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第5章 雨の日の登録

卯月三日は、昼から雨だった。


錆び釘亭の窓が、白く曇った。軒の雨樋から落ちる水が、窓の下の石に小さく跳ねる。雨の日は、客の来かたが変わる。濡れた外套のまま来て、乾くまで帰らない。だから雨の昼は、杯より先に、暖炉の薪を数える。


昼の鐘が鳴り終わったころ、表の戸が開いた。


入ってきたのは、白い法衣の若い女だった。背が高い。赤茶の髪を短く切っていて、そばかすがある。法衣の袖を、肘の上までまくっていた。肩に、木の薬箱をかけている。


胸の刺繍は、灯火教会のものだった。丸い小さな炎の芯。


「修道女アガタの使いで来ました。ブリギッテです」


声が早かった。言い終わる前に、もう薬箱を肩から下ろしていた。


「先月の施療の薬の残りを、お届けに。アガタ先生が、組合の棚に置いておけと」


薬箱を下ろした拍子に、ブリギッテの肘がカウンターの端の杯に当たった。ダリオの麦酒の杯だった。杯は傾いて、落ちかけた。ブリギッテは、灯の術でも何でもない素手で、それを宙で受け止めた。麦酒は一滴もこぼれなかった。


ダリオが、受け止められた自分の杯を見た。


「施療より、杯を受けるほうが得意なんです」とブリギッテは言って、杯をダリオの前に戻した。


*


棚に薬を移しながら、ブリギッテは言った。


「それと、組合長さんは、いらっしゃいますか。登録をお願いしたいのです」

「組合に、ですか」

「はい。聖職者で。推挙は、アガタ先生です」


登録簿をつけるのは、組合長の仕事だ。俺は酒を注ぐだけで、組合の帳面には触らない。


灯火教会の聖職者は、修道院に住んで、大聖堂の灯を守るものだと思っていた。俺がそう言うと、ブリギッテは首を振った。


「修道院には住んでいません。下町で、施療の手伝いをしてきました。灯の術は、灯の前より、怪我人の前で使うほうが、灯も喜ぶと思うんです」


灯火教会の聖職者は、嘘をつかない。誓願を立てている。だからこの人の言うことは、少なくともこの人の中では本当だ。


「先月、白塔まで行ったテオという修道士がいますね」と俺は言った。護送の一行に、教会の立会いとして付いていった若い修道士だ。


「テオは、手習い所でわたしの一つ上でした」ブリギッテは薬の瓶を棚に並べながら言った。「帰ってきてから、手燭の蓋を開けたり閉めたりしてばかりいます。何があったのか、訊いても、灯の前で話すことではない、と」


ブリギッテは、最後の瓶を棚に置いて、ラベルを手前に向けた。


「わたしは、手燭より薬箱のほうが性に合っています。蓋がないので」


それから、ブリギッテは薬箱の留め金を掛けながら、思い出したように言った。


「下町の施療では、去年の秋まで、白い法衣の方をよく見かけました。教会の方ではありませんでした。祈りの文句はときどきつかえていたけれど、手当ては本物でした。霜月から、見かけなくなりました」


俺は、杯を拭く手を止めなかった。


「遠くへ行かれたそうです」と俺は言った。


「そうですか」ブリギッテはうなずいた。「よい手でした」


「組合長は、いま参事会に出ています」と俺は言った。「戻りましたら、お伝えします」

「お願いします」


ブリギッテは空になった薬箱を肩にかけて、雨の中へ出ていった。袖は、まくったままだった。


*


雨が強くなった。


暖炉の薪を一本足した。乾いた薪は、あと二十本ある。雨が三日続けば足りなくなる。祝福の日までに晴れるかどうかは、薪の数より、空の色で決まる。窓の外の空は、まだ鉛の色だった。


昼すぎ、ヴィルマが来た。背負い袋を一つ担いでいる。袋の底が濡れて、乾いた土が少しこぼれた。北の土の色だった。


「宿を出された」ヴィルマはカウンターの前に立ったまま言った。「金が尽きた」


俺は、乾いた布を出した。ヴィルマは布で顔を拭いて、黒い髪を縛り直した。


「この店に、使ってない錠前はあるかい」


カウンターの端に、古い銭箱がある。前の組合長のころに使っていた、鉄の錠のついた箱だ。鍵は、ずっと前に失くなった。俺がそれを指すと、ヴィルマは腰の革の道具巻きを開いた。針金と、細い鉤と、小さな槌が並んでいた。


ヴィルマは錠の穴に針金を入れた。鉤を添えた。耳を錠に近づけた。


十数えるほどで、錠が鳴った。


蓋が開いた。中は空だった。埃が少し舞った。


ダリオが、口笛を吹いた。


「北の村の鉱夫の娘だ」ヴィルマは道具を巻き戻しながら言った。「鉱の道具箱の錠は、みんな自分で開ける。獣の罠も、自分で仕掛けて、自分で外す」


「鉱は、まだ掘ってるのか」とダリオが訊いた。


「親父の代で閉じた。村の鉱は、もう銀が出ない」ヴィルマは言った。「山の奥に、古い鉱があるって話は、ばあさんの代から聞く。誰も行かない。古い砦の向こうだから」


ヴィルマは、膝の上の包みに目をやった。


「村は、毎年同じだけ麦を納めてる。これが、その割符だ。四年分、持ってきた。持ってくれば、話を聞いてもらえると思った」


それから、俺の顔を見た。


「盗賊で、登録したい。北へ行く仕事があるんだろ。村へ、手ぶらで帰るわけにはいかない」


「組合長が戻りましたら」と俺は言った。今日は、同じことを二度言った。


ヴィルマは、店の隅のいつもの小さな卓に座った。背負い袋を足もとに置いて、布の包みを膝に置いた。


組合に登録すれば、この建物の中では、仲間に嘘をつかないと誓うことになる。ヴィルマはもともと嘘をつかない、と言った。誓いのほうが、本人に追いつくだけだ。


俺は、ヴィルマの前に麦酒を一杯置いた。代金の話は、しなかった。宿を出された人から、今日の銅貨五枚を取る理由が、俺には見つからなかった。


*


午後は、雨の音だけだった。


店の隅の梁の下に、鴉人のケスが一人でいた。黒い羽をたたんで、首を少し傾けている。誰もそこへ話しかけなかった。ダリオは麦酒を飲み、リナは卓の上で銅貨を並べていた。炉の火は小さくなって、灰の上に赤い筋だけが残っていた。


隊の若い隊員のフィンが、外套の雨を払いながら入ってきた。護送の一行に、隊から一人だけ出ていた男だ。リナの卓に腰を下ろした。ダリオがカウンターの端から杯を持って移ってきて、フィンの隣に座った。帰り着いて三日。護送の一行が、また一つの卓にそろった。


ヴィルマが、膝の上の包みをほどきかけて、また結んだ。割符というものを、俺はまだ見たことがない。


雨樋の水の音が、少しだけ間遠になった。


*


夕方、六つの鐘の少し前。


表の戸が開いて、組合長が入ってきた。肩が濡れていた。片足をわずかにかばって、店の中をまっすぐ歩いた。カウンターにも、ヴィルマの卓にも寄らなかった。


フィンの卓へ、まっすぐ行った。


組合長の肩の雨が、床に二つ落ちた。


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