赴くままかの程度の差はあれど、あれこれ口うるさく言われると、無性に腹が立つ。

 とは言え、反論する武器を持たない僕は、結局、彼女らの言いなりになってしまうしかなかったのだが……。

 あれは、四月早々に受けた会社の健康診断の結果が返ってきたときだろうか、僕は何げなく通勤用の鞄の中から取り出した結果用紙を、ダイニングテーブルの上に置いた。表向きは後でゆっくり見るためだったが、実際はそんなのは見たくもなかった。一刻も早く、僕の持ち物の中から消し去ろうとして、とりあえずテーブルの上に置いただけだったが、それがいけなかった。

 先にお風呂に入っていた妻の雅代がいつの間にか上がっていて、僕が二階の自室で部屋着に着替えている間に見られてしまったのだ。

「あなた、これ、どういうことなの。『要観察』の項目ばかりじゃないの」

 僕の姿を見るなり雅代が目を丸くして声を荒げる。

「あっ、見ちゃったのか。まぁまぁ、そう目くじらを立てなくてもいいじゃないか。あまり声を大きくすると、歩美の受験勉強の邪魔になってしまうから……」

 なだめるように言ったつもりだったが、雅代にはそれが逆効果だった。

「あなた、なに、呑気なことを言っているのよ。血圧に体重、腹囲にコレステロール……あれもこれも……あのね、私たち、あなたには元気でいてもらわないと困るのよ。歩美だって、大学入試を控えていて、これからお金がかかる時期なんだからね」

 筋の通った目鼻立ち、卵型の顔、胸のあたりまで伸ばした黒髪は、初めて出会ったときとほとんど変わっていなかったが、優しかった妻がいつの頃からか、僕に牙をむくようになってしまった。

「わかってるよ。僕だって、自分の身体のことぐらい、ちやんと考えているよ。だけど、毎日、遅くまで仕事をしているんだから、たまには息抜きも必要なんだ」

「その息抜きが、遅くまで飲んで、休みの日に昼近くまでゴロゴロしているってことなの。あなた、いい? このままいけば、あなたはこの先、成人病に向かってまっしぐらよ」

 僕の身体のことを気遣っているような口調だが、実際は雅代の言葉の先に、「そうなれば、私たち、路頭に迷ってしまうことになるんだからね」と続くのだろう。

「あぁ、わかってるよ。これから、ちゃんと気をつけるから……」

「何を気をつけるって言うのよ」

 妻の言葉は、売り言葉に買い言葉で、このまま行くと、殴り合いの夫婦喧嘩が始まってしまいそうだった。もっとも、気の弱い僕は、妻に手を上げてしまったことは、お互いに二十七で結婚して以来、これまでに一度もなかったけれど……。

「わっ、悪かった。これから気をつけるよ。とっ、とにかく、その結果表に書いてある、人間ドックとやらを一度、受けてみるから。そしたら、僕が改善しないといけないところが、もっと詳しく見えてくるだろ」

 その言葉が、雅代の心の中にスッと落ちたのか、雅代は握りしめていた掌の力を抜いた。「そう、それじゃあ、ちゃんと受けてきて、話を聞いて来てね。あなたのことが嫌いで言ってるんじゃなくて、あなたの身体が心配なんだからね」

 みるみるうちに、雅代の強張っていた顔が緩まっていく。いつもの夫婦喧嘩のときのパターンだった。僕が折れることで、雅代の怒りがトーンダウンする。要するに、雅代は心配性と言うよりも、瞬間湯沸かし器のように、一気に感情のボルテージが上がるのだろう。だけど、ずっと上がりっぱなしの状態を維持できる訳ではなくて、相手が折れることで風船に穴が空いたように、急速に怒りが収まっていく。結婚したときは、少しも見せなかった雅代の側面だったが、僕との生活が長くなるにつれ、本性を現したということだろうか。やれやれ、女性は怖い……。

 

 かくして、僕は、夏の特別休暇を利用して人間ドックを受けてみたのだったが、そのときの結果は惨憺たるものだった。高血圧にメタボリックシンドローム、血糖高めに、心肺機能の低下、極めつけは苦痛に堪えて飲んだ胃カメラで見つかった腫瘍。幸い、採取してもらった検体を調べてもらったところ、悪性ではなかったので、ホッと胸を撫で下ろしたのだが、胃や食道が相当荒れているとかで、その後、内科で薬を処方してもらって飲むことになった。

