第13章 客
祝福の日の夜は、店が埋まる。
夜八つの鐘が鳴ったとき、卓は一つも空いていなかった。カウンターの前にも、立って飲む客が二重に並んでいる。祭りのあとは、誰もが少しだけ懐が温かく、少しだけ家に帰りたくない。
ダリオは、カウンターの端にいた。左の髭の先が縮れている。今朝、行列の蝋燭で焦がしたのだという。焦げた先は短くなったが、右と揃うほどではなかった。
「明日、もう一回焦がす」
「おやめください。店で焦がされると、梁に響きます」と俺は言った。
梁には、焦げが一か所ある。去年の霜月のものだ。二か所目はいらない。
リナは奥の卓で、今日の日当の銀貨二枚を、卓の上に並べていた。二枚では並べ甲斐がないらしく、銅貨に崩してもらえないかと、さっき俺に訊いた。断った。今夜は、釣り銭の銅貨が足りなくなる。
ケスは梁の下。ヴィルマは店の隅の長椅子で、膝の上の包みに手を置き、麦酒を一杯だけ前に置いていた。首から下がった組合の札の革紐が、まだ硬そうだった。
外の通りから、笛の音が聞こえた。祭りの夜は、下町の角ごとに誰かが笛を吹く。うまい笛も、下手な笛もある。今夜のは、下手なほうだった。
*
表の戸が開いた。
最初に入ってきたのは、黒い上着の初老の男だった。白いハンカチを鼻に当てている。男はハンカチの陰から店の中を一度見回し、半歩、脇へよけた。
その後ろから、灰色の革の手袋が入ってきた。
店が、静まった。
全部が静まったわけではない。奥の卓の何人かは、まだ笑っていた。笑っていた者も、隣の者に肘でつつかれて、戸口を見た。それから、静まった。
上町の夫人だった。
栗色の髪を結い上げ、外套の下に、祝福の日の濃い色の衣を着ていた。下町の酒場に来る格好ではなかった。
夫人は、店の真ん中をまっすぐ歩いて、カウンターの前に来た。立って飲んでいた客が、二重の列を割った。夫人は空いた椅子に座った。
俺は、客を客として迎える。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは、酒場番さん」夫人の声は低かった。「葡萄酒を。この店でいちばん普通のを」
俺は、いちばん普通の葡萄酒を注いだ。夫人は一口飲んで、杯を置いた。表情は変わらなかった。
ダリオが、カウンターの端から首を伸ばした。
「執事さんも一杯どうだ」
ヘルマンは、ハンカチを鼻に当てたまま答えた。
「勤務中です」
ダリオは、なぜか嬉しそうな顔をした。前にもどこかで、誰かに同じことを言われたらしい。
それで、店に少しずつ音が戻った。
奥の卓の笑い声が、さっきより一段低い声で戻ってきた。立って飲む客の列が、元の二重に戻った。誰も夫人のほうを見ないふりをして、誰もが少しずつ夫人のほうを見ていた。下町の酒場の客は、上町の客を見ないふりをするのが、上町の客が思っているより、ずっとうまい。
ヘルマンは、戸口の脇の壁を背にして立った。椅子は勧めても座らないだろう。俺は勧めなかった。
*
夫人は、杯の脚を手袋の指でつまんで、少し回した。
「この店に、温かい石の噂があるのよ」
俺は、杯を拭く手を止めなかった。
「さて」
それだけ言った。夫人は、それ以上訊かなかった。俺の顔を一度だけ見て、それから、杯の中の葡萄酒を見た。
ダリオが、その間に割って入った。悪気はない。ダリオに悪気があったことは、たぶん一度もない。
「奥方、今日の捧げ物、見たぜ。大聖堂の、あの石の板。組合の焼き印そっくりの石だ。釘が三本。組合が真似したんだとよ、昔の紋を」
俺は、カウンターの奥の柱を見た。
酒樽の陰の、客の目の高さより上。錆びた大釘が三本、交差して打ち込んである。ここで飲む者のほとんどは、一度も見ない。
砦の門から抜いてきた釘だ、と先代は言った。
俺は、口を開きかけた。
「……」
何も言わなかった。口を閉じて、杯を拭く手に戻った。
夫人の目が、俺の目の先を追った。それだけだった。
*
「卵を一ついただける?」
夫人が言った。カウンターの上の、赤い卵の瓶を見ていた。
「銅貨二枚です」
夫人は手袋を片方だけ外し、銅貨を二枚、カウンターに置いた。
俺は瓶の蓋を取った。今朝、十二個入れた。もう半分ほどになっている。俺は一つ取り出した。瓶の底の一つは、よけた。
卵を小皿に載せて、夫人の前に置いた。灯の下で、卵の殻の赤紫が、黒っぽく見えた。
夫人は卵を指でつまみ、殻をむいて、一口で食べた。上町の夫人が、下町の酒場の卵を一口で食べるところを、店の客の半分が見ていた。
梁の下で、ケスが一度だけ目を開けて、また閉じた。
店の隅で、ヴィルマが麦酒の杯を両手で包んでいた。上町の奥方を見るのは初めてなのだろう。見ないふりは、まだ下町の客ほどうまくなかった。
*
表の戸が、もう一度開いた。
隊長だった。祝福の日の警備の外套のまま、戸口で一度立ち止まり、外套の上の留め金を外した。役を脱ぐ合図だ。
隊長はカウンターの前まで来て、夫人の隣に立った。座らなかった。
「夫人」
「隊長」
二人はそれだけ言った。人前の呼び方だった。
俺は隊長の前に、空の杯を一つ置いた。隊長は何も頼まなかった。俺も、何も注がなかった。隊長が店に来て何も頼まないのは、珍しくない。勤務の夜の隊長は、たいていそうだ。今夜の外套の留め金は、もう外れていたが。
外の笛は、さっきより少しうまくなっていた。吹き手が替わったのかもしれない。
階段が鳴った。二階から、組合長が下りてきた。片足を少し引いている。手すりに手を置き、一段ずつ、急がずに下りてくる。下りきったところで、組合長はカウンターの前の二人を見た。
一瞬、足が止まった。それから、また歩いた。
「夫人。隊長」
「エーリカ」と夫人が言った。
カウンターの前に、上町の夫人と、隊長と、組合長が並んだ。
俺は、いつものように杯を拭いた。並んだ者を数えるのは、酒場番の仕事ではない。
夫人が、杯を置いた。それから、カウンターの脇の樽を見た。
樽の縄に結んだ札を、見た。




