第9章 三本の釘
卯月六日は曇りだった。
夕方五つの鐘のあと、表の戸が開いて、白い法衣の若い男が入ってきた。
色の白い、細い男だった。年は二十八くらいか。法衣は新しい。裾にだけ、旅の泥が乾いて白くこびりついている。肩から革の書物袋を一つ下げ、手に細長い筆箱を持っていた。荷はそれだけだった。
男は戸口で一度立ち止まり、店の中を見回した。梁の焦げを見て、カウンターを見て、樽を見た。樽の札は見なかった。
ダリオが、カウンターの端で麦酒の杯を置いた。
「また白い法衣か」
男は振り向かなかった。店の中を見回すのを、続けていた。
ダリオは椅子の上で体をひねって、もう一度言った。今度は、店の奥まで届く声だった。
「また、白い、法衣か」
店じゅうが振り向いた。リナが銅貨を数える手を止め、奥の卓の二人連れが話をやめ、裏口のほうでハクが椀を置いた。梁の下のケスまで、首をこちらへ傾けた。
男だけが、半拍遅れて、振り向いた。
「失礼。私のことでしたか」
「ほかに白いのがいるか」とダリオが言った。
男は少し考えるような顔をした。それから、カウンターの前まで来て、俺に軽く頭を下げた。
「組合に、登録をお願いしたいのです」
*
近くで見ると、胸に刺繍があった。
白い糸で、灯台の形を縫ってある。灯火教会の法衣には、どれも同じ場所に灯の刺繍がある。皿の上に炎を載せた形だ。アガタの法衣では、芯が丸い炎で、皿の下に短い脚が一本ついている。
この男の刺繍は、芯が細い塔の形をしていた。塔の上に小さな環が一つ載り、皿の下は三段になっている。
去年の霜月、同じ店で、俺は二つの法衣を並べて見た。アガタのものと、神官を名乗った賢者のものと。
エルノの胸にあったのと、同じ形だった。
俺は、それを口に出さなかった。
「組合長は、ただいま普請方へ出ております」と俺は言った。「戻りは夜になるかと」
「では、明日また伺います」
「お名前を、伺っておいてもよろしいですか」
「パウルです」
男はそれだけ言った。続きを待ったが、続きはなかった。家の名も、村の名も。
「パウルさん」と俺は言った。
男は、半拍遅れて、俺を見た。
「はい」
パウルは麦酒を一杯だけ頼み、銅貨五枚を卓に置いた。カウンターの端の、ダリオから椅子二つ離れたところで、ゆっくり飲んだ。飲むあいだ、誰とも話さなかった。指に、インクと煤が染みていた。
飲み終えると、大聖堂の近くに宿を取ってあると言って、帰っていった。
戸が閉まってから、ダリオが言った。
「白いのは、振り向くのが遅いな」
「旅で、お疲れなのでしょう」と俺は言った。
店の隅で、ヴィルマが杯を置いた。三日前に宿を出てから、ヴィルマは店の隅の長椅子で寝ている。昼は口入れ屋を回り、夕方には戻ってきて、麦酒一杯で閉店まで座る。
「あの人も、組合に入るのかい」とヴィルマが言った。
「そうおっしゃっていました」
「賢者さん、か」ヴィルマは戸のほうを見た。「北へ行くのかね」
「それは、組合長がお決めになります」
ヴィルマはうなずいて、杯の底を見た。底には、もう一口も残っていなかった。
俺は麦酒の樽から、二杯目を注いだ。ヴィルマの前に置くと、ヴィルマは懐に手を入れかけて、やめた。この店に通い始めたころから、ずっとそうしている。俺も、そのころからずっと、それを見ないことにしている。
「雪が解けたら」とヴィルマが言った。
北の言い回しだそうだ。雪が解けたら、払う。雪が解けたら、帰る。雪が解けたら、また会う。北では、それが約束の形になるらしい。
*
夜になった。
店の油の灯が、曇りの夜の湿った空気の中で、いつもより強く匂った。油の匂いは、晴れの夜にはほとんどしない。曇ると、天井の下に溜まる。
裏口の戸を開けると、ハクとチィがいた。
鍋のスープを二つの椀によそう。今夜は豆と大麦だ。ハクは椀を両手で受けて、いつものように、俺に小さく頭を下げた。チィは椀を受けると、すぐに口をつけた。
二人は戸口の石段に座って、食べながら、節を口ずさんだ。
夏の祭りの、月の歌の稽古だ。歌詞は、二人とも小声で、俺には聞き取れない。聞き取れなくていい。節だけが、裏口の暗がりに流れた。
三つ目の節の終わりで、チィが一つ音を外した。ハクが止まって、同じところを歌い直した。チィも歌い直した。同じところで、同じように外した。
ハクは笑わなかった。もう一度、歌い直した。
チィの椀の底に、豆が三つ残った。チィはそれを、指でつまんで一つずつ食べた。
*
店に戻ると、梁の下で、ケスが目を開けていた。
客はまばらになっていた。ダリオはまだ飲んでいる。ヴィルマは店の隅で、膝の上の布の包みに手を置いていた。
ケスが、誰に言うでもなく、言った。
「山の上に、石の巣がある。古い歌だ。巣の鴉は、群れより多かった」
誰も訊き返さなかった。ダリオは杯を傾け、ヴィルマは包みから手を離さなかった。ケスはそれきり、また目を閉じた。
中庭では、土竜人のドゥンが、井戸の釣瓶を直していた。ここ何日か、釣瓶の滑車が軋んでいた。ドゥンは暗がりでも手元が見えるらしく、灯を使わない。滑車の軸に油を差し、縄を掛け直しながら、ドゥンは独り言のように言った。
「あの鉱は、水が入ったんじゃない。入れたんだ」
店の隅で、ヴィルマが顔を上げた。
誰も訊き返さなかった。ヴィルマも、訊き返さなかった。ドゥンは縄の結び目を締めて、釣瓶を一度、井戸の底まで下ろした。上がってきた釣瓶は、もう軋まなかった。
*
夜十の鐘で、最後の客が帰った。
俺は椅子を卓に上げ、床を掃き、灯を一つずつ落とした。最後に、カウンターの奥の柱の前に立った。
柱には、錆びた大釘が三本、交差して打ち込んである。客の目の高さより上で、酒樽の陰になる。ここで飲む者のほとんどは、一度も見ない。組合の焼き印の、釘三本と同じ形だ。
月に一度、俺はこれを乾いた布で拭く。今夜は、その月の夜ではなかった。それでも、布を取った。
一本目を拭く。錆が少し布につく。二本目を拭く。同じだ。
この店を俺に渡した先代の酒場番は、この釘のことを一度だけ話した。砦の門から抜いてきた釘だ、と。どこの砦か、誰が抜いたのか、先代は言わなかった。俺も訊かなかった。
三本目を拭いた。
三本目だけ、拭いても錆が落ちない。




