第3話_剣を置く理由
開始の鐘が鳴ると、観客席の歓声が一斉に上がった。
セリアは第三門の手前に立ち、赤い救護布を腕に巻いた。敵役の兵士たちは通路の両側へ散り、候補生の進路を塞ぐための木盾を構える。イーノは北側の高台に上がり、合図用の旗を持っていた。
競技場には三つの関門がある。第一門は幅の狭い石路を模した木の通路、第二門は傾斜のついた足場、第三門は重い木枠が落ちて退路を塞ぐ仕掛けだ。候補生は第一門と第二門を抜けて中央の旗を取り、帰りは第三門を通って出発点へ戻る。全員が出発点へ帰れば合格となる。速さは同点の場合にだけ比べる。それが長年続いてきた帰還演習の規則だった。
ところがオルフェンは、観客席に向かって別の説明を始めた。
「本日は、前進する勇気を測る。敵を恐れず、誰より早く旗を持ち帰った班こそ勝者だ」
彼は規則の肝心な部分を省いた。セリアは声を上げかけたが、イーノが高台から合図した。観客に聞こえない距離でも、彼が指さすものは分かる。第一門に入ったルカが、すでに足を引きずり始めていた。
三人は木盾の間を進んだ。フェルンが先頭に立ち、トビアスが後ろからルカを支える。敵役の兵士が柔らかい布を巻いた練習剣を振るうと、フェルンは剣で受け、狭い通路から一歩引いた。無理に押し返さず、仲間が通れる幅をつくる。セリアが教えた動きだ。
「退くな!」
オルフェンが指揮台から怒鳴った。フェルンは肩をすくめたが、すぐに体勢を戻した。敵役の剣を受け流し、トビアスに合図する。トビアスはルカを通し、最後に自分も通路を抜けた。
観客席の一角から拍手が起こった。目立つ突撃ではないが、三人の連携は悪くない。セリアは救護係の位置からそれを見届け、初めて少しだけ肩の力を抜いた。
第一門を抜けたところで、ルカが立ち止まった。痛む足を庇いながら走ったせいで、呼吸が乱れている。トビアスが水を渡そうとすると、オルフェンは指揮台の鐘を一度叩いた。
「休むな。旗を取れ!」
ルカは水を断り、再び走り始めた。セリアは彼の後ろ姿を見て、助けに行きたい衝動を抑えた。まだ自力で歩ける。彼が助けを求める前に駆け寄れば、オルフェンの宣言どおり資格を失わせる口実を与えるだけだ。
第二門の傾斜路には、敵役の二人が待ち構えていた。通常は一人ずつ相手をする場所だが、オルフェンが急に手を上げ、追加の兵士を三人送り込んだ。候補生の側からは見えない角度に立たせ、退路を塞ぐ。
「そんな配置は聞いていない」
セリアの隣で、救護係を補佐する兵士がつぶやいた。イーノも高台から異変に気づき、敵役の停止旗を振った。ところが追加された兵士たちは、オルフェンの指示だけを見て動き続けた。
フェルンは背後に人影を見つけ、足を止めた。狭い斜面で六人に囲まれれば、正面から押し返すのは難しい。セリアは何度も練習した合図を思い出した。三人で足場を確かめ、互いの背中を見失わずに下りる。敵を倒すより先に、逃げ道を残す。
「三歩、退こう」
トビアスが言った。フェルンは頷き、ルカの肩を支えた。三人は剣を前に向けたまま、一歩ずつ斜面を下がる。敵役が追ってくれば、広い平地で受けられる。良い判断だった。
「臆病者ども!」
オルフェンが指揮台から駆け下りた。彼は追加の兵士を押しのけ、自ら木剣を抜いた。指揮官が演習に参加する予定はない。観客は突然の登場を見せ場だと思ったらしく、歓声を上げた。
「お前たちは騎士になる気があるのか。逃げるなら今すぐ門から出ていけ!」
ルカが立ち止まった。父親のことを思い出したのだろうか。彼は唇を噛み、痛む足で斜面を蹴った。トビアスが制止するより早く、オルフェンの木剣へ向かって突進する。
セリアは駆け出した。だが彼女が斜面に着くより先に、ルカの足が滑った。膝を強く打ち、身体が横向きに倒れる。木剣が手から離れ、足場を転がった。
「立て!」
オルフェンは倒れた少年の前に立ち、剣先を向けた。ルカは片足を引き寄せようとしたが、痛みで動けない。セリアは赤い布を見せながら斜面へ踏み込んだ。
「負傷者です。演習を止めてください」
セリアはルカの顔色を確かめた。少年は痛みをこらえている。
「救護係は引っ込んでいろ。自分で立てないなら失格だ」
オルフェンは剣を握り直した。セリアは刃先から目を離さない。
「立てるかどうかの判断は、負傷を確かめてからです」
オルフェンは彼女の進路を塞いだ。セリアが右へ回ると、彼も右へ動く。観客席からは何が起きているか分かりにくい。彼女が元婚約者に食ってかかっているようにしか見えないだろう。
「セリア、下がれ。お前が触れればこいつの資格は終わりだ」
イーノは斜面の上で足を止めた。二人の間を見比べている。
「資格より足が大切です」
「甘いことを言うな!」
彼が剣を振り上げた。セリアは木剣で受けようとしたが、その前にイーノが斜面を駆け下りてきた。
「止めろ、オルフェン。敵役の配置を変えたのはお前だろう。責任を候補生に押しつけるな」
「敵役の指揮官が私に命令するのか」
「演習中の安全管理は俺の役目でもある」
二人が睨み合う間に、フェルンとトビアスがルカの両側へ膝をついた。セリアは少年の顔色を見た。意識ははっきりしているが、足首を動かすと顔を歪める。
