第10章 推挙者の欄
卯月六日の夜十の鐘のあと、エーリカは二階の部屋で、普請方の封を切った。
弥生十四日に書かれた封だった。護送の一行が帰ってから開ける、と決めていた。一行は弥生の晦日に帰った。それから七日、開けなかった。
今日の午後、普請方の石切場の事務所で、ローレンツに会った。爪のあいだに石の粉を詰めたまま、ローレンツは大きな手で一枚の紙を差し出した。賢者の推挙状だった。名の欄に『パウル』。推挙者の欄に、ローレンツの名と、もう一つ、ホルンの名があった。
「石は待ってくれますが、道は待ちません」とローレンツは言った。「峠の雪は、皐月には解けますよ、組合長」
封を切る理由は、それで十分だった。
封の中には、厚い紙が一枚と、革の小袋が一つ入っていた。
『普請方より冒険者組合へ 請負の状
一、北街道三つ目の一里塚より先、灰色山脈の古き砦に至る道を検め、魔物と賊を払うこと
一、古き砦を検分し、その有り様を普請方へ報ずること
一、請負料 金貨六十枚。前金二十枚。報ずるを以て残り四十枚
一、出立は峠の雪の解くるを待つべし
灰壁暦三一三年 弥生十四日 普請方 ローレンツ』
小袋の口をほどいて、机の上にあけた。金貨が、灯の下で鈍く光った。エーリカは一枚ずつ数えた。二十枚。
助成は、年に金貨百二十枚だった。それが六十枚になる。浮いた六十枚が、この紙になって戻ってきた。北へ行って、古い砦を見て、帰ってくれば、の話だ。
損か、一歩か。
エーリカは、窓から扉まで歩きかけて、やめた。七歩は、封を切る前に歩くものだ。切ったあとに歩いても、紙の字は変わらない。
*
七日の朝、登録簿を開いた。
牛革の表紙に、新しい擦り傷が一本あった。護送の旅に持ち出したときに、どこかで擦ったのだろう。前の組合長のころからの登録簿で、傷は古いものから数えて十いくつある。新しい傷だけ、革の色が明るい。
最初に、ヴィルマが机の前に立った。
名、ヴィルマ。職、盗賊。出身、カルトブルン。登録日、灰壁暦三一三年卯月七日。
推挙者の欄で、ヴィルマはエーリカを見た。この街に、ヴィルマの名を知る者は少ない。口入れ屋と、宿の主と、錆び釘亭の者たちだけだ。
エーリカは、筆を取って、推挙者の欄に自分の名を書いた。
『組合長 エーリカ・ランゲ』
ヴィルマは、それを黙って見ていた。それから、短く言った。
「借りだね」
「貸したつもりはないわ」
「北では、名を貸すのがいちばん重い借りなんだ。雪が解けたら、返す」
エーリカは、返さなくていい、とは言わなかった。北の言い回しを、街の言い回しで打ち消すのは無作法だと思った。
次に、ブリギッテ。名、ブリギッテ。職、聖職者。出身、グラウヴァル下町。推挙者、灯火教会 修道女アガタ。字は大きく、勢いがあって、欄からはみ出しかけた。袖は、今日もまくってあった。
最後に、パウルが筆を取った。
名の欄に、『パウル』と書いた。姓の欄は、空けた。出身の欄に『白塔』。家族の欄は、空けた。推挙者の欄は、エーリカが推挙状のとおりに書き写した。『普請方 ローレンツ/治安方 ホルン』。
エーリカは、パウルの筆を見ていた。
書記局で八年、人の書いた字を見てきた。字の形より先に、筆の速さが見える。急いで書いた欄、迷って書いた欄、何度も書き慣れた欄。
パウルの筆は、出身の欄を速く書いた。空けた欄は、迷わずに空けた。
名の欄だけが、ほかのどの欄より遅かった。一画ずつ、丁寧に置いていた。
エーリカは、顔に何も出さなかった。
「パウルさん」
パウルは、半拍遅れて顔を上げた。
「はい」
「家族の欄は、空けたままでいいのね」
「書くことが、ありませんので」
エーリカは、それを答えとして受け取った。登録の前の者は、まだ組合の外にいる。外にいる者の答えは、答えとして受け取るしかない。
*
鉄の誓約は、登録簿の前で立てる。
ヴィルマとパウルが、机の上の登録簿に右手を置いた。エーリカが言葉を読み、二人が繰り返す。組合の建物の中では、仲間に偽らない。偽れば、壁の内で人が死ぬ。古い言い回しだ。誰が作った言葉か、エーリカは知らない。
ヴィルマの声は低く、短かった。パウルの声は、丁寧で平らだった。
ブリギッテは、登録簿に手を置かなかった。灯火教会の聖職者は、その誓願をもって誓約に代える。組合の規約の第三条だ。
「灯の前に、偽りなし」とブリギッテは言った。早口で、それから、少し照れたように袖を下ろした。下ろした袖は、すぐにまた上がった。
*
三人が下りていったあと、エーリカは推挙者の欄を、もう一度見た。
参事二人の連名の推挙は、組合長一人では退けられない。規約にそうある。前の組合長が、一度も使わなかった条だ。
退ける道は、ない。
それなら、白塔から来た者を、目の届かない所に置くより、自分の登録簿の中に置くほうがましだ。目の届く所にいれば、半拍遅れて振り向く癖も、名の欄の遅い筆も、見ていられる。
一呼吸。
エーリカは、登録簿を閉じた。受ける。
*
昼すぎ、一階の奥の卓に、一行を集めた。
ダリオ。リナ。ケスは梁の下から下りてきた。ケスは組合員ではない。雇いだ。日当で、北の空を見る。ヴィルマ。ブリギッテ。パウル。
エーリカは請負状を読み上げ、革の小袋を卓の真ん中に置いた。
リナが、袋を見た。
「前金二十枚を六人で割ると、金貨三枚と、銀貨六枚と、銅貨十三枚と、少し余ります」
一息だった。
「割るな」とダリオが言った。「まだ働いてない」
「割るだけです。数えるのは、働いたあとにします」
「それを割るって言うんだ」
ヴィルマが、笑いかけて、笑わなかった。それから、エーリカを見た。
「北へ、行くのかい」
「峠の雪が解けたら」とエーリカは言った。
ヴィルマは、膝の上の布の包みに手を置いた。
「雪が解けたら」と、ヴィルマも言った。
窓の外で、中庭の井戸の釣瓶が上がる音がした。昨夜ドゥンが直してから、もう軋まない。
*
夕方、エーリカはマグダに一筆書いた。
『祝福の日の警備に、組合から三人。ダリオ、ヴィルマ、リナ。朝六つに広場の詰所へ。日当の件は、承知しています エーリカ』
封をして、ザザに渡した。ザザは何も言わずに受け取り、下りていった。
それから、エーリカは一行の名を書き並べた紙を、もう一度見た。ダリオ、リナ、ケス、ヴィルマ、ブリギッテ、パウル。六人。
紙の端に、エーリカは小さく『樽』と書いて、消した。




