第二話 王太子が古参読者だった
「そなたか。あの評判の絵師は」
国王陛下の低い声に、私は深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません。風紀を乱すつもりは……」
「乱れておらぬ」
「はい?」
「皆、行儀よく猫を愛でておる」
国王陛下は真顔だった。
隣で、王妃陛下がそっと扇を下げる。その瞳は、なぜかきらきらしていた。
「ソフィア嬢。白猫ちゃんが黒猫様の外套にくるまれた後のお話は、いつ拝見できますの?」
王妃陛下も読者だったことに、私は気が遠くなりかけた。
「あの……恐れながら、陛下」
「よい。申せ」
「私の絵は、問題ないのでしょうか」
「人物ではなかろう」
「猫です」
「ならば猫である」
国王陛下の判定は、驚くほど雑だった。
ただ、雑で助かった。
その日から、「にゃんこ夜会」は非公式ながら王家公認のような扱いになった。
もちろん、公に売ることはできない。けれど、王妃陛下主催の茶会で絵が披露されるようになり、令嬢たちはますます熱狂した。
そして事件は、さらに大きな方向へ転がっていく。
「――君が、噂の絵師どのか」
王妃陛下の茶会で声をかけてきたのは、この国の王太子アレクシス殿下。
輝くような金髪に、湖の底を思わせる青い瞳。涼やかな顔立ちに、隙のない物腰。誰が見ても、次代の王にふさわしい青年だ。
そして、その手には一枚の絵があった。
黒猫が、白猫のリボンを結び直している絵である。
よりによって、それ。
「僕も三作目から読んでいる」
「で、殿下も……?」
「黒猫が白猫の足元に手袋を敷いた絵を見た時から、作者に会いたいと思っていた」
内心、うわぁ、と叫んだ。
三作目って、だいぶ古参ではないか……
だが、顔には出さない。公爵令嬢の表情筋は、こういう時のために鍛えられている。
「この黒猫は、白猫を振り回しているようで、実は一度も傷つけていない」
「……はい」
「白猫も、逃げるふりをしているが、本気で拒んではいない」
「猫ですので」
「猫にしては、随分と人の心に近い」
息が止まりかけた。
アレクシス殿下は、絵を眺めたまま静かに続けた。
「人物画が禁じられているから猫にした。そこまでは誰でもわかる。だが、この絵が面白いのは、抜け道を見つけたところではない」
「……では、どこでしょうか」
「誰かに大切に扱われたいという願いを、笑える形に包んでいるところだ」
胸の奥を、細い針で突かれたような気がした。
令嬢たちは、猫を愛でる。
王妃陛下は、続きが気になると言う。
国王陛下は、猫だから問題ないと笑う。
けれど、この人は違う。
絵の奥にあるものを見ている。
「ソフィア嬢」
「はい」
「今度の庭園茶会で、皆の前で一枚描いてもらえないだろうか」
「え」
「無論、無理にとは言わない。ただ、あなたがどうやってこの猫たちに命を吹き込むのか、見てみたい」
言葉は丁寧だった。
しかし、王太子からの依頼である。
無理にとは言わない、の中に含まれる圧は、全然無理ではない顔をしていない。
「……私でよろしければ」
私は頷いた。
そして、頷いてから後悔した。
人前でお絵描き実演。それすなわち、ライブドローイング。
前世でも配信作画は苦手だった。手元を見られていると思うだけで、線がぶれる。タイムラプスでの撮影すら面倒だったのに。
しかも今世は、紙も筆も高価だ。やり直しもきかない。
それでも、王太子殿下にあんなふうに言われてしまったら、逃げられなかった。
茶会当日。
会場となった王城の庭園には、令嬢たちがずらりと居並んでいた。
初夏の風が薔薇の香りを運んでくる。噴水の水音が涼しげに響き、白いテーブルクロスの上には焼き菓子と果実水が並んでいる。
どの令嬢も、私の一挙一動を見逃すまいと目を輝かせていた。
王妃陛下は上機嫌だった。
アレクシス殿下は、少し離れた場所からこちらを見ている。
その視線に気づくと、指先が落ち着かなくなった。
大丈夫。
猫を描くだけ。
いつものように、黒猫と白猫を描くだけ。
そう自分に言い聞かせ、私は画材の入った箱を開けた。
そして、血の気が引いた。
「……ない」
筆がない。
確かに自宅を出るときにはあった、大事な特製の筆が、一本残らず消えている。
細い線を引くための筆も、毛並みを描くための筆も、影を落とすための平筆もない。昨夜、自分で確かめて箱に入れたはずなのに。
会場のざわめきが、耳の奥で遠くなる。
「どうした」
アレクシス殿下が近づいてきた。
私は箱の中を見せた。
「筆が……誰かが持ち去ったようです」
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