第2話_生きて帰るための剣
「下がって!」
セリアが作業員の肩を引いた直後、第三門の木枠が半尺ほど落ちた。鋼索が張り、金具が軋んで止まる。地面に落ちた小さな留め具を見て、作業員は青ざめた。
「まだ合図を出していないのに」
セリアは金具の位置を確かめた。木枠はまだ安定していない。
「だから危ないのよ。誰も下に入らないで」
イーノは木箱から予備の麻縄を取り出し、柱に回して木枠の荷重を受けた。セリアも反対側を押さえ、作業員に上部の巻き取り器を緩めさせる。木枠は少しずつ持ち直し、半尺下がった位置でようやく止まった。
「演習まで一刻もない。ここを直さないと」
作業員が焦って言う。セリアは鋼索の端を確かめた。普通の縄と違い、滑車の溝に深く食い込んでいる。強引に巻けばさらに金具を傷める。見栄えのために替えた設備が、演習そのものを壊しかけていた。
「元の麻縄は残っている?」
イーノは麻縄を引き直した。木枠を支える腕に力が入る。
「倉庫にあります。ただ、交換は隊長の許可がないと」
「許可は私が取ってくる。あなたは倉庫から麻縄を出しておいて」
セリアが立ち上がると、イーノは木枠を支える縄をもう一度締めた。右腕の古傷に負担がかかっているのが分かる。彼女が代わろうとすると、彼は首を振った。
「俺はここを離れられない。隊長には、門が勝手に落ちた事実だけ伝えろ。危険だという感想を足す必要はない」
「私が感想で騒いでいると思われるから?」
「違う。事実だけでも、止める理由として十分だからだ」
彼は作業員に声をかけ、もう一人を呼びに行かせた。セリアは一人で石段を上がり、指揮官用の控室へ向かった。
扉の前には、カーデン隊の副官ネリスが立っていた。彼はセリアを見ると、いつものように敬礼しかけ、途中で腕を止めた。教官の処分がすでに伝わっているのだろう。
「隊長に会わせて。第三門の金具が外れたの」
ネリスは制服の裾を握った。扉の奥から話し声が聞こえる。
「今は来賓の方と打ち合わせ中です」
「人が下にいれば大怪我をしていた。交換の許可が必要なの」
ネリスは扉を振り返った。内側から笑い声が聞こえる。セリアが一歩進むと、彼は慌てて行く手を塞いだ。
「お願いします。今、騒ぎにしないでください」
「騒ぎにしなければ、門は直らないわ」
「隊長は、あなたが演習を妨害するつもりだと」
その言葉で、セリアは彼が何を恐れているのか理解した。オルフェンは先に彼女の信用を落としている。危険を訴える者を、負けを恐れて騒ぐ臆病者に仕立てれば、誰も話を聞かなくなる。
「ネリス。あなたは門の交換命令を見た?」
ネリスは扉を振り返った。中へ伝えるか迷っているようだ。
「見ました」
セリアは声を落とした。相手が答えやすいよう、言葉を選ぶ。
「危険だと思わなかった?」
「……思いました」
彼は答えてから口を閉じた。セリアは彼の肩章に目を向けた。副官に昇格したのは一月前で、本人は家族へ喜びの手紙を書いたという。今、命令に逆らえば、その地位を失うかもしれない。
「あなたに責任を押しつけたいわけじゃない。今、交換を認めてくれれば、誰も怪我をしない。私が隊長に説明する」
ネリスは迷った末、扉を開いた。室内にはオルフェンと、貴族らしい仕立ての礼服を着た男が二人いた。演習の寄付を集める後援者たちだ。オルフェンはセリアを見るなり顔をしかめた。
「誰が入れた」
「第三門が落ちました。固定具が外れています。鋼索を麻縄に戻す許可をください」
「予定どおり動いたんだろう」
「合図の前に落ちました。候補生が下にいれば避けられません」
後援者の一人が眉を寄せた。オルフェンはその反応を見て、セリアへ近づいた。
「演習の成功を妬んで、また逃げる口実を探しているのか」
「金具が外れたのは私の感情とは関係ありません」
「見たのはお前だけか」
「作業員とイーノ・ルーヴァがいます」
イーノの名を聞くと、オルフェンの表情が変わった。雨裂峠の生還者の中でも、イーノは特に彼を嫌っていると知られていた。正確には、命令のために部下を捨てようとした指揮官を信用していないのだ。
「北方の連中が組んで私の演習を潰すつもりか」
「演習を止めたいのではありません。危険な装置を替えたいだけです」
「お前が騒ぐから、候補生が不安になる。そういう指導が兵を弱くするんだ」
彼は机から書類を一枚取り上げ、セリアの前へ突きつけた。そこには教官職の停止命令が書かれている。発令者はオルフェン自身で、理由欄には「指揮命令への不服従」とあった。
「ほら、これで満足か。もうお前には口を出す資格がない」
セリアは書類を読んだ。停止命令は確かに出ている。ただし、王都守備隊の規則では、演習設備の危険を報告する義務は役職に関係なく全員にある。彼女がその条文を言いかけると、オルフェンは書類を丸めて机に叩きつけた。
「出ていけ!」
後援者たちの前で争っても、彼が考えを変えるとは思えなかった。セリアは扉へ向かい、そこで足を止めた。
「私が教官でなくても、第三門の下に人が入るのを見過ごすことはできません。交換を認めないなら、演習の鐘を鳴らします」
「鳴らしてみろ。候補生が失格になれば、お前が責任を取れ」