 とにかく返ってきた結果表は、僕の心臓によくないものだった。それで、あの保健指導に声がかかったという訳。担当の武山さんは、事務作業をこなすかのように淡々と、僕の生活習慣の改善に向けての目標を立てていたけど、保健指導が何たるかもわからなかった僕は、ポカンと口を開けて話を聞くしかできなかった。

 今、思えば、もう少し、僕の気持ちに寄り添った対応をしてくれていたのなら、多少なりとも生活習慣の改善を頑張ろうと思えたかも知れないけど、向こうは向こうで一日に何人も相手にしているのだから、いちいち僕に感情移入している暇はなかったのだろう。

人間ドックを受けてから三か月後、一度目の面談で成果を見せられなかった僕は、さすがに次までは多少なりとも頑張らねばと意気込んでいた。

「ごっ、ごめん、やっぱり今日はやめておくよ」

 僕の口から意外な言葉が出たので、同期の陽平はきょとんとした表情を見せていた。

「どっ、どうしたんだよ、圭介。あれほど、俺の誘いを断らなかったじゃないか」

「いや、本当は陽平と飲みに行って、パーッと発散したいところなんだけどさ、人間ドックに引っかかってしまって、本腰入れて頑張らないといけなくなったんだ」

「人間ドックで? 俺なんて、今までに引っかかったことはないけどな。煙草を止めろと言われたり、酒の飲みすぎを注意されたことはあったけど……」

 それはそうだろう。実はこの陽平、僕の中学時代のクラスメイトだった。中学時代は、親友と呼べる間柄かどうかはわからなかったけど、当時からサッカーで鍛えていただけあって、今も逆三角形の体形を維持し、スーツを身に纏った姿は、男性美すら醸し出している。

 いつしか僕たちは会社を出て、駅へと歩みを進めていた。

「陽平とは違って、僕は学生の頃から運動とは無縁の生活を送ってきたからね。それに、ここにきて仕事が忙しくなってきて、煙草を止められず、酒の量も増えてきた。暴飲暴食の毎日を送っているから、引っかかるのは当然だよ」

 自分で自分をあざ笑うように、ほくそ笑む僕。

「もしかして、雅代さんに言われたのか?」

 陽平の口から妻の名前が出てきて、僕はたじろいだ。

「えっ、あぁ、それもあるけどね」

 このときの陽平の頭の中には、雅代のもの静かで控えめな振る舞いが浮かんでいることだろう。

 実は、雅代とは、中学校のときに同じクラスになった。つまり、僕は、かつての同級生同士で結婚したのだ。だから陽平は、雅代のことをよく知っている。

「へぇ、あのおとなしそうな雅代さんが、圭介にいろいろ言ったりするのかぁ。人は、見かけによらないものだな」

「まぁ、長く一緒に過ごしていると、相手の悪い面が色々見えてきて、言いたくもなるんじゃないかな」

 声のトーンを落として呟いたのは、雅代への遠慮があったからかも知れない。

「でも、圭介たち、お似合いだったじゃないか。俺、圭介たちを見ていて、将来一緒になるんじゃないかって密かに思っていたけど、本当にそうなったときは随分驚いてしまったけどな」

「あぁ、まぁ、昔のことだよ」

 そう返して、僕は地下鉄の駅へと続く歩道を、ぼんやりと見つめる。行き交う車のテールランプや、オフィスの窓から漏れる照明の明かりが、僕の網膜の中でセピア色に輝き出していた。


 あれは、中学三年生になったばかりのこと。もともと内気な性格だった僕には、友人と呼べる友人はいなかった。いじめられていた訳ではないけど、いつも一人で過ごしていた生徒と言えばよいだろうか。

 話しかけても、微妙な笑みを浮かべて頷くだけで、話に乗ってこない僕のことは、さぞやクラスメイトたちの目には、奇異に映っていたことだろう。いてもいなくても誰にも影響をもたらさない存在、空気のような存在だったと言えばよいだろうか。

 そんな僕に、声をかけてきたのがこの陽平だった。当時、陽平は、クラスの中心的な存在だった。勉強もできたし、部活のサッカーではエースを務めていて、女子たちからだけではなく、男子たちからも一目置かれていた。そんな陽平からいきなり声をかけられて、僕は目が飛び出してしまうほど、驚いたかも知れないし、恥ずかしがったかもしれない。

