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第1章 樽の札

本作はシリーズものです。第一作「夜啼きの涙」からお読みいただけますとよりいっそうお楽しみいただけます。

第一作『夜啼きの涙』:https://ncode.syosetu.com/n2595mv/

卯月の一日、夕方五つの鐘が鳴ったとき、店はもう半分埋まっていた。


ここは城塞都市グラウヴァルの冒険者組合で、一階が酒場の錆び釘亭だ。俺はそこで酒を注いでいる。組合の者ではない。雇われの酒場番だ。名前はあるが、誰も呼ばない。みんな「マスター」と呼ぶ。


ふだんなら、五つはまだ客の少ない刻だ。冒険者は日が沈んでから腹を空かせて帰ってくる。今日は違った。昨日の夕方、閉門の鐘の前に、南から一行が帰ってきた。囚人を一人、白塔という遠い学び舎まで送り届けて、受け取りの印を持って戻った。その続きを、今日も飲んでいる。


剣士のダリオは、カウンターのいちばん端にいた。大男で、髭の端が縮れている。今は、その髭の右だけが短い。旅のあいだに何かあったらしい。ダリオは麦酒を飲むたびに、右の髭を指でつまんだ。


「左と揃うまで、伸ばす」

「伸ばすのですか、切るのですか」と俺は訊いた。

「まだ決めてない」


奥の卓では、新人の魔法使いのリナが、銀貨を並べていた。麦藁色の髪を耳にかけ、一枚ずつ、指で押して数える。護送の分け前を、昨日のうちに両替屋で銀貨に崩したのだという。


「金貨のままだと、数える楽しみが少ないんです」


店の隅の梁の下には、鴉人のケスがいた。黒い羽をたたんで、首を少し傾けて、誰とも話さない。帰ってきてから、ずっとそこにいる。


*


蜥蜴人のザザが、箒を持ってカウンターの脇を掃いていた。組合の掃除番で、もう年寄りだ。灰色の鱗の手が、箒の柄を握っている。


ザザの箒が、樽の前で止まった。


カウンターの脇に、樽が一つ置いてある。南の葡萄酒の中樽だ。去年の師走に、上町の館から届いた。樽の縄に、厚い紙の札が結んである。字は細く、右に上がっていく。行の終わりの払いが長い。


『着任祝いに。見たものを口に出さない、三人へ。 A』


ザザの箒が札の下を掃くと、札が縄の先で少し揺れた。ザザはそれを見て、何も言わずに次の床へ移った。


ダリオが、樽を顎で指した。


「春だろ。もう抜いていいだろ」

「組合長が、春までは抜かない、と」俺は杯を拭きながら言った。「春になったら、今度は三人そろってから、と」

「三人って誰だ」


俺は答えなかった。


「見たものを口に出さない三人?」ダリオは札を覗きこんだ。「去年、上町の奥方の石が盗まれた騒ぎの晩に、見て見ぬふりした連中のことかね。俺は入ってねえな。見たもんは全部しゃべる」


奥の卓で、リナが小さく笑った。


三人が誰と誰と誰なのか、俺は数えなかった。札に書いてあるのは「三人」で、名前ではない。名前が書いていないものを、酒場番が勝手に埋めることはない。


樽が届いたのは、去年の師走の二日だった。雪がちらつく昼すぎに、上町の館の執事が荷車で運んできた。ちょうど巡回で寄った隊長が札を読んで、「三人、ね」と言った。頬の傷のある片側だけで笑って、春の議のあとで一杯もらいに来る、と言い残して出ていった。ダリオが栓に手をかけると、組合長が「栓は、抜きません。春まで」と言った。あの人が何かを一息で決めたのを、俺はあのとき初めて見た。


それから四か月、樽はここにいる。


「上町の奥方も、粋な札を書くよな」とダリオは言って、麦酒を飲んだ。右の髭に、泡がついた。


*


店の隅の小さな卓に、女が一人座っていた。


背が低く、肩が広い。黒い髪を後ろで一つに縛っている。膝の上に、布にくるんだ細長い包みを置いて、ときどき手で押さえる。手の甲に、古い火傷の痕があった。


北の村から来た女だ。名をヴィルマという。この店に来るようになって、今日で十日目になる。夕方に来て、麦酒を一杯だけ頼んで、閉店まで座っている。


ダリオが、空になった杯を持ってカウンターの端の席を立ち、ヴィルマの卓へ寄った。ダリオたちは弥生の半ばから、護送で街を空けていた。ダリオがこの顔を見るのは、今日が初めてだ。


「姐さん、北のどこだ」

「カルトブルン」

「去年の暮れに、行きかけた村だ」ダリオは言った。「雪で、その手前までだったがな」


ヴィルマは、ダリオの顔を見上げた。


「村長の陳情を持ってきた。春の議で読み上げてもらった。返事は、追って、だとさ」


ダリオは、ヴィルマの向かいに腰を下ろした。椅子がきしんだ。


「マスター、この人は組合の外だから、ここでも嘘がつけるんだぜ。うらやましい」


ここは組合の建物だ。組合の剣士や魔法使いは、建物の中では仲間に嘘をつかない。登録のときにそう誓う。外の者には、その誓いがない。


「つかないよ」ヴィルマは言った。「嘘で村は守れない」


ダリオは黙って、髭をつまんだ。


「山の古い砦に、灯が見えるんだ」ヴィルマは言った。「如月から。魔物も、いつもより下まで来る。羊を三頭やられた。村は、いつもと同じだけ納めたんだ。なのに、守ってもらえないのか」


膝の上の包みを、ヴィルマはもう一度押さえた。


ダリオは何か言いかけて、やめた。麦酒の杯を持ち上げて、空だと気づいて、また置いた。


春の議というのは、年に一度、市参事会が街の銭の使い道を決める議だ。弥生の十日にあった。この組合への助成のことも、そこで決まったはずだった。決まったことは、まだ組合長の机の上にある。俺は中身を知らない。知っているのは、組合長がこのところ毎晩、部屋を七歩ずつ歩いていることだけだ。


*


奥の卓で、リナの銀貨が一枚、卓の端から転げ落ちた。


床で二度跳ねて、ヴィルマの卓の脚の脇を転がり、ダリオの靴の爪先に当たって止まった。ダリオは自分の靴を見下ろした。


「これは俺の分か」

「違います」とリナは言った。


ダリオは身をかがめて銀貨を拾い、指で弾いてリナの卓へ返した。銀貨は卓の上で三度回って、伏せた。


*


裏口の向こうで、小さな咳が二つした。


下の谷の灰狼族の子が二人、スープをもらいに来る刻だ。上のハクと、下のチィ。俺は鍋を持って裏口へ行った。チィの靴紐がほどけていて、ハクがしゃがんで結び直していた。結び目を二度確かめて、立ち上がった。


外は、春の夜の匂いがした。濡れた土と、どこか遠いパン窯の匂いだ。


*


夜九つ。


ヴィルマの杯が空になっていた。俺は何も訊かずに、二杯目を注いで置いた。


ヴィルマは顔を上げて、財布の紐に手をかけた。銅貨を出しかけて、指が止まった。それから、紐を結び直した。


「すまない」

「いいえ」と俺は言った。


天井が、小さく鳴った。


酒場の真上は、組合長の部屋だ。床板が薄い。組合長は、迷う夜に部屋を歩く。窓から扉まで、七歩。七歩で振り返って、また七歩。今夜も、その足音が鳴っていた。


春の議のあとで、と隊長は言った。去年の師走、この樽が届いた日にだ。


春の議は、もう二十日も前に終わっている。


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