第三話 漫画家は、道具がないくらいで止まっていられない
その場にいた令嬢たちが息を呑む。
その中で、一人だけやけに涼しい顔をしている令嬢がいた。
カサンドラ・エインズワース侯爵令嬢。
美しい銀髪と、気位の高そうな薄紫の瞳を持つ彼女は、以前からアレクシス殿下に想いを寄せていることで知られていた。
そして、「にゃんこ夜会」に関しては、かなり面倒な読者の一人でもあった。
「あら、大変ですこと。日頃の準備が足りないのではなくて?」
カサンドラは、扇の陰で唇を上げた。
「そもそも黒猫様は、白猫などではなく、気高い銀猫と結ばれるべきですのに。作者がその程度では、物語の筋も知れますわね」
おまえ、そっちの恨みもあるんかい。
心の中で突っ込んだが、口には出さなかった。
ここで慌ててもしかたがない。
前世、締め切り直前に道具一式を紛失した経験は一度や二度ではない。
液晶タブレットが壊れたこともある。ペン先が折れたこともある。保存に失敗して、三時間分の作業が消えたこともある。
それでも原稿は出した。
漫画家は、道具がないくらいで止まっていられない。
私は深く息を吸った。
薔薇の香りに混じって、土と水の匂いがした。近くで庭師が剪定したばかりなのだろう。足元には、細い枝が数本落ちている。
「大丈夫です。代わりの物で描かせていただきます」
私は顔を上げた。
近くにいた庭師に声をかけ、剪定したばかりの小枝を一本借りる。
それから、給仕の盆に乗っていた赤ワインの杯を取った。
会場がどよめく。
「ソフィア嬢、本当にそれで?」
「はい」
小枝の先を少し折り、赤ワインを含ませる。
紙に触れた瞬間、線は筆よりも荒く、滲みも強かった。細い毛並みは描けない。繊細な陰影も難しい。
ならば、線を減らせばいい。
滲みは影にすればいい。
荒さは勢いに変えればいい。
私は白い紙の上に、二匹の猫を描き始めた。
雨に濡れた白猫。
逃げようと一歩引きかけた前足。
けれど、その爪は立っていない。
黒猫は、白猫の前に立ちはだかっている。
威嚇ではない。
捕食でもない。
自分の外套を広げ、白猫を雨から隠すようにしている。
白猫のリボンはほどけかけていて、黒猫の片前足がそれに触れている。逃げ道を塞ぐ尻尾は、強引に巻きつくのではなく、白猫の足元にそっと置かれている。
線を引くたび、会場の音が消えていった。
小枝の先が紙を擦る音。
ワインの匂い。
風に揺れる葉の気配。
自分の呼吸。
前世で何度も描いた構図。
でも今、紙の上にいるのは誰だろう。
白猫は、私だ。そう気づいた瞬間、喉が少し詰まった。
違う。これは猫。ただの猫の戯画。そう思おうとしても、手は止まらなかった。
雨に打たれても平気な顔をしている白猫。
強がるその子を、黒猫が黙って迎えに行く。
描き終えた時、庭園は静まり返っていた。
小枝を置くと、次の瞬間、拍手が起こった。
「まあ……」
「すごいですわ」
「筆がなくても、こんなに」
「白猫ちゃん、また強がっておりますわね」
「黒猫様……」
令嬢たちの声が重なる。
王妃陛下も、ほう、と息を吐いた。
「見事ですわ、ソフィア嬢」
アレクシス殿下は、私の絵の前で足を止めていた。
その青い瞳が、じっと白猫を見るその眼差しに、私は急に落ち着かなくなる。
「あの、殿下。これは即興ですので、細部がかなり荒く……」
「この白猫は、逃げたいのではないな」
「え」
「追いかけてほしいのだろう。拒む形を取らなければ、望んでいることを知られてしまうから」
「……猫です」
「ああ。猫だ。だが、この猫を描いたのは君だ」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
その時、控えていた侍女の一人が、恐る恐る進み出た。
「あの……申し上げてもよろしいでしょうか」
王妃陛下が目を向ける。
「申してみなさい」
「実は先ほど、エインズワース様が、ソフィア様の画材箱に触れているのを見ました」
「なっ」
カサンドラの顔色が変わる。
周囲の視線が一斉に彼女へ集まった。
「ち、違いますわ。わたくしは、ただ……」
「証拠の筆は、エインズワース侯爵家の侍女が控えていた部屋から見つかっております」
近衛の一人が進み出て、布に包まれた筆を差し出した。
私の筆。
カサンドラの唇が震える。
「わ、わたくしは……ただ、あの絵が間違っていると思っただけですわ。黒猫様には、もっと相応しい相手が」
「猫の相手を決めるために、王家の茶会で盗みを働いたのですか」
王妃陛下の氷のように冷たい声に、カサンドラは言葉を失った。
「王太子殿下への横恋慕なら、まだ人の愚かさとして理解もできましょう。けれど、物語の猫にまで己の欲を押しつけ、作者の手を奪おうとするなど……嘆かわしいこと」
令嬢たちの視線が、同情から軽蔑へと変わっていく。
「銀猫派の面汚しですわ」
「推すなら品位を持つべきです」
「黒猫様にも銀猫様にも失礼です」
そこ? 突っ込みたかったが、さすがに黙った。
カサンドラは真っ青な顔で連れて行かれた。
盗みそのものに加え、王家主催の茶会を妨害した罪は軽くない。少なくとも、しばらく社交の場に顔を出すことはできないだろう。
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