 だけど、そんな僕の様子に構わずに、陽平は持ち前の明るさで、当時人気のあったテレビゲームやコミック本のことを話してくれた。それらに耳を傾けているうちに、僕は不思議にも心地よさのようなものを感じた。自分のことを、誰かが気にかけてくれていることを知ったときに感じるような心の温かさ。友人と呼べる人がいなかった僕にとっては、いわば陽平がクラスの中で唯一の話し相手となった。もっとも、僕の方が陽平の話を一方的に聞くような関係だったけど、それでも教室に一人でポツンといるよりはましだった。

 当時の陽平には、付き合っている人がいた。相手は、隣のクラスにいる、サッカー部のマネージャーの女子生徒。くっきりした瞳に笑ったときにできるえくぼ、制服越しに映る肉感的なシルエットは、美しいと言うよりも可愛らしさがあった。

 陽平は、彼女とのことを遠慮なく僕に話した。それは、恋愛とは無縁だった僕に刺激を与えるためだったかも知れないし、そこまで深く考えることなく、ただ一つの話題として打ち明けてくれていたのかも知れない。

 そんな陽平の話を、僕は特に何を思うでもなく、いつも相槌を打ちながら聞いていた。羨ましいと思ったことはあったかも知れないけど、誰かと付き合うことなんて、自分とは縁遠いことだと思い込んでいたから、話を聞いていても不快に思ったことは一度もなかった。

 そんなある日、僕のクラスに一人の転校生が現れた。担任の先生が僕たちに紹介したのは、落ち着いた雰囲気の女子生徒だった。筋の通った目鼻立ち、胸のあたりまで伸ばした艶のある黒髪、窓から差し込む太陽の光を浴びて白く輝く肌は、当時の僕の頭の中に清楚という言葉があったのならば、まさにその言葉通りの雰囲気を醸し出していた。

 ひと目見て、僕の心の中に何かが灯った。自分でもわからない心のざわめき、身体が熱くなって、頭に血が上った。音を立てながら脈打つ僕の心臓、紅潮する顔、そんな身体の変化を、誰かに勘づかれやしないかと、心配になったほどだった。

 クラスの女子たちは、新しく来た彼女と仲良しになろうと、代わりばんこに話しかけていたけど、彼女は頑なにと言ってもよいほどに、女子たちと交わろうとしなかった。そのうちに一人、また一人と、彼女に近づく者が減っていき、いつしか彼女は休み時間を一人で黙々と読書をして過ごすようになっていった。

 男子たちも同様だった。やや女子たちに遅れて彼女に興味を示していたけど、女子たちが彼女から次第に離れていく姿を見ていて、いつしか『変わった子』というレッテルを貼るようになって、彼女とかかわろうとする者はいなくなった。

 一方の僕はと言うと、授業中も彼女のうしろ姿ばかりを見ていて、頭の中はまるで上の空だった。不意に、「本山、この問題に答えてみろ」と、先生から指名されて、「えっと、それは、その……えっと……」と意味の分からない言葉を連発して、クラスメイトたちから笑いものにされたことは数知れず。体育の時間には、グラウンドの向こうで遠慮気味にダンスを踊る彼女の姿に見とれていて、クラスメイトが蹴ったサッカーボールを顔面に食らってノックダウン。そんなときでも、僕は、彼女への思いを隠すことに必死だった。

「圭介、あの子のことが好きなんだろ」

 ある日の休み時間に、陽平からそう言われたときは、心臓が飛び出さんばかりに驚いた。

「えっ、いや……そんなことは……」

 きっと、腹の内を読まれて、僕はさぞかし間抜けな表情を浮かべていたと思う。

「否定するなって。圭介の様子を見ていたら、すぐにわかるよ。好きなんだろ。正直に言ってみろよ」

「えっ、あぁ、うん……ちょっと……」

 その後、圭介がどんなことを僕に言ったのかははっきりとは覚えていない。だけど、

「当たって砕ければいいじゃないか。今の圭介のように、自分の気持ちを伝えないでクヨクヨしているよりも、自分の気持ちを伝えてフラれた方がすっきりするぜ。それでまた、他の人を好きになればいいじゃないか」

 そんな風に、僕の背中を押してくれたことだけは確かだった。

 僕は決心した。いつまでも悩んでいないで、自分の気持ちを相手にぶつけようと。そう決めたら、今度は不思議な感覚に陥った。僕なら、何でもできるんじゃないかという、何の根拠もない自信のようなものがみなぎってきた。

