第8章 城壁の歌
卯月五日の午後二つ、アーデルハイトは大聖堂の聖具係に、一枚の紙を渡した。
捧げ物の台の寸法を、館の者に測らせて書いたものだ。祭壇の前の台は、樫の板で、幅が四尺と少し。そこに旧家の帳が広げられ、上町の家々の燭台と杯が並び、最後から二番目にロズモンド家の品が置かれる。今年の品は、石の板だ。幅は両腕を少し縮めたくらい、厚みは指三本。台の上で、ほかの家の品の場所を取りすぎないか。取りすぎるなら、どの家の燭台の脇を詰めさせるか。
聖具係は紙を読んで、「十分に載ります」と言った。
「ザイデル家の帳の端に、掛からないかしら」
「掛かりません、奥様」
掛かってもよかった。掛からないのなら、それでいい。アーデルハイトは礼を言って、大聖堂の脇の扉から外へ出た。
ヘルマンには、馬車を広場の向こうに回させてあった。少し、歩きたかった。
*
大聖堂の裏手に、灯火教会の手習い所がある。
低い石造りの建物で、窓が三つ。窓の下に、子らが育てている豆の芽が、欠けた鉢に並んでいた。二枚の葉を開いたもの、まだ土を持ち上げたばかりのもの。鉢には、育てている子の名が、炭で書いてある。
扉が少し開いていて、中から歌が聞こえた。
アーデルハイトは、扉の陰で足を止めた。
白い手袋の修道女が、長机の前に立っていた。机には十人ほどの子が並んでいる。いちばん小さい子は、机から顎がやっと出るくらいだ。アガタが一節を歌うと、子らが同じ節を繰り返す。
『灰の山から 兵は下りた
あいつら追って 峠を閉めて
石を背負って 谷まで来たら
石を積み積み 壁を閉じた
灯の前で 壁が閉じ
春の朝に 鐘が鳴る』
最後の行で、子らが一斉に手を叩いた。揃わない。揃わないのが、毎年同じだ。
「もう一度」とアガタが言った。
二度目、いちばん小さい子が、「壁を閉じた」のところを「壁が閉じた」と歌った。隣の、少し大きい子が肘でつついた。
「を、だよ」
「が、だよ」
「を」
「が」
小さい子は、三度目も「が」で歌った。隣の子は、三度目も肘でつついた。
アガタは、どちらも直さなかった。
アーデルハイトは、扉の陰で手袋の指を口元に当てた。笑うと、声が少し高くなる。それを聞かれたくなかった。
*
この部屋で、同じ歌を習った。
床の板の、窓から三枚目に、節の抜けた穴がある。昔からある。子どもの指がちょうど一本入る大きさで、アーデルハイトも一度、指を入れて抜けなくなったことがある。穴は、いまも同じ場所にあった。誰も板を替えなかったらしい。
あのころ、机は三つ並んでいた。
窓際の机の娘は、歌のあいだじゅう、窓の外の鳥を見ていた。雀か、鶫か、名を当てて、あとで小声で教えてくれた。いまは、組合の長をしている。
真ん中の机の娘は、背が高く、隣の子の匙を見ていた。昼の粥の匙だ。誰かが人の匙を取ると、取り返してやった。頼まれなくても。いまは、隊の長をしている。
アーデルハイトは、廊下側の机にいた。
先生の白い手袋を、見ていた。歌の節に合わせて、手袋の指が少しだけ拍を取る。その指が、歌のどこで止まり、どこで動くかを見ていた。どの子を褒めるときに手袋を脱ぎ、どの子を叱るときに脱がないかも。
三人とも、同じ歌を習った。三人とも、ほかのものを見ていた。
歌の中身を考えたのは、ずっとあとになってからだ。
灰の山から兵が下りて、あいつらを追って、峠を閉めた。石を背負って谷まで来て、壁を閉じた。歌に出てくるのは、兵と、あいつらと、石と、壁と、灯と、鐘だけだ。
谷はいまも、壁の下にある。下の谷の者たちは、壁ができる前からそこにいたのか、あとから来たのか。歌はそれを言わない。上町の晩餐で、それを訊く者もいない。訊かないから、席順が乱れずにすむ。
アーデルハイトは、席順が乱れないことの値打ちを知っていた。乱れれば、まず割れるのは、いちばん細いところだ。
*
子らが帰ったあと、アーデルハイトは手習い所に入った。
アガタは、机の上の石板を一枚ずつ拭いていた。振り向いて、少しも驚かない顔で頭を下げた。
「ロズモンドの奥様。扉の外に、ずいぶん長くいらっしゃいましたね」
「聞こえていたのね」
「笑い声が、少し」
アーデルハイトは手袋の上から、自分の頬に触れた。
「先生。この歌には、続きがありましたか」
アガタは石板を拭く手を止めた。
「歌には、ありません」
アーデルハイトは、その答えの形を、しばらく眺めた。ない、とは言っていない。歌には、と言った。修道女は嘘をつかない。嘘をつかない人の答えは、ときどき、こういう形になる。
訊き直すのは、無作法だった。
「今年の捧げ物はね」とアーデルハイトは言った。「石にしたの。普請方の石切場が、北の古い基礎石を替えたら、裏に浮き彫りがあって。それを譲ってもらったのよ。釘を三本、こう、交差させた形の」
アーデルハイトは手袋の指を三本、机の上で重ねてみせた。
アガタは、重ねた指を見た。
「釘が三本」
「そう。縁に字もあるのだけど、半分欠けていて。わたしには読めなかったわ。先生なら、読めるかしら」
「釘が三本」とアガタはもう一度言った。
それだけだった。
アガタは石板を一枚、机の端に重ね、次の一枚を取った。拭く手は、さっきと同じ速さだった。
アーデルハイトは、自分がいま何を訊いたのか、少し考えた。歌の続きを訊いた。石の字を訊いた。どちらにも、先生は嘘をつかなかった。どちらにも、答えなかった。
窓の外で、豆の鉢の一つが、風で少し傾いた。
「祝福の日には、子らがこの歌を、大聖堂の前で歌います」とアガタが言った。「奥様の石は、その間に、祭壇の脇に据えられるでしょう」
「ええ」
「よい捧げ物です」
修道女は嘘をつかない。だから、アーデルハイトはそれを、礼の言葉として受け取った。
*
広場の向こうで、ヘルマンが馬車の扉を開けて待っていた。
「先生は、お元気でしたか」とヘルマンが訊いた。
「お元気だったわ。手袋も、昔のまま」
馬車が動き出してから、アーデルハイトは、手習い所の窓を一度だけ振り返った。
アガタは、釘が三本、とだけ繰り返して、何も言わなかった。




