第7章 倉の前
卯月五日は市の日だった。
朝十の鐘が鳴るころには、中央広場は屋台で埋まっていた。マグダは詰所の戸口に立って、数えた。屋台が四十と少し。去年より三つ多い。人は数えきれない。数えきれないときは、通り道の幅を数える。屋台と屋台のあいだ、人がすれ違える幅が残っているか。残っていた。今日のところは。
青物の山が、春の色をしていた。芹、葱の若い葉、泥のついた蕪。冬のあいだ、広場の青物は干したものと漬けたものだけだった。それが一晩で生のものに変わる。毎年、市の日のどこかで、そうなる。
パン屋の屋台には、札が下がっていた。
『祝福の日の前 丸パン三つで銅貨十枚』
いつもは九枚だ。蝋燭の屋台も、同じように一本につき少しずつ上げていた。祝福の日の前の三日は、そういうものだと誰もが知っている。知っているから、誰も文句を言わない。文句を言うのは、知らずに来た田舎者と、知っていて値切るのが好きな上町の女中くらいだ。
屋台の下に、鳩が集まっていた。パン屑を待っている。屋台の主が足で追うと、鳩は一歩だけ下がって、また一歩戻った。
*
上町の坂の下で、人が溜まっていた。
人だかりは、詰所の戸口から見て右手、穀物商の倉の前だった。倉の主はブラント参事だ。勘定方の倉は、坂の下でいちばん大きい。
マグダは歩幅を広げた。走らない。隊長が走ると、人だかりはもっと大きくなる。
人の輪の真ん中で、二人が殴り合っていた。
一人は人間の若い男だった。腕が太く、肩に麻の荷運びの当て布をしている。もう一人は土竜人だった。背が低く、腕が長い。爪の先の泥が乾いて白い。ドゥンではない。もっと若い。
殴っているのは、ほとんど人間のほうだった。土竜人は腕で顔をかばいながら、ときどき長い腕を振り回した。それが当たったり、当たらなかったりした。
輪の外側に、倉の番頭のカスパルがいた。止める気はないらしい。帳面を胸に抱えて、倉の戸の前から動かない。
「やめろ」
マグダは輪をかき分けて入り、二人のあいだに体を入れた。人間の男の拳が、マグダの肩当てに当たって止まった。男は相手が誰か分かると、拳をほどいた。土竜人は、まだ腕を顔の前に上げていた。
「何があった」
人間の男が先に口を開いた。
「今朝の荷運びを、倉がこいつらに回したんだ。半値で。俺たちは、三年この倉の荷を運んできた。それを、半値だからって」
マグダはカスパルを見た。カスパルは帳面を抱え直した。
「旦那様のお決めになったことで。今朝は、谷の衆に頼んだほうが安く済むと」
「谷の衆に頼んだのは、倉だな」
「左様で」
「で、殴られたのは谷の衆か」
カスパルは答えなかった。
*
人だかりのあちこちから、声がした。
「谷の連中がいるから」
「安く働くから、こっちまで値が下がる」
「北門から出しちまえ」
マグダはその声の数を数えた。七つ。言っている者の顔も見た。荷運びではない者が、半分いた。
半値で仕事を回したのは倉だ。倉が浮かせた銭は、倉の帳面に入る。殴った男は、今朝の駄賃を失くした。殴られた土竜人は、半値の駄賃と、顔の痣を得た。人だかりは、何も得ていない。
誰も得をしていないのに、殴る相手だけは、最初から決まっている。
マグダは、それを口には出さなかった。口に出しても、誰も得をしない。
「北門には出さない」マグダは言った。「二人とも、だ。代わりに、今日一日、広場の掃除をしてもらう。市の日の後片づけだ。日当は倉の持ちだ」
カスパルが顔を上げた。
「なぜ倉が」
「倉の前で起きた喧嘩だ。倉の前の掃除は、倉の持ちだろう」
カスパルは何か言いかけて、帳面を開き、閉じた。
「旦那様に、伺いませんと」
「伺えばいい。私は先に二人を広場へ連れていく」
「隊のほうで持っていただくわけには」
「隊は予算で飯を食ってる」マグダは言った。「その予算に、倉の前の掃除の行はない。倉は、倉の銭で飯を食え」
カスパルは帳面の角を指でそろえた。そろえても、帳面の中身は変わらない。
土竜人が、ようやく腕を下ろした。目を細めて、あたりを見回した。土竜人は、昼の光の下ではほとんど目が利かない。
それから土竜人は、深く頭を下げた。
「すまなかった。殴り返した。俺も悪い」
頭を下げた先には、マグダが立っていた。
人間の男が、一拍置いて、土竜人の袖を引いた。
「こっちだ」
土竜人は袖を引かれた方へ向き直り、もう一度、同じだけ深く頭を下げた。人だかりの誰かが、吹き出した。人間の男は、それで少し顔を赤くして、黙った。
*
トマスが広場から走ってきた。綱の束を肩にかけたまま、息を切らしていた。
「隊長、喧嘩だって」
「済んだ。この二人を広場の掃除番へ連れていけ。今日一日だ」
トマスは二人を見比べて、綱の束を肩にかけ直した。それから二人の先に立って、坂の下を広場のほうへ歩いていった。三人とも、少しずつ違う速さで歩いた。
二人を見送ったあと、大聖堂の脇で、アガタと行き会った。
白い手袋の修道女は、籠を下げていた。中に、施しのパンの数を書いた紙が入っている。
「祝福の日の施しは、例年どおり、階段の右手でいたします」とアガタが言った。「並ぶ方が、去年より多いかもしれません。北から来た方が、何人か下町に」
「階段の右手に、隊員を二人置きます」
「ありがとうございます。それから、子らの列は、階段の左手に」
「リナを一人、つけます。組合から借りる」
アガタは少しだけ首を傾けた。
「組合長さんは、お元気ですか」
「元気です。封を切らないこと以外は」
アガタはそれ以上を訊かなかった。修道女は嘘をつかない。だから、訊かなくていいことは、訊かない。マグダはそれが、ありがたいときと、ありがたくないときがある。今日は、ありがたかった。
*
昼の鐘のあと、マグダは詰所の戸口で、懐の財布を開けた。
掃除の日当は倉の持ちだと言った。カスパルが払わなければ、誰かが払う。去年までなら、雑費の行から出した。
その行は、如月の予算の議で消えた。
マグダは銅貨を数えた。祝福の日の日当で、組合から三人借りる。一人銀貨二枚。それも、この財布から出す。
カスパルからは、まだ何も言ってこない。言ってこなければ、明日、もう一度倉の前に立つ。立てば、たぶん払う。倉の主は、隊長が倉の前に二日続けて立つのを、上町で噂にされたくはないだろう。
それでも、払わなかったときのために、銅貨を数えておく。
殴った男の名も、殴られた土竜人の名も、マグダは訊かなかった。訊けば、帳面に書かなければならない。書けば、来年の予算の議で、誰かが「谷の者の喧嘩が増えた」と読み上げる。数は、読み上げる者の都合で増える。
銅貨は、数えても増えなかった。
広場の掃除の駄賃は、隊の雑費には、もう行がない。