 そして、ある日の放課後、一人で学校を出ようとしていた彼女を呼び止めて、僕は自分の気持ちを伝えた。前の夜、寝ずに考えた僕の最大級の告白の言葉。

「あのう、よかったら、僕と友達になってもらえませんか」ではなくて、「あっ、あのう、よっ、よかったら、いっ、いや、なんでもない……です」

 彼女がどんな顔をしていたかは、もはや見ることができなかった。僕は、顔を真っ赤にしながら、その場から必死に逃げたと思う。

 その次の日、もやもやした気持ちで学校に向かった。下駄箱を開けたとき、中にメッセージカードのようなものが入っていることに気づく。「何だろう」と思って、恐る恐る見てみると、そこにはこんなことが書かれていた。

「いくじなし!」

 そのメッセージの意味を取り違えた僕は、とっさに彼女に嫌われたと思った。だから、その日以降、僕は人が変わったかのように、頑なに彼女のことを見ないようにした。教室の席に着いていても、彼女が座っている左側には決して首をまわさないくらいの徹底ぶりで。


「何、水くさいことを言ってるんだよ。俺がお前たちをひっつけてあげたようなものじゃないか」

 陽平は、僕が弱気になっているのを感じたのか、声を大にして言った。その声があまりに大きかったので、まわりを歩いていたサラリーマンたちが僕たちの方を一斉に振り向いたほどだった。

「あぁ、そうだった。中学三年生のとき、僕が彼女に気持ちを伝えられなかったことに業を煮やして、陽平が僕たちの間を取り持ってくれた。そのことは、本当に感謝しているよ」

 そう答えて、僕は目を細める。

 あの後の僕ときたら、必死に彼女のことを避けようとしたものだから、どうしたものかと思っていた陽平が、僕の知らない間に彼女に近づいて、僕の気持ちを代弁してくれた。

 そのことがあったからか、あるとき僕が学校の帰りに、公園で一人寂しくベンチに座っていると、ふと誰かが近づいてくる気配を感じて、振り向いてみれば、それは彼女だった。彼女は、そのまま僕の横に黙って腰かけた。

 風になびく彼女の黒髪から、甘い香りが漂ってきて、僕は何が起きたのかわからずに、ただ唖然と口を開けたままでいた。

 彼女は口を閉じたまま、風に揺れるブランコをただ見つめている。僕は、勇気を振り絞って、彼女に話しかけた。

「この学校には、もう離れた?」

 もっと気の利いた言葉をかければよかったのに、緊張で震える僕の口からは、そんな言葉しか出なかった。だけど彼女は、そんな僕の意気地のなさを気に留めることなく、穏やかな口調で答えてくれていたっけ。

「うん、少しずつ。私、あまり人と関わるのが苦手だから……」

 それから、僕は、彼女の知らないこれまでの学校のことを夢中で話した。どの先生の話が面白くて、二年生のときに宿泊学習でどこに行ったかとか。取るに足らない話だったかも知れないけど、彼女は穏やかな表情を変えずに、ときおり頷きながら聞いてくれた。

 だいぶ時間が経って、僕たちはそれぞれ別の方向に帰って行った。別れ際に、「明日も頑張ろうね」と言い合って。

 中学時代に彼女と二人きりで話したのは、それが最初で最後だった。陽平だったら、彼女と話したことをきっかけにして、一緒に勉強したりデートでどこかに遊びに行ったりして、彼女との仲を深めていくことだろう。だけど、あいにく僕には、そんな背伸びをするような勇気はなかった。教室で彼女の姿を目で追っては、話しかけようか話しかけまいかをひたすら悩む日々が続き、そしていつしか、僕たちの目の前には、高校入試という大きな壁が立ちはだかった。テストの一点を上げるために、死に物狂いで机に向かう日々。そして、勝ち取った志望校合格。彼女と心を交わすことなく、僕は卒業の日を迎えることになった。

「だけど、今振り返ったら、すごいことだよな。圭介たち、ろくに会話も交わさずに卒業したというのに、同窓会で十年後にばったり会って、付き合いを始めるなんてな」

 陽平は、過去を振り返るように、しんみりと口にした。

「あぁ、あれはたまたまだよ。十年が経って、僕もそれなりに大人になっていたからね。営業の仕事に携わって、人と話すことにも慣れていた。久しぶりに会った彼女は、雰囲気こそ変わらなかったけど、大人の色気を帯びていて、僕の身体をビビッと何かが走ったんだ。『今度こそは』と思い立って、僕の方から声をかけてみたら、彼女も僕と同じような気持ちだったことがわかってさ。それで、とりあえず食事に行く約束をして……」

