第四話 全部、猫の話だったはずなのに
騒動が収まると、令嬢たちは再び絵の周りに集まり始めた。
私は、ようやく戻ってきた筆を箱に収める。
手が少し震えていた。緊張が解けたせいだろう。
そう思った時、アレクシス殿下がそっと歩み寄ってきた。
「ソフィア嬢。少し、こちらへ」
案内されたのは、庭園の端にある小さな東屋。
薔薇の垣根に囲まれていて、茶会の賑わいは少し遠い。風が通るたび、葉の擦れる音がする。
殿下は私の手元を見た。
「赤ワインがついている」
「あ」
小枝を使ったせいで、指先に赤い染みが残っていた。
殿下はポケットからハンカチを取り出し、私の手を取った。
反射的に引っ込めようとしたけれど、殿下の指は離してくれない。
「嫌なら離す」
その一言で逃げ道を用意されると、かえって自分が何を望んでいるのかわかってしまう。
むしろ動けなくなってしまう。
「……嫌では、ありません」
声が小さくなった。
殿下はそれ以上何も言わず、私の指先を丁寧に拭いた。
布越しの温度が、妙にはっきりと伝わる。
それから、いつの間にか緩んでいた首元のリボンに手を伸ばす。
「触れても?」
「……はい」
殿下の指が、リボンを結び直す。
丁寧に、急かさず……紙の上で何度も描いた場面。
胸の奥が熱くなる。頬まで熱が上がっていくのがわかった。
「君は、こういうふうに大切にされたいのか」
殿下の声が、近くで落ちた。
髪……ではなく髭を梳かれる。
手首……ではなく肉球をそっと取られる。
泣きそうな顔を覗き込まれる。
逃げ道を塞がれるのに、乱暴ではない。
困った顔をした相手に、甘く追い詰められる。
全部、猫の話だったはずなのに。
私は笑って誤魔化そうとした。
「殿下。あれは猫の戯画でして……私は、ただ……読者の皆様に楽しんでいただけるように」
「ああ。でも、人物の方が得意なのだろう?」
心臓が跳ねた。
殿下は、私の目を見ていた。
「猫に置き換えても、手の描き方でわかる。視線の置き方でわかる。君は本当は、人の表情を描きたいのではないか」
「……それは」
否定できなかった。
人物画は禁止されている。
扇情的な絵は罪になる。
公爵令嬢として、そんなものを描きたいなどと言ってはいけない。
けれど……
「描きたいです」
言葉は、驚くほど小さくこぼれた。
「本当は、人物の方が得意です。猫も好きですけれど、私は、人の手や、目や、表情を描く方がずっと……でも、駄目なのです。この国では許されません。だから猫にしただけで」
「だけ、ではないだろう。君は、されたいことを描いていた」
「……っ」
いっそ逃げてしまいたい……そう思ったのに、でも、足が動かない。
殿下は、私の手を放さなかった。けれど、強く握り込むこともしない。
「責めているのではない」
「……はい」
「むしろ、羨ましいと思った。君は、自分でも隠している願いを、誰かを傷つけずに絵に変えた。皆が笑って、胸をときめかせて、続きを待つ物語にした」
「そんな立派なものではありません」
「僕には、そう見えた」
風が吹き、薔薇の香りが揺れた。
殿下は、少しだけ困ったように笑った。
「ソフィア。僕は今日、確信した」
「何を、でしょうか」
「僕は、あなたの一番の読者でいたい」
殿下の指が、私の手の甲をそっと支えた。
足元が頼りなくなった。
「そして、できるなら……あなたが描いてきたことを、現実で叶える男になりたい」
甘い言葉なのに、軽くない。
この人は、私の絵を読んだ。
猫の姿をした願望を見つけた。
そして、笑わなかった。
「それは……殿下が、私の黒猫様になるということでしょうか」
苦し紛れにそう言うと、殿下は真顔で考え込んだ。
「黒猫は少々、格好をつけすぎている」
「ご自分に厳しいのですね」
「だが、白猫を雨に濡らしたままにはしない」
その返しは、解釈一致過ぎて……私は思わず笑ってしまった。
笑ったら、胸につかえていたものが少しほどけた。
「殿下……私は、締め切り前になると機嫌が悪くなります」
「覚悟しておく」
「夜更かしもしますし、構図に詰まると、同じところを何度も描き直します」
「温かい茶を用意して、隣で待とう」
「差し入れは甘いものがいいです」
「いくらでも」
駄目だ。
この人は、私を甘やかす気でいる。
私が紙の上でしか描けなかったものを、本当にひとつずつ差し出す気でいる。
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