夏祭り2
◆
宿へ入ると、十畳程もある広い部屋だった。
奥にある大きな障子窓が月明かりを取り入れ、中程には紫檀の座卓が置かれている。
(良い宿……)
「お料理は、すぐにお持ちしてよろしおすか?」
「ええ」
襖の前に正座した女将は、沖田の返事を受けると、頭を下げて襖の奥に消えた。
葵は荷物を端に置いて、床の間の前に座った。
「素敵なところですね」
床の間の小さな花瓶には、撫子の花が飾ってある。
沖田は葵の後ろへ座る。顔の横から手を伸ばして、撫子の白い花びらにそっと触れた。
「宿は、褒美に」
葵は、背中から彼の胸へもたれた。
さっき抱き留められた時も感じたが、互いに薄い浴衣越しだと、胸の厚みや温度がいつも以上に伝わる。
「なんのご褒美ですか……?」
「葵、頑張ってたから。まだ、咳も抜けないし。たまにはゆっくりしてほしいなって」
唇が、耳の裏に触れた。
「汗……お風呂……」
「うん、少しだけ」
薄い皮膚をうなじへなぞられ、衣紋を引かれる。肩口まで唇が届くと総身が震えた。
一度火がついてしまうと、汗のことも高い声が出ることも、気にできない。
浅く息を溢して、顔を振り向けた。
「総司さん、私――」
「失礼します」
襖の向こうから呼ばれ、ぱっ、と声を抑えた。
「後でね」
沖田は座卓へ着いた。
葵も向かい合って座った。正座した太ももが、無意識に固く閉じている。
じわりと何かを感じ、
(もう、後でだって)
――後で
期待してしまっていることに気づくとまた腿に力が入る。ぱたぱたと手うちわで顔を扇いだ。
「こちらは地元の農家でとれた――」
沖田ははい、と頷きながらにこやかに食材の説明を受けている。
葵もなんとか聞いているふりで相槌を打った。
じきに座卓の上は夕餉のご馳走で一杯になる。鍋に火が着き、くつくつと出汁が煮立つ。
「鱧は軽く湯がいてお召し上がりください。それではごゆっくり」
給仕係が下がると、匂い立つ湯気に誘われて途端にお腹が鳴った。彼へ聞こえていない事を祈りつつ、鱧鍋を取り分ける。
「どうぞ」
「ありがとう、美味そう」
手を合わせていただきますをした。
牡丹菊のように膨らんだ白い鱧は、ふっくらしていて美味しそうだ。
「さっき、何言おうとしてたの?」
ちょうど口に入れたところだった。葵は口を押さえながら、鱧の熱を逃がした。
「ふふ、ゆっくりでいいよ」
彼は水を注ぎ足してくれた。
――総司さん、私
あの時給仕が入ってこなければ何を言おうとしていたのか。
それは自分でもはっきりしない。けど、続きは、恐らく彼を求める言葉だった。
夫婦になった今、もう隠す必要もない。
わかっているのに、頭の中の整理がつかない。やっと鱧を飲み込み、もう一つの本題を口にした。
「総司さんのお誕生日のお祝いをしたくって。おめでとうございます」
水が入った盃を合わせた。
「何もいらない、生まれ日を祝う必要もない」と沖田が言うので、こうして言葉で祝うだけになったのだが、
彼は、「祝ってもらうのも悪くないな」と鼻を掻いた。
「葵はいつ生まれなの?」
「八月一日です」
「ここにきた日?」
「はい、だから誕生日の贈り物は、総司さんと逢えたことです」
沖田はふ、と盃へ向けて頬を緩めた。
ぐいと飲み干して、
「俺も、今日葵と過ごせたからこれが贈り物かな」
「本当に欲しい物ないんですか?」
沖田は"ない"と言い切ろうとして箸を置いた。
「じゃあ、誕生日をもらおうかな」
葵は、え? と首をかしげる。
「夏ということ以外、生まれ日を気にしたことがなかったんだ。だから葵が祝ってくれるなら、今日を俺の誕生日にする」
この一日を、そんな大事な日にしてくれることが何より嬉しい。じーんと胸が熱くなり、俯く。
「適当に決めちゃ駄目ですよ……今度お義姉さんに聞きましょう?」
「姉さんも覚えてないと思うけど」
葵の視界の端で、撫子の花びらが烟る。
その儚さに目を細めたとき、撫子は荒れた土地でも咲くのだ、と幼い頃誰かに言われたことを思い出した。
徳利を傾け、冷酒を彼へ注ぎ入れる。
「……お誕生日、おめでとうございます」
「うん」
静かに盃を交わした。
ゆったりした夕餉を済ませ、
汗を流し終え、居間の奥にある襖を開いた。
薄暗い部屋に行灯が揺れ、布団が二組寄り添っている。
「お湯、良かった?」
彼は既に、涼し気な寝間着に着替えていた。
「……はい」
襖を開け放したまま棒立ちでいると、沖田は、おいでと手を引いた。