「やがて付き合い始めて、雅代さんと結婚したって訳だよな」

「まぁね」と答えて、僕は鞄の中からパスケースを取り出そうとした。地下鉄の駅の入口の前まで来ていて、この話にピリオドを打つつもりだったのと、陽平の誘いを振り切って、まっすぐ家に帰ることを表明するため。

 僕が示した行動の意味がわかったのか、陽平もポケットの中からICカードを取り出すと、最後にこう言った。

「圭介たちは中学校のときに出会って、ある意味で奇跡的なゴールインを果たしたんだからさ。雅代さんが、圭介の健康のことを気遣っているのもわかるような気がするよ。まぁ、そんな雅代さんの気持ちを考えて、無理のないように頑張ったらいいんじゃないか」

「あぁ、そうだね、無理のないように。ありがとう、そうするよ」

 そう言って、改札を抜けた僕たちは、そのまま混雑する駅のホームへと下りて行ったのだった。

 

 帰りの電車の中で、僕たちは人混みに揉まれながら、座席の前に並んで立っていた。陽平は、さっきからときどきニヤリと笑みを浮かべながら、スマホをチェックしている。

 僕は、目の前の窓に映った、疲れた表情を浮かべる自分の姿を見ながら、もの思いに耽っていた。

 さっき、陽平は僕と雅代との結婚のことを、『奇跡的なゴールイン』だと表現したけど、確かにその言葉の通りだと思う。十年ぶりに開かれたあの同窓会で、どちらかが欠席していたら交際が始まっていなかったし、僕は平気なように話したけれど、同窓会の後、迷いに迷って僕が勇気を振り絞って雅代の後を走って追いかけなければ、雅代と話すこともなかっただろう。

『三つ子の魂百まで』とはよく言ったもので、その諺通り僕の性格は、中学生の頃と少しも変わっていない。何か新しいことを始めるにしても、迷いに迷って結局二の足を踏んでばかりいるし、現状に流されることに慣れてしまって、自分を変えようともしない。

 もしかしたら、そんな僕の姿を見ていて、雅代がチャンスをくれたのかなとも思う。僕が、新しいことに挑戦して、何かを達成する喜びを味わうために。

 そんなことを思い巡らせていたら、なんだか急に雅代のことが愛おしく思えてきた。そんな雅代の笑顔のために、帰りにケーキでも買って帰ろうか。いや、駄目だ。そんなことをしたら、生活習慣の改善に取り組んでいる最中に何を考えているのかと、逆に怒られてしまうに決まっている。やっぱりケーキは、僕が目標を達成してからにしよう。そのときは、高級ホテルのとびきり美味しいケーキを買って帰るのだ。

 僕は、電車の揺れに身を任せて、そっと目を閉じた。浮かんできたのは、卒業式の日の光景。

 卒業式が終わって、家に帰ろうとしたとき、下駄箱の蓋を開けた。もう二度と覗くことのない下駄箱の中。その中に、見覚えのあるメッセージカードが入っていた。雅代が、かつて「いくじなし!」と、僕のことを罵ったあの花柄のカード。

「何だろう?」と思って、僕はそのカードを手に取ると、まわりに誰もいないことを確かめた。表向けたカードには、こう書かれていた。

『十年後、二十年後、三十年後……圭介くんと一緒に笑っていられますように 雅代』

 僕たちは卒業から、十年後に再会を果たし、二十年後には今、住んでいる家を買って、娘の歩美と三人で、ささやかながら幸せな生活を送っていた。そして三十年後の今がある。今からどんなことで、雅代と一緒に笑っていられるだろうか。

 仕事は四年前に管理職の立場に就いてから忙しい。家と会社とを往復するだけの毎日。最近は忙しさにかまけて、歩美の将来のことですら、雅代と会話したことがなかった。その歩美からは、疎ましく思われる日々が続いていて、ストレスを発散できるような趣味もない。このまま、一年、また一年と、加速度的に齢を重ねていくのかと考えると、虚しくなってくる。

「絶対に叶えてみる」

 僕は、窓に映った自分の顔に向かって、唇を噛みしめた。次回の保健指導までに、あらゆる数値を改善させるのだ。やったらできるという喜びを、雅代と分かち合いたいし、大学受験を控えた歩美の前で示してあげたい。

 そう思っていたら、俄然やる気が湧いてきた。

「よし、やるぞ」

 今度は、まわりの乗客たちに聞こえてしまったかも知れないけれど、僕は少しも気にしていなかった。


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