第1話_奪われた退路
王都の闘技場に、三人の新兵の名前が掲げられていた。
セリア・エーヴェルは、その下に赤い印がついているのを見て足を止めた。赤印は、午後の帰還演習で失敗すれば騎士候補の資格を取り消す、という意味だった。昨日まで三人は予備隊として出場するだけのはずだったのに、今は最も危険な先行班へ移されている。
「誰が配置を変えたの」
掲示板の前にいた書記が、セリアの制服の襟章を見て口ごもった。彼女は王都守備隊の訓練教官であり、候補生の成績をつける立場にある。少なくとも、つい先刻まではそうだった。
「カーデン隊長の命令です。今朝、正式な変更が届きました」
セリアは掲示板から目を離さなかった。先行班にされたのは、ルカ、フェルン、トビアス。いずれもまだ十八歳で、春の徴募から彼女が受け持ってきた候補生たちだ。ルカは左足首を痛めている。フェルンは狭い場所で息が詰まる癖があり、トビアスは誰かが倒れると自分の役目を放り出して助けに行く。欠点ではなく、訓練で扱うべき性質だった。
演習の勝敗を決めるのは、敵役の隊を突破して旗を持ち帰る速さではない。全員が帰還したかどうかだ。それでも観客の多くは、先に旗を奪った隊へ歓声を送る。見栄えのよい突撃を披露したい指揮官なら、先行班に弱点のある候補生を置く理由は一つしかない。
彼らを置き去りにしても、前進した人数を見せられる。
「セリア」
呼ばれて振り向くと、石段の上からオルフェン・カーデンが降りてきた。磨いた胸甲の上に赤い肩掛けをつけ、腰には実戦用の長剣を吊っている。三年前、彼女に結婚を申し込んだときの彼は、まだそんな飾りを嫌う青年だった。
「勝手に候補生の配置を変えたのですか」
セリアは声を抑えた。周囲の書記までこちらを見ている。
「今日からお前は教官ではない。だから相談しなかった」
彼は書記に下がるよう合図し、広場の人々が聞き取れるほどの声で続けた。
「雨裂峠で命令を破った件について、ようやく上が処分を決めた。お前は演習が終わるまで待機だ。私の名を借りて候補生に逃げ癖を教えた責任を取ってもらう」
雨裂峠。その名を出されるたび、セリアは濡れた岩肌と、負傷兵を背負って歩いた夜の寒さを思い出す。二年前の国境戦で、彼女は前進命令に従わず、退路に残された十一人を回収した。敵の包囲を避けるため、谷筋を三度変え、最後には旗を捨てて両手を空けた。
命令違反は事実だった。ただし、命令を出したのはオルフェンであり、後衛が孤立したと報告を受けながら前進を続けさせたことも事実である。セリアは責任を引き受けた。あの夜に限っては、どちらが手柄を得るかなど考える余裕もなかった。
「逃げ癖ではありません。退くべきときに退く訓練です」
「聞こえのいい言い換えだな」
オルフェンは彼女の胸元へ手を伸ばし、訓練教官の銀章を外した。留め金が布を引っかき、制服に細い傷が残る。人前でそんなことをされるとは思っていなかったセリアは、反射的に彼の手首をつかみかけて止めた。
「正式な辞令は」
「私が持っている。見せる必要はない」
石段を上がる兵士たちが、二人を避けて通った。
「なら、私はまだ教官です。章を返してください」
「そこまでして肩書きが欲しいのか」
彼が鼻で笑うと、近くの騎士たちが気まずそうに視線を外した。セリアは怒鳴り返す代わりに、差し出された銀章を受け取った。表面には、候補生が一人前になるまで責任を持つという誓いが刻まれている。
「肩書きが欲しいのではありません。あの三人を危険な班から外してほしいのです」
セリアは彼の腰の剣帯を見た。かつて一緒に磨いた剣だった。
「甘やかすな。負傷しているなら痛みを忘れて走らせればいい。恐れているなら先頭に置け。お前の指導で腑抜けになった連中を、私が使える兵士にする」
セリアは息を吸った。言葉を選んでいるうちに、彼は別の話を持ち出した。
「それと、婚約も解消する。王都の人間に、私の妻が命令違反の臆病者だと思われては困るのでな」
その言い方に、セリアは思いがけず静かになった。婚約者として彼の帰還を待ち、負傷した腕に包帯を巻き、昇進の祝いに贈る外套の布を選んだ時間が、まるで別の人間のものに思えた。彼が今ここで傷つけたいのは、候補生だけではない。彼女の仕事も、これまで信じていた関係も、まとめて切り捨てるつもりなのだ。
「解消は受け入れます」
オルフェンが一瞬だけ意外そうな顔をした。セリアはその反応を見ても、言葉を戻さなかった。
「ただし、候補生を危険にさらす命令は別です。あなたの婚約者でなくなっても、私は止めます」
オルフェンは顎を上げた。周囲に聞かせるつもりなのだろう。
「止められるものならな」
彼は踵を返した。去り際に銀章を取り上げ直そうとはしなかったが、彼女が教官の席へ戻れるとも思っていない様子だった。
広場の向こうから、三人の候補生が駆けてきた。先頭のルカは平気なふりをしていたものの、左足をつくたびに歩幅が小さくなる。フェルンは胸甲の紐を締めすぎて息が浅い。トビアスは二人の顔色を交互にうかがっていた。
「教官、俺たち、先行班に入れたんです」
ルカは誇らしげに言おうとして失敗した。掲示板の赤印を見ていたからだろう。三人とも、それが名誉ではないと分かっている。
「足を見せて」
セリアが膝をつくと、ルカは慌てて靴の先を引いた。
