第2章 木札の壺
卯月一日の夜九つ、エーリカ・ランゲは、組合長の部屋を七歩ずつ歩いていた。
窓から扉まで、七歩。右の膝が、三歩目で少しだけ遅れる。若いころに痛めた膝だ。弓を引いていたころは、膝より先に指が覚えていた。いまは膝のほうが先に、天気と迷いを覚える。
机の上に、封書が一通ある。
普請方の封だ。弥生の半ばに届いた。開けていない。護送の一行が帰るまでは開けない、とエーリカは決めた。一行は昨日帰ってきた。それでも、今夜は開けない。中身はもう知っている。知っていることを紙で確かめるのが、なぜか怖い。
七歩で振り返る。
足もとの床板の下は、酒場だ。笑い声と、杯の触れ合う音が上がってくる。ダリオの声は、床板ごしでもよく分かる。
*
弥生十日、市参事会館の二階。
議場は、窓を背に半円に十二の席が並んでいた。席の前に名札はない。参事たちは互いの顔を知っている。真ん中に書記局の机があって、書記が二人座る。机の脇に、長椅子が一つ。議に呼ばれた者が座る長椅子だ。
エーリカは、その長椅子に座っていた。組合への助成の議の、当の組合の長として呼ばれたのだ。
書記の机の向こうで、若い書記が振り向いた。ヨーナスだ。エーリカが書記局にいたころの後輩で、袖口にいつもインクの染みがある。ヨーナスは小さく会釈して、すぐ前を向いた。
机の端に、砂入れが斜めに置いてある。エーリカが書記だったころから、あの砂入れは斜めだった。誰も真っすぐに直さない。
八年、エーリカはあの机に座った。木札の壺を、八年数えた。
参事は白い木札と黒い木札を一枚ずつ持っている。白は可、黒は否。どちらか一枚を、席の前を回ってくる壺に入れる。残った札は膝の上の袋に戻す。書記の一人が壺を空けて数え、もう一人が数え直す。
札が壺の底に当たる音は、白も黒も同じだ。だから、音では分からない。分かるのは、手の速さだ。迷っている者は、袋の中で札を探す時間が長い。
席の並びも、八年見ていれば読めるようになる。
半円の右の端から、上町の旧家の当主ザイデル、衛生方のクルーガー、治安方のホルン。亜人を城壁の外へ出したがる三人が、肩を並べて座る。その隣に勘定方のブラント。ブラントは亜人を追い出したいのではない。安く使いたいのだ。追い出すと脅されている者ほど、安く黙って働く。だから三人の隣に座って、票の段取りだけを貸す。
左の端からは、普請方のローレンツ、南門の交易商、大聖堂の代理、それに上町の夫人と縁のある二人。石切場で土竜人を使い、南門で荷運びの亜人を使い、追放の朝に黒パンを配る側だ。正しさだけで座っているのではない。それぞれに、亜人がいなくなると困る理由がある。
真ん中に、裁き役のアルブレヒトと、残りの二人。誰に借りがあるのかで、毎年、手の速さが変わる。
十二の席に、亜人は一人もいない。下の谷のことを、谷の外の十二人が決める。それがこの街の決まりで、エーリカが書記をしていた八年のあいだ、一度も変わらなかった。
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最初に立ったのは、勘定方のゲルハルト・ブラントだった。
上町の穀物商だ。痩せて背が高く、灰色の毛皮の襟をつけている。声が低く、数字をゆっくり言う。
「北の村々の税、四年続けて減った」
ブラントは帳面を開いて、七つの村の合計を一年ずつ読んだ。金貨百九十枚。百七十四枚。百五十八枚。百四十一枚。百二十五枚。一つ読むごとに、間を置いた。
「減ったものは、減ったなりに使うしかない。組合への助成、年に金貨百二十枚を、来年から打ち切る」
議場が少しざわついた。エーリカは長椅子の上で、指を組んだ。
次に、書記が陳情を読み上げた。ヨーナスの声だった。
『カルトブルン村長以下北の七村、謹んで申し上げる。去る如月より、灰色山脈の古き砦に煙と灯を見る。雪潜その他の魔物、例年より低き所まで下り、羊を三頭、犬を一匹失う。我ら税を納むる者なれば、北街道の先を守られたし』
治安方のディートリヒ・ホルンが、首の太い体を椅子の背から起こした。
「隊に人も予算もねぇ。北へ出せる者は、一人もいない」
声が大きい。議場の窓が、少し鳴ったような気がした。
ブラントが、低い声で足した。「隊の手が足りないのは、谷の連中に手を取られているからでしょうな。改めだ、追放だと」
ホルンは鼻を鳴らしただけで、何も言わなかった。言わなくても、議場の右の端の三人がうなずいた。うなずかなかったのは、左の端の五人と、真ん中のアルブレヒトだった。アルブレヒトは、いつも誰のほうにもうなずかない。
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そのとき、普請方の席から、大きな手が上がった。
石切場主のローレンツだ。爪のあいだに、石の粉が白く残っている。
「助成は、半分にしましょう」とローレンツは言った。太い声だった。「浮いた半分で、北の古砦の検分と、北街道の先の掃除を、組合に請け負わせる。隊を出さずに済み、村は守られる。助成の行は六十枚で済み、北の守りの銭は普請の行から出す。隊の予算は、一枚も増えない」
ローレンツは、議場をぐるりと見た。
「石は待ってくれますが、道は待ちません」
修正案が先に諮られた。
壺が回ってきた。大聖堂の代理が、黒札を入れかけて、隣の南門の交易商に袖を引かれた。札を袋に戻し、白を入れ直した。交易商は何も言わずに前を向いていた。
ブラントの白札は、誰より早く壺に落ちた。袋に手を入れた、と思ったときには、もう札が壺の底で鳴っていた。
エーリカは、それを見た。見たことを、顔に出さなかった。
上町の旧家の当主、ルートヴィヒ・ザイデルは、黒札を入れる前に、一度だけ北の窓を見た。白い髭の下で、口が動いたように見えた。何を言ったのかは分からない。
書記の一人が壺を空けて数え、ヨーナスが数え直した。
白、七。黒、五。
修正案で決まった。
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七歩で振り返る。
半分になった。百二十枚が、六十枚になった。残りの六十枚は、北へ行く仕事の代金として払われる。行かなければ、払われない。
損なのか。一歩なのか。
打ち切りよりはましだ。それは分かる。だが、この助成は、亜人を抱える組合だから打ち切ろうという議から始まった。半分にされたのは、半分だけ許されたということなのか。それとも、半分だけ罰されたということなのか。
決められなかった。
床板の下で、椅子を卓に上げる音がした。マスターが店を閉めている。一脚ずつ、同じ間で。あの人は、迷っているときでも同じ間で椅子を上げるのだろうか、とエーリカは思った。たぶん、そうだ。
エーリカは机の前で足を止め、普請方の封を指で押さえた。
封は、明日も切らない。たぶん、明後日も。




