第一話 私の前世の得意技が、まるごと封じられていた
気づけば、私はとある公爵家の令嬢――ソフィア・フォン・レーヴェンハルトになっていた。
前世の記憶はある。
締め切りに追われ続けた成人向け漫画家としての人生。アシスタントへの謝罪、担当編集への土下座、寝不足のまま描いた原稿、机の下に転がった栄養剤の瓶。
最後に覚えているのは、液晶タブレットの上に突っ伏した自分の腕と、まだ白いままだった最後の一コマ。
目が覚めたら、豪華なレースの寝台に寝かされた五歳児だった。
十三年かけて、私はこの世界のルールを把握した。
レーヴェンハルト公爵家の一人娘として、礼儀作法も、歴史も、社交も、刺繍も、楽器も、それなりに身につけた。身につけたが、前世から持ち越したものもある。
絵だ。
幸い、絵の才能は今世にも引き継がれていた。
父も母も、私が描く風景画や花の絵をたいそう褒めてくれた。家庭教師たちも、将来は王立美術院に作品を寄せてもよいのではないかと口を揃えた。
けれど、私にはひとつだけ深刻な問題があった。
この国では、扇情的な人物画の頒布が固く禁じられている。
人物の肌を過度に見せる絵。
男女の親密な姿を描いた絵。
見る者の情欲を煽ると判断される構図。
それらはすべて、風紀紊乱の罪に問われる。
私の前世の得意技が、まるごと封じられていた。
もちろん、今世で危険な橋を渡るつもりはない。公爵令嬢が禁制の絵を描いて捕まるなど、家名に泥を塗るどころでは済まない。父は卒倒し、母は寝込み、私は修道院送りだ。
だから私は、花を描いた。
風景を描いた。
小鳥を描いた。
花瓶を描いた。
褒められた。
喜ばれた。
何度も額装された。
けれど。違う。
私は、人物を描きたかった。
正確に言うなら、ただ人物を描きたいのではない。
髪を指先ですくわれる瞬間。
乱れたリボンを結び直される瞬間。
逃げようとした手首を、痛くない強さで捕まえられる瞬間。
泣きそうな顔を覗き込まれ、声を抑えて名前を呼ばれる瞬間。
そういう、誰かが誰かを大切に扱う場面を描くのが、私は好きだった。
前世では、それを仕事として描いていた。
求められる構図があった。売れる表情があった。締め切りがあり、修正指定があり、台詞の赤字があった。
けれど、原稿の隅に一番時間をかけていたのは、肌の露出ではなく、手の位置だった。
乱暴に見えて、実は壊れ物に触れるような指。
逃がさないのに、痛めつけない腕。
拒む顔をしているのに、相手の服を離せない女の子の手。
そういうものを描いている時だけ、息がしやすかった。
たぶん私は、本当は描きたかったのではない。
されてみたかったのだと思う。
けれど、今世ではそれを人物で描けない。
ならば、どうするか。
「……猫なら、いいわよね」
規制の条文を隅々まで読み込んだ結果、私はある結論にたどり着いた。
人物が駄目なら、猫にすればいい。
しどけない仕草も、色っぽい流し目も、甘く追い詰められる構図も、猫の姿に置き換えてしまえば、ただの動物の戯画である。
白猫のほどけたリボンを、黒猫が器用な前足で結び直す。
雨に濡れた白猫を、黒猫が自分の外套にくるむ。
逃げようとする白猫の尻尾を、黒猫がそっと押さえる。
眠れない白猫の隣に、黒猫が黙って丸くなる。
絵筆を握る私の指先は、久しぶりに震えていた。
楽しい。
まずい。
とても楽しい。
こうして生まれたのが、貴族令嬢たちの間で密かに回し読みされる一枚絵――「にゃんこ夜会」シリーズだった。
最初は、本当に数枚だけのつもりだった。
仲のよい友人に、冗談半分で見せたのだ。
「ソフィア様、これは……」
「猫よ」
「猫ですわね」
「ええ。猫よ」
「この黒猫様、白猫ちゃんのことを甘やかしすぎでは?」
「猫だから」
「白猫ちゃん、嫌がっている顔をしているのに尻尾が絡みにいっていますわ」
「猫だから」
友人はその日、絵を胸に抱えて帰った。
次の日、別の令嬢が来た。
「ソフィア様。白猫ちゃんが雨に濡れる前のお話はありますの?」
「ありません」
「描いてくださいませ」
三日後には、また別の令嬢が来た。
「黒猫様には、昔から白猫ちゃんを見守っていた設定がありますの?」
「ありません」
「では、今からありますわね?」
なぜ私より読者の方が設定に詳しくなっているのだろう。
そう思った頃には、もう遅かった。
王都の貴族令嬢たちは、「にゃんこ夜会」の新作を求めて、茶会のたびにそわそわするようになった。
「見て見て、新作よ! この夜会服の刺繍、すごい描き込みですわ」
「黒猫様、白猫ちゃんの足元に自分の手袋を敷いておりますのね」
「尊い……」
「でも、私は銀猫様との組み合わせも捨てがたいですわ」
「駄目ですわ。黒猫様は白猫ちゃん一筋です」
その会話を聞きながら、私は扇の陰で遠い目をした。
令嬢たち、意外と業が深い。
匿名で描いていたはずだった。
けれど、筆致というものは隠しきれない。花の描き方、布の陰影、猫の目元。
私が公式の場で出している絵と比べれば、わかる者にはすぐにわかってしまう。
ある日、私は王城に呼び出された。
案内されたのは、王妃陛下の私的な応接室。
高い窓から柔らかな午後の光が差し込み、白薔薇の香りが漂っている。磨かれた床は冷たく、靴の底からじわりと緊張が上がってきた。
部屋の奥には、国王陛下と王妃陛下が並んで座っていた。
終わった。
転生した公爵家の娘としての人生、十八年で終了である。
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