「大丈夫です。昨日よりずっと」
「大丈夫なら見せられるでしょう」
靴紐を緩めると、くるぶしの周囲に腫れが残っていた。歩けないほどではないが、段差を駆け上がるのは危険だ。彼女は指先で腫れの境を確かめ、ルカに足首をゆっくり回させた。
「痛いところで止めて。痛みを隠したまま走れば、演習が終わっても騎士になれなくなるかもしれない」
ルカは下を向いた。セリアが初めて彼を受け持った日も、彼は剣を握る手の豆が潰れていることを隠した。弱いと思われたくないのだ。父親が軍人で、家族の期待を背負っていることも知っていた。
「隊長は、俺が遅れたら他の二人だけで進めって」
セリアは三人の顔を見渡した。誰も自分から弱音を吐こうとしない。
「そんな命令が出たの?」
フェルンは胸甲の紐を触っていた。息苦しさを隠す癖が出ている。
「はい。勝つためだって」
フェルンが頷き、トビアスは悔しそうに唇を噛んだ。三人は命令に従わなければ資格を失うと信じている。だからこそ、セリアは軽々しく「出るな」と言えなかった。彼らの未来を守るには、今日の演習そのものを変える必要がある。
「あなたたちは、自分の足で戻ってくることを最優先にして。旗はその次です」
「でも、教官は外されたんでしょう」
トビアスの問いに、セリアは銀章を掌で包んだ。
「教えたことまで消えるわけじゃない。誰かが転んだら、置いていかずに立ち上がる時間をつくって。三人ならできる」
「三人とも遅くなったら、失格ですよ」
「全員で戻るのがこの演習の規則です。速さを競うのは、そのあと」
言い切ったとき、背後から拍手が一度だけ聞こえた。
「相変わらず、兵士に嫌われることを教えるな」
振り向いたセリアは、石門の陰に立つ男を見て息を止めた。濃紺の制服の袖を肘まで折り、古い傷のある右腕で木箱を抱えている。イーノ・ルーヴァ。雨裂峠で十一人の最後尾を歩いていた偵察兵で、現在は北方騎兵隊の副隊長だ。
「イーノ。王都に戻っていたの」
「朝、着いた。帰還演習の敵役を任されたからな」
彼は木箱を地面に置き、三人の候補生へ目を向けた。顔は厳しいが、ルカの足首に気づくとすぐに膝を曲げて高さを合わせた。
「先行班か。無茶な命令が出たら、演習の鐘を鳴らせ。あれは負けを認める鐘じゃない。誰かが怪我をしたときに止めるためのものだ」
「敵役が教えていいんですか」
フェルンが恐る恐る尋ねると、イーノは木箱の蓋を開けた。中には布を巻いた練習剣と、鐘を鳴らすための赤い紐が並んでいる。
「俺は敵役だが、お前たちの敵じゃない。区別を間違えるな」
三人が去ると、セリアはようやく彼に向き直った。
「帰ってくるなら知らせてくれればよかったのに」
「知らせたら、迎えに来ただろう」
セリアは彼の顔を見た。二年前と変わらない落ち着いた表情だ。
「来るわよ。あの峠から生きて帰った仲間なんだから」
イーノは笑いかけたが、途中でやめた。セリアの制服の傷と、手の中の銀章を見つけたからだ。
「オルフェンか」
「婚約は解消した。仕事も取り上げるつもりらしい」
「仕事の方は、まだ決まっていないんだな」
「辞令を見せてもらっていないから」
「なら、俺も決まったものとして扱わない」
彼は言葉を選ばずに答えた。その率直さに、セリアは危うく涙をこぼしそうになった。今の彼女に必要だったのは慰めではなく、事実を一緒に確かめてくれる相手だった。
「三人を先行班にしたの。ルカは足を痛めている。オルフェンは途中で置いていくよう命じたらしい」
「演習で負傷者を置き去りにする指示は、規則違反だ」
「そうよ。でも彼が今日の指揮官なの」
イーノは闘技場の奥へ目を向けた。中央には三つの門と、斜面を模した木の足場が組まれている。彼は朝から敵役の装備を確認しており、門の構造にも詳しいという。
「見に行こう。お前が外された理由も、あの三人が選ばれた理由も、同じ場所にある気がする」
セリアは銀章をしまい、彼の後に続いた。二人で歩くのは二年ぶりだったが、イーノは彼女が左側を好むことを覚えていた。雨裂峠で右肩を負傷した兵を支えるため、長く左側に立って歩いていた癖だ。
闘技場の裏手に回ると、作業員が最後の点検をしていた。門の上部には重い木枠が吊られ、合図と同時に下りて道を塞ぐ仕組みになっている。通常は太い麻縄でゆっくり落とす。ところが、第三門だけは光沢のある細い鋼索に替えられていた。
「イーノ、あれは」
彼も立ち止まった。鋼索は麻縄より伸びず、切れれば木枠が一気に落ちる。下を走る候補生には避ける余裕がない。
さらに、木枠の真下には赤い先行班の印がついた立て札があった。
「第三門は、ルカたちの通る道よ」
イーノは答えず、門の横に立つ作業員を呼び止めた。作業員は二人の制服を見てから、周囲を気にするように声を落とした。
「カーデン隊長が、午後の見せ場をつくるから替えろと。危ないと言ったんですが、隊長の命令だと」
セリアは門を見上げた。演習が始まれば、三人は命令に従ってあの下を走る。オルフェンは候補生を置き去りにするだけでなく、誰かが転ぶことまで計算に入れているのかもしれない。
そのとき、木枠の内側から乾いた音がした。
固定具の一つが、すでに緩んでいた。
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