D池田屋
史実では、新選組が激闘を繰り広げた後、会津・桑名藩がようやく駆けつける。
しかし今回は事前の連携が功を奏し、両藩はすでに周囲で待機していた。
「我らも共に踏み込む」
会津藩士が近藤と話しているのが聞こえる。
「狭い中で大人数は却ってやりにくいだろう」
土方は憮然としていたが、"戦闘が激化した時のみ"、"あくまで援護"となり、最後は首を縦に振った。
先発隊として近藤、土方、沖田たち幹部数十名が池田屋に踏み入ることになった。
表の戸口に続くのは選り抜きの新選組隊士。その後ろには両藩が控える。
まずは、完全に包囲したことを伝え戦意喪失させるという。
(上手く行きますように……)
葵は裏の守りを固めていた。
左右には、槍を携えた会津藩士がずらりと並んでいる。その数、三千。
味方だと分かっていても震え上がるほどの圧巻さだった。
提灯の灯が甲冑を鈍く照らし、池田屋はすでに逃げ場のない籠となっていた。
――静かすぎる
そのとき、窓が開いた。
「まさか……会津の旗が……三方どころではない……!」
大量の兵を前にした志士たちの声は、黄泉の亡霊のようだ。
そこからまた静かになり、中からは話し声がしている。
じきに中で刀が落ちるような音、「死なせろ!」と叫ぶ声、罵倒する声。
中の騒ぎが激しくなり、援護のため会津藩士も動き始めたのか、慌ただしい足音が響く。
逃げ道を探すような気配も裏口まで迫ったが、
「裏も塞がれている!」
また駆け戻ったようだ。
「降伏しろ! さすれば命まではとらん!」
「くそっ」
窓から数名が身を躍らせ飛び降りてくる。
男は着地と同時に刀を抜く。しかし、その目に闘志はなかった。
葵は、柄を握る両の手の間を空け直した。
「やああぁー!」
相手の声は掠れ、刃はぶれにぶれ、腰が引けている。
隙を見て小手と銅を突き、気絶させた。
裏を抜けた者もいた。しかし、四方を埋める兵を見た瞬間、刀を落として膝をついた。
額からじっとり噴いた汗が、玉雫となって肌を転がっていく。
一時間はそうしていただろうか。
もっと長かったかもしれないし、半分以下の時間だったかもしれない。
生ぬるい風に浅い呼吸を誘われたとき――
中から勝利を宣言する近藤の声がした。
隊士たちの続く轟きが地面を揺らす。
(終わった……?)
葵の視界が歪んでいく。
息苦しさから解放されて、湯水の上を揺蕩うように身体の力が抜けていく。
誰かが叫んでいる。
「暑気あたりか! おい、端に――」
そこから先、意識が沈んだ。
◇
沖田が池田屋の後処理の合間に部屋に戻ると、
戦闘中に倒れた葵はちょうど起き上がる所だった。
沖田は近くへ寄った。
「池田屋だけど……自害一名、他に死者はない」
それから、と沖田は付け加える。
「捕縛者の中に片桐左京はいなかった」
「そうですか……」
あの男は今、何処で何をしているのだろうか。
「新選組側は、どうなりましたか?」
「怪我人はいるけど、無事だよ」
葵は元の史実を把握していなかったが、本来攘夷派は池田屋事件で七名が死亡するはずだった。
しかしそれを知らずとも、今回の戦績は上出来すぎると思った。
(変えられたんだ……歴史を……)
「よ」
「よ?」
「よかった……」
葵は、沖田にぐりぐりめり込むように頬ずりをする。
頭を撫でられ、安心したら昔のことを思い出した。
「……総司さん前は、歴史を変えることに否定的でしたよね」
彼はそうだっけ? と手を止めた。
「そうですよ、女だって土方さんに伝えた日に……」
土方は「本当に未来から来たなら歴史の事件を教えろ」と葵に言い、沖田は「歴史が変わってしまうかもしれないからやめるべきだ」と反対していたのだ。
