第4章 上町の朝
卯月二日の朝、ロズモンド館の小食堂で、アーデルハイトは執事のヘルマンが読み上げる段取りを聞いていた。
「行列は朝八つにザイデル館の前を出ます。上町の家々の捧げ物の順は、例年どおりザイデル家が先頭。ロズモンド家は、最後から二番目でございます」
ヘルマンの声は、よく磨いた銀器のように平らだった。黒い上着の胸に、ロズモンド家の紋が縫い取ってある。
「最後から二番目」アーデルハイトは茶の杯を置いた。「去年と同じね」
「去年と同じでございます」
最後は、市参事会の名で蝋燭が百本。その前に、ロズモンド家。旧家の後ろに、新しい家が並ぶ。それがこの街の席順だ。アーデルハイトは上町の織物商の娘としてこの家に入った。席順というものの重さを、生まれた家では教わらなかった。この家で、二十年かけて覚えた。
窓辺の鉢植えが、去年より一つ増えていた。庭師が冬のあいだに株を分けたのだろう。アーデルハイトはそれを数えて、黙っていた。
*
「捧げ物の品は、いかがなさいますか」とヘルマンが訊いた。
去年の祝福の日、アーデルハイトは大聖堂の捧げ物の台に、赤い石を置いた。鶉の卵ほどの紅玉で、人肌のように温かかった。祝福を受けた宝石は、持ち主に返される。そういう慣わしだ。石は化粧部屋に戻り、その秋に失くなった。
手袋越しに覚えている温かさを、アーデルハイトは指の中で一度だけ確かめて、それ以上は考えなかった。失くしたものは、失くしたものだ。
「候補を」
ヘルマンが紙を広げた。銀の燭台。聖餐の杯。刺繍の帳。どれも悪くない。どれも、去年の石の代わりにはならない。代わりにしようとすれば、比べられる。比べられれば、上町は笑う。笑い声は、席順を一つずつ後ろへずらす。
「夜までに考えるわ」とアーデルハイトは言った。
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夜、ザイデル館の晩餐に招かれていた。
祝福の日の前の晩餐は、旧家が開く。毎年のことだ。長い食卓に二十人。アーデルハイトの席は、当主ルートヴィヒ・ザイデルの右から三つ目だった。去年は二つ目だった。
一つ下がった理由を、アーデルハイトは考えない顔で考えた。去年の秋に石を失くした家。夫人の推した組合長が、亜人を登録簿から外さなかった家。どちらも、席を一つ下げるには十分だ。
ザイデルは六十で、白い髭を胸まで垂らしている。杖を椅子の脇に立てかけているが、その杖が食卓の下で給仕の足を引っかけかけた。一度目は給仕がよけた。二度目もよけた。
食事は川魚だった。骨が多い。客たちは、骨を皿の縁に並べながら話をした。
「祝福の日の捧げ物はですな」ザイデルが杯を掲げた。「もともと、砦の将の末裔の務めでしてな。壁を積む前、我らの祖は北の砦を守っておった。我が家の帳には、その砦の旗の切れ端が縫い込んである」
拍手が起きた。アーデルハイトも手を叩いた。砦の血、という言葉を、ザイデル家は毎年この席で一度は口にする。上町の誰も、その砦を見たことはない。
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勘定方のブラントが、灰色の毛皮の襟の下から、低い声で言った。
「北の税は、四年続けて減っております。百九十枚が、百二十五枚に」
数字を、ゆっくり言った。いつものブラントの言い方だ。ただ、減ったほうの数字を言うときだけ、声が少し速くなった。
アーデルハイトは、それに気づいた。気づいただけで、何も思わなかった。思わないようにした。織物商の娘は、値を言う声の速さで、売り手が何を隠しているか分かる。分かっても、言わない。言えば、商いが一つ終わる。
食卓の端で、誰かが言った。
「北の村なぞ、灰色山脈と一緒に放っておけばよい。税が減るなら、守る値打ちもない」
何人かが笑った。
アーデルハイトは笑わなかった。笑わなかったことに、誰も気づかないように、杯を口に運んだ。
衛生方のクルーガーが、薬種商らしい乾いた指で骨をつまみながら、話を下の谷へ移した。春になると谷の井戸が濁る。改めさせない所は、疫病の巣だ。石灰を倍にしなければ。毎年、春になると同じことを言う。そのたびに、クルーガーの店の石灰の納め高が増える。
ローレンツが、そこで笑いながら割って入った。
「北の村は放っておきませんよ。春の議で決まりましたからな。組合に北の古砦を見に行かせる。雪が解けたら」
「組合に」ザイデルが白い髭の下で言った。「亜人を抱えた、あの組合にか」
「あの組合にです」ローレンツは平気な顔で言った。「隊は人が足りないそうですから」
ホルンは食卓の向こう端で、聞こえないふりをして魚の骨を外していた。
北の村を放っておけ。谷の者を外へ出せ。切り捨てる言葉は、一つずつは軽い。軽いから、増える。増えたものは、いつか一度に重くなる。そのとき、この街は割れる。上と下で。人間と、人間でない者とで。割れたものは、たぶん二度と元に戻らない。
アーデルハイトが恐れているのは、それだった。谷の者と手を取り合いたいのではない。そんな綺麗なことを言う気はない。ただ、いまはどちらも少しずつ痛みを分け合って、どうにか一つの壁の中にいる。その均衡を、誰かが面白がって崩すのが怖い。
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普請方のローレンツが、大きな手で魚の骨をつまみながら言った。
「北の古い基礎石を一つ替えましてな。冬のあいだに。そうしたら、裏に妙な浮き彫りが出ました。釘が三本、こう、交差しておる」
ローレンツは、指を三本交差させてみせた。
「古い石でしょう。城壁の、いちばん古いところの石です」
アーデルハイトは、杯を置いた。
「それ、わたしに譲ってくださる?」
食卓が少し静かになった。ローレンツは、目を丸くしてから、笑った。
「石を、ですか。奥様が」
「ええ。値は、あとで」
ザイデルの杖が、三度目に給仕の足を引っかけかけた。アーデルハイトは、何気なく椅子を少し引いた。給仕の足が杖の手前で止まった。ザイデルは気づかなかった。
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帰りの馬車の中で、アーデルハイトは窓の外の暗い上町を見ていた。
「ヘルマン」
「はい、奥様」
「錆び釘亭の樽は、もう空いたかしら」
ヘルマンは、少し間を置いた。
「存じません」




