第6章 割符
卯月三日の夕方五つ半、エーリカは市参事会館の控えの間で、一枚の写しを読んでいた。
白塔から参事会へ届いた文の写しだ。書記局の若い書記が、組合長にも見せておけと言われた、と持ってきた。
『囚人エルノ・ファルクは、もういない』
それだけだった。差出人の名と、白塔の印。日付。ほかには何も書いていない。
去年の霜月、この組合の酒場で捕まった賢者がいた。神官を騙り、隊の前で火を放った男だ。先月、その男を、隊と組合の者が白塔まで送り届けた。受け取りの印をもらって、三日前の夕方に帰ってきた。
その男のことだった。
エーリカは写しを畳んで、書記に返した。
*
外は雨だった。
参事会館の石段を下りると、雨は外套の肩に重く載った。エーリカは片足をかばいながら、下町への坂を下りた。石畳の窪みに水が溜まって、灰色の空をそのまま映していた。
錆び釘亭の戸の前で、エーリカは立ち止まった。
中に、護送から帰った者たちがいる。フィンもいるかもしれない。あの男が「もういない」と、誰かが伝えなければならない。伝えるのは、組合の長の仕事だ。
一呼吸。
雨が、戸の把手を濡らしていた。エーリカは、その把手に手を置いた。
*
四日の朝、雨は上がっていた。
書記局の窓の外で、鳩が三羽、雨樋の縁に並んで羽を乾かしていた。一羽だけ、ほかの二羽と反対を向いている。
「北の村の歳入の綴りですか」ヨーナスは袖口のインクの染みをこすりながら言った。「勘定方から回ってきた写しなら、ここにあります。でも、組合長がなぜ」
「北へ行く仕事を、請けるかもしれないの。行く先の村の様子を、知っておきたいのよ」
それも本当だった。全部ではなかった。
ヨーナスは、奥の棚から綴りの束を下ろしてきた。
いちばん下の束は、ほかのどれより古かった。紙が茶色く、綴じ紐が太い麻だった。表紙に、かすれた字で表題が書いてあった。
『砦の糧』
エーリカは、その表題だけを読んだ。綴りの中には、北の七つの村の名が、いまと同じ順で並んでいるはずだ。元年より前の紙だと、書記局の誰もが知っている。誰も開けない。開ける理由がないからだ。
北の村々が、昔、北の砦を食わせるための村だったことを、エーリカは書記だったころに一度だけ聞いた。聞いて、忘れていた。
棚の奥に、紐の色の違う古い議事の綴りがもう一つあった。エーリカはそれを見ただけで、手を伸ばさなかった。
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エーリカは、新しいほうの束を開いた。
三〇九年から、四年分。カルトブルンの行を、写した。
『三〇九年 カルトブルン 麦四十俵 換え 一俵銀貨四枚 計 金貨八枚』
『三一〇年 カルトブルン 麦四十俵 換え 一俵銀貨三枚半 計 金貨七枚』
『三一一年 カルトブルン 麦四十俵 換え 一俵銀貨三枚 計 金貨六枚』
『三一二年 カルトブルン 麦四十俵 換え 一俵銀貨二枚半 計 金貨五枚』
換えの欄の脇に、小さく『冬の相場による 勘定方』とあった。四年とも、同じ字で。
エーリカは、写した紙を折って、外套の内側にしまった。
「ありがとう、ヨーナス」
「組合長」ヨーナスが言った。「その綴り、勘定方には、見たと言わないほうがいいですか」
「言わなくていいわ。訊かれたら、言っていい」
ヨーナスは少し考えて、うなずいた。
*
その夜、店が閉まったあと、エーリカは階段を下りた。
ヴィルマは、店の隅の長椅子で、背負い袋を枕に横になっていた。マスターが、宿の代わりにそこを貸したのだ。まだ眠ってはいなかった。
「割符を、見せてもらえる?」
ヴィルマは身を起こして、布の包みをほどいた。
白木の棒が四本出てきた。一尺ほどの棒を、縦に割った片方だ。もう片方は、毎年、村へ来る徴税役が持っていく。二つを合わせれば、刻みがぴたりと揃う。揃わなければ、どちらかが嘘をついている。
刻みは、深いのと浅いのがある。
「深いのが十俵。浅いのが一俵」とヴィルマが言った。
エーリカは一本ずつ、刻みを指でなぞった。三〇九年。深い刻みが四つ。三一〇年。四つ。三一一年。四つ。三一二年。四つ。
四十俵。四十俵。四十俵。四十俵。
白木の木目が、年ごとに違っていた。三一〇年の棒だけ、節が一つある。刻みは、その節をよけて入れてあった。
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量は、同じだ。
綴りの銭は、八枚、七枚、六枚、五枚。年に一枚ずつ減っている。量が同じで、銭が減る。それなら、変わったのは換えだけだ。一俵の麦を、銀貨何枚と数えるか。それだけが、年に半枚ずつ下がっている。
冬の相場による。
エーリカは毎朝、広場の同じパン屋で、同じ丸パンを一つ買う。書記局にいたころからだ。丸パンは銅貨三枚。この四年、一度も下がっていない。祝福の日の前の三日だけ、少し上がる。麦が安くなった冬があったなら、パンも安くなったはずだ。
リナなら、と思って、エーリカは少し笑った。あの子なら、この換えの差を、一息で銀貨と銅貨にして言うだろう。金に目がない魔法使いは、数字の癖にも目がないかもしれない。
換えの値を決めるのは、勘定方だ。
そこで、エーリカは止まった。
勘定方の手札は、一度使った。如月に、前の組合長の裏帳面の一行を写して送った。それで隊長の監査は止まった。同じ手は、二度目には効きが落ちる。二度目に使うなら、春の議より重い場でなければならない。
エーリカは割符をヴィルマに返した。
「ありがとう。大事にしまっておいて」
「何か分かったのかい」
「村が、毎年同じだけ納めていたことは分かったわ」
それは本当だった。
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二階の部屋で、エーリカは一行だけを、別の紙に写した。
『麦四十俵は変わらず。換え、年に半枚ずつ下がる。冬の相場による、勘定方』
紙を畳んで、部屋の隅の、弦を外した長弓の箱を開けた。弓の下に、紙を差しこんだ。
前の組合長の裏帳面は、厩の二階の、ザザの寝床の下にある。あそこは、誰もトカゲの寝床を見ないから安全だ。
それでもエーリカは、ザザの寝床の下ではなく、自分の弓の箱を選んだ。