「あれは、葵が困ってたから。今も、なんでも変えてもいいとは思わないけど……一緒になら背負えるかなって」
「そんなふうに言ってくれて、ありがとうございます」
心強いのに、不安に襲われて下を向いた。
葵、と名前を呼んで彼は、柔らかな髪を指に絡めた。
「これから先、上手くいかなかったとしても気に病むことはない。そんな過酷な使命を背負うために、葵はここへ来たんじゃない」
「じゃあ……なんのためですか?」
「"貴方に逢うため"って言うところじゃない?」
葵はきょとんとした。
からかわれたかと思ったが、彼は真剣な顔をしていた。
(ロマンチスト……)
甘えたかったから、素直になることにして瞳を閉じた。
「総司さんに逢いに、ここに来ました」
頬に手が添えられる。
吐息がかかって、触れ合う直前
――彼の唇を避けた
「総司さん、そういえば体調は?」
池田屋で倒れるはずの彼の体調が気にかかった。
不意に口づけを邪魔された沖田は、不満そうな顔をして指を喰む。
「くすぐったいです……」
「それだけ?」
唇から濡れた舌が覗き、背筋を甘い痺れが駆け上がる。
彼は指をゆっくりと口から離すと、今度は葵の顎を引き寄せた。
「もう、体調のこと聞いてるのに……答えてください」
むっと睨むが、蕩けた目元に何の説得力もない。沖田はくすくすと喉を鳴らす。
「元気だよ。風邪もすっかり治ったし」
言葉の終わりに、彼は葵の唇を奪った。今度は遮る隙を与えない深い口づけ。
柔らかくも熱い感触が溶け合う。
「葵は?」
「ん……元気、です」
「そう言うと思ったけど」
沖田は唇を離した。
割れ物を下ろすように葵を布団に戻し、額に手を触れた。
「ほら、少し熱がある」
「……誰のせいですか」
沖田が水盆に浸された手ぬぐいを手に取る。
ぴちゃんと滴が跳ね、固く絞った手ぬぐいがひやりとおでこに乗った。
「医者が、疲れだろうって。連れ帰った時より顔色は良くなったかな」
「元気ですもん。さっきまでずっと寝てたんですし、眠くないです」
「うーん……」
そのとき、土方が入ってきた。
「お前、いつまでも帰ってこねえと思ったらまだここにいたのかよっ」
「妻の具合が悪いので、今日は休みにします」
「んな馬鹿なことがあるかっ! 葵お前も元気なら働け」
「はい」
「はいじゃない! 寝てて!」
声がぴしゃり! と部屋に飛ぶ。
土方はにやにやした。
「かなり素になってんな。お前葵の前だと格好つけるもんな? ガキのくせに……」
「だからガキじゃないですって」
頭の上を飛び交う二人の声に、葵は耳を塞いだ。
「ふふ、またこんなお二人が見られて、騒がしいのが嬉しいです」
土方はこほんと咳払いして、
「まぁなんだ、新選組の武名も上がった。帰りなんか見物の人垣ができてなかなか帰ってこられなかったんだからな」
葵が歴史の潮目を変えたことで、新選組が日の目を見なかったらどうしようと気にしていたが、
事前の素早い情熱共有、先陣を切った勇敢さ、そして華麗なる捕縛劇。
「大物志士を生け捕りにした功は計り知れぬ」と称賛の嵐だったらしい。
「京都見廻組の奴らの悔しそうな顔を見せてやりたかったな」
見廻組はエリート集団だから、生え抜きの新選組とはライバル関係にあるらしい。――と、土方はいつも息巻いている。
(なんでも勝負事にするんだからなぁ……)
土方は「良くやった」とぼそっと言う。
「それを言うためにここに来たんですよね?」
沖田が補足すると、彼はふんっと片眉を上げた。そして、働かせすぎたから近々暇をやると約束してくれた。
葵はまだもらってもいないうちから、「休みはどこへ行こうかな」などと考え出していた。