その脅しは、狙いどおり胸に刺さった。ルカたちの資格を守りたくて動いているのに、彼女の行動が三人を追い詰めるかもしれない。それでも、危険を知りながら黙っている選択はできなかった。
控室を出ると、ネリスが追ってきた。彼は廊下の曲がり角で小さく頭を下げた。
「申し訳ありません。僕が最初に止めていれば」
「まだ止められるわ。門の交換ができないなら、第三門を通らない配置に変えて」
「隊長はもう経路図を配ってしまいました」
「では、危険を知っていることだけは忘れないで。候補生が倒れたとき、命令を待っていたら遅い」
ネリスは何も答えなかったが、逃げるように去ることもしなかった。セリアは彼の肩を軽く叩き、闘技場へ戻った。
第三門の周囲には縄が張られ、イーノが作業員と一緒に安全用の支柱を立てていた。セリアの顔を見ると、彼は結果を察したらしい。
「駄目だったか」
「許可は出ない。私の教官職は正式に停止された」
「なら、別の手を考える」
イーノは作業員に支柱を固定させ、セリアを通路の陰へ連れていった。そこで彼は、演習の対戦表を広げた。敵役の北方騎兵隊には、負傷者を想定した救護係を一人置く決まりがある。だが今回は、救護係が欠けていた。
「俺の隊から一人出す予定だったが、今朝の移動で熱を出した。代わりが必要だ」
「私にやれというの」
「お前なら、門の危険も分かる。敵役の救護係なら、合図がなくても負傷者に近づける」
「オルフェンは認めないわ」
「敵役の人選は俺の権限だ。指揮官同士の取り決めで、救護係は相手の指揮下に入らない」
彼は対戦表の空欄を指さした。そこには確かに一名分の余白がある。規則の抜け道ではなく、演習を安全に進めるための役割だ。セリアは一度だけ迷った。救護係になれば、ルカたちを見守れる。しかし同時に、危険な門の近くに立つことになる。
「やるわ」
「剣は持てない。救護係は木剣一本と赤い布だけだ」
「それで十分よ」
イーノは頷いたが、すぐには表をしまわなかった。
「セリア。お前が無理をしているなら、俺は止める」
イーノは一度だけ視線を逸らした。珍しい反応だった。
「無理をしていると思う?」
「している。婚約を切られたばかりで、仕事まで奪われた。怒って当然だし、泣いてもいい。それでもお前は三人のことしか考えていない」
セリアは返事を探した。彼の言うとおり、オルフェンに婚約解消を告げられた瞬間の痛みを、まだきちんと受け止めていなかった。仕事がなくなれば住まいも変えなければならない。家族には何と説明すればいいのだろう。そんなことを考えると、今にも立っていられなくなる。
「泣くのは、三人が帰ってきてからにする」
「なら、帰ってきたら俺が聞く」
「泣き言を?」
「何でも。怒鳴ってもいいし、黙っていてもいい」
彼は真顔だった。二年前の峠でも、セリアが一人で負傷兵を運ぼうとしたとき、同じ顔で半分を引き受けてくれた。頼ることを恥だと思わせない人だった。
「イーノは、どうしてそんなに私に優しいの」
口にしてから、セリアは自分の声が思いのほか小さかったことに気づいた。
「今ここで答えると、演習に集中できなくなるかもしれない」
「そんなに大変な答えなの?」
「俺にはな」
彼は困ったように笑い、救護係の赤い布を彼女に渡した。セリアはそれを受け取ったまま、少しの間動けなかった。昔から彼は冗談を言う男ではない。だからこそ、今の言葉を軽く聞き流すことができなかった。
観客席から鐘が鳴った。開場を知らせる最初の合図だ。二人が通路を抜けると、闘技場には見物人が入り始めていた。石段の上からは王都の商人たちが旗を振り、貴族席には赤い布が張られている。
ルカたち三人は、先行班の待機場所で剣を受け取っていた。ルカは痛む足を隠すために、体重を右へ寄せている。フェルンは緊張で指が震え、トビアスは剣の柄を握り直してばかりだった。
セリアが赤い布をつけて近づくと、三人は驚いた。
「教官、敵の救護係になったんですか」
「そうよ。今日は私の命令を聞かなくてもいい。ただ、約束してほしいことがある」
セリアは三人の顔を順に見た。約束を覚えていてほしかった。
「何ですか」
「誰かが倒れたら、勝手に置いていかないで。助けられないときは鐘を鳴らして。あなたたちが戻ってくることを、私は勝利だと思っている」
トビアスが強く頷いた。ルカは一瞬だけ口を開き、何かを言いかけてから閉じた。フェルンは胸甲の紐を少し緩め、深く息を吸った。
その様子を見ていたオルフェンが、競技場の中央から声を張り上げた。
「紹介しよう。本日の敵役には、命令違反で教官を解かれたセリア・エーヴェルも加わる。彼女の教えが正しいなら、我が候補生たちはどんな危険からも帰還できるはずだ」
観客がざわついた。セリアは足を止めた。オルフェンは彼女を見せ物にするつもりらしい。
「そして、先行班には特別な条件を設ける」
彼は高い台へ上がり、三人を指さした。
「敵役の救護係に助けられた者は、即座に資格を失う。自分の力で勝てぬ者は、騎士には要らん!」
その条件は、演習の規則にない。セリアが抗議しようとすると、ルカが彼女の前へ一歩出た。
「教官。俺たち、助けられなくても戻ります」
勇敢に見せようとする少年の左足が、はっきり震えていた。
オルフェンはその足に気づきながら、開始の鐘を鳴らすよう命じた。