「ルカ、無理に立たなくていい。どこが一番痛い?」
「膝……いや、足首です。教官、俺、失格になるんですか」
「まだ誰も決めていない」
セリアは断言した。彼女自身、教官職を失いかけている。今ここで何を約束できるのか分からない。それでも、少年に恐怖だけを抱かせてはならなかった。
「フェルン、トビアス。彼を運べる?」
「運びます」
トビアスがすぐに答えた。フェルンは周囲の敵役を見てから、ルカの腕を自分の肩に回した。二人で支えると、少年は片足を地面につけずに立てる。
「旗は?」
ルカが尋ねる。トビアスは遠くの中央台を見た。旗はまだ取っていない。二人がルカを運べば、旗を取りに行く者がいなくなる。
「旗より、お前だ」
トビアスの返事を聞き、セリアは胸の奥が痛くなった。三人は彼女の教えを覚えていた。勝ちたい気持ちを捨てたのではない。誰かを置いていけば、その勝利に意味がないと自分たちで判断したのだ。
オルフェンはその様子を見て、険しい顔になった。
「三人まとめて失格にしてやる。敵の前で仲間を抱えて歩くなど、笑いものだ」
「失格にするなら理由を記録しろ」
イーノが言った。
「負傷者を運んだことか。それとも、お前が演習中に規定外の兵を投入したことか」
オルフェンは答えず、観客席の方へ向き直った。彼は大きく手を広げ、芝居がかった調子で叫んだ。
「見よ。これが臆病な教官に育てられた兵士たちだ。勝利を目前にして、負傷者一人のために任務を放棄する!」
セリアは彼の背中を見つめた。かつては彼の勝利を心から喜んでいた。国境で生き残った者を数え、彼が戻ってきたときには自分のことのように安心した。それなのに彼は、目の前で苦しんでいる少年を、自分の評価を高めるための道具にしている。
「任務を放棄していません」
セリアは観客席にも聞こえるよう声を上げた。
「帰還演習の任務は、全員で戻ることです。負傷者を運ぶのは、その任務の一部です」
一部の観客が拍手をした。オルフェンは振り向き、彼女へ歩み寄った。
「教官でもない女が、私の演習に口を出すな」
「あなたの演習ではありません。候補生たちの試験です」
彼は一歩近づいた。セリアは退かなかった。イーノが間に入ろうとしたが、彼女は手を上げて止めた。ここで誰かの陰に隠れれば、またオルフェンは彼女の言葉を弱さとして扱う。
「私をどう呼んでも構いません。でも、あの三人が自分で選んだ行動まで侮辱しないでください」
セリアはオルフェンを見た。今度は目を逸らさなかった。
「後悔するぞ」
「もう十分にしています。あなたを信じたことを」
オルフェンの顔から余裕が消えた。彼は木剣を下ろし、指揮台へ引き返した。去り際にネリスを呼び寄せ、何かを短く命じる。ネリスは一度だけ第三門を見た。セリアも視線を追い、背筋が冷えた。
木枠の下には、まだ鋼索が張られている。
三人はルカを支えながら、第二門を抜けた。中央台まで進んで旗を取るか、このまま帰るか。フェルンは迷った末、ルカに尋ねた。
「少し休めば歩ける?」
「無理だと思う。俺がいると、お前たちまで失格になる」
「お前を置いていく方が嫌だ」
フェルンはそう言って、トビアスと一緒にルカを運び始めた。セリアは救護係として少し後ろを歩き、呼吸や顔色を確かめた。ルカが痛みに耐えている間も、三人の会話を奪わないようにした。
「俺、教官に教わったとき、退くのは負けだと思ってた」
ルカが小さく言う。フェルンは彼の腕を握り直した。
「今は?」
「二人に置いていかれたくない」
「じゃあ、帰ろう」
トビアスの言葉に、三人は頷いた。セリアは思わず足を止めた。彼らが自分たちの意思で帰還を選んだことが、どんな勲章より誇らしかった。
しかし、第三門へ近づいたとき、ネリスが通路の脇から現れた。彼は青ざめた顔で木枠を見上げ、セリアに駆け寄った。
「セリア様。隊長が、支柱を外せと」
「外したの?」
セリアは三人の進路を見た。逃げる場所は限られている。
「僕は拒みました。でも、別の兵に命じて……」
言い終える前に、門の上で金属が擦れる音がした。木枠が揺れ、鋼索の一方が滑車から外れかけている。セリアは三人の位置を確かめた。ルカを抱えたままでは、急に走ることはできない。
「イーノ、停止の旗を!」
高台にいたイーノが赤旗を振り、そのまま第三門へ駆け下りてきた。だが指揮台のオルフェンは、開始の鐘を続けて叩いた。観客は演出だと思って歓声を上げる。第三門の木枠が再び揺れた。
セリアは木剣を地面に置いた。両手を空けなければ、留め具を押さえられない。
「フェルン、トビアス。ルカを抱えたまま、私の方へ!」
三人が向きを変える。セリアは門の柱へ走り、外れかけた鋼索の留め具を両手で押さえ込んだ。朝に見た傷が、さらに広がっている。押し戻そうと力を込めると、金具が指に食い込み、痛みが走った。
背後でオルフェンが怒鳴った。
「剣を捨てたな、セリア! お前も失格だ!」
彼女は振り返らなかった。今、手を離せば、木枠が三人の上に落ちる。
押さえきれず、留め具が弾けた。
第三門の木枠が、三人の頭上へ落ち始めた。
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