第14章 祝福の日
夫人は、樽の札を読んでいた。
縄の先で、札は少しも揺れていなかった。厚い紙に、細い字。右に上がっていく行。行の終わりの、長い払い。去年の師走に、この人が自分の手で書いた字だ。
『着任祝いに。見たものを口に出さない、三人へ。 A』
夫人は札から目を上げた。
それから、手袋をはめ直した右手の指を一本立てて、組合長を指した。
次に、隊長を指した。
最後に、カウンターの内側の、俺を指した。
「三人とも、そろっているじゃない」
店の中で、それを聞いたのは、カウンターのまわりの何人かだけだった。奥の卓は、また笑いはじめていた。外では、笛が鳴っていた。
俺は、初めて三人を数えた。
数えさせられた、と言うほうが正しい。組合長。隊長。俺。札の三人に、書いた本人は入っていなかった。
去年の師走から、樽はカウンターの脇にあった。俺は毎晩その前を通り、毎朝その前を掃かせ、毎月その札の前で柱の釘を拭いた。それでも、三人を数えたことは一度もなかった。数えないことにしていた。数えなければ、札の三人に自分が入っているかどうかを、考えずにすむ。酒場番は、客の祝いの樽の数には入らない。そう決めておくほうが、樽の前を毎晩通るのが楽だった。
指で差されると、考えずにはすまない。
組合長が、俺を見た。隊長も、俺を見た。
俺は、杯を拭く布を、カウンターの下に置いた。
*
組合長が、樽の前に立った。
去年の師走、この樽が届いた夜、組合長は「栓は、抜きません」と言った。春まで、と。春が来ると、「三人そろってから」と言い足した。
組合長は、栓に手をかけた。迷わなかった。一息で、抜いた。
葡萄酒が、少し噴いた。
樽のいちばん近くにいたのは、ダリオだった。いつの間にか、カウンターの端から樽の脇まで椅子をずらしていたらしい。噴いた葡萄酒は、ダリオの顔にかかり、髭を濡らした。焦げた左の髭も、短い右の髭も、同じように濡れた。
ダリオは、髭を舐めた。
「味見は、俺が最初だ」
去年の師走、この樽が届いた夜、ダリオは味見をしたいと言って、組合長に止められた。四か月待った味見だった。
「どう」と組合長が訊いた。
「南の味がする」とダリオは言った。「髭の味もする」
*
杯を四つ出した。
一つ目を夫人の前に。二つ目を組合長の前に。三つ目を、さっき空のまま置いた隊長の杯に。四つ目は、俺の分だった。
南の葡萄酒は、樽の中で冬を越して、少し重くなっていた。灯の下で、色が濃い。
隊長は杯を持ち上げて、言った。
「私の分は、只酒じゃない」
春の議のあとで、と隊長は言っていた。春の議は、ひと月前に終わった。それでも、隊長は只酒を飲まない人だ。ひと月遅れても、只酒にはしない。
「知っているわ」と夫人が言った。「だから、三人へ、と書いたのよ」
組合長は、何も言わずに杯を上げた。
四つの杯が、カウンターの上で、軽く触れた。
南の葡萄酒は、舌の上で一度重く、喉の奥で軽くなった。冬を越した酒の味だ。俺は、自分の杯をカウンターの内側に置いた。酒場番が客の前で杯を空けることは、めったにない。今夜は、空けた。
*
夫人は、二口目のあとで、言った。
「南の川港で、温かい石の噂を聞いたの」
誰も、意味を考えなかった。少なくとも、考える顔はしなかった。祝福の日の夜で、樽の栓が抜けたところだった。
話は、北へ流れた。
峠の雪が解けたら、組合の一行が北へ行く。普請方の請負で、古い砦を見に行く。助成は半分になった。半分になった代わりに、北の仕事が来た。それが損か一歩かは、組合長にもまだ分からない。
「一歩にするのね」と夫人が言った。
「するしかないわ」と組合長が言った。
話は、大聖堂の祭壇の脇の、釘の石へ流れた。組合の焼き印に似ているという、あの石だ。夫人は「似ているから選んだのよ」と言い、隊長は「参事たちが面白がっていた」と言った。俺は、柱を見なかった。
話は、手習い所の先生の手袋へ流れた。三人とも、同じ部屋で同じ歌を習ったのだという。一人は窓の外の鳥を、一人は隣の子の匙を、一人は先生の手袋を見ていた。
「先生は、今日も同じ手袋だったわ」と夫人が言った。
「替えていないのか」と隊長が言った。
「何枚も同じのを持っているのよ、たぶん」と組合長が言った。
何も、決まらなかった。
決めるために集まったのではなかった。四つの杯は、決めるための杯ではなかった。
*
夜半の鐘の少し前に、夫人が立った。
ヘルマンが、戸口の壁から背を離した。ハンカチは、まだ鼻に当てていた。夫人は手袋を整え、カウンターに銀貨を一枚置いた。葡萄酒一杯と卵一つにしては、多すぎる。
「卵の代金は、もういただいております」と俺は言った。
「葡萄酒の分よ。いちばん普通の」
「それでも、多すぎます」
「では、次の分」
夫人とヘルマンが帰った。表の戸が閉まると、外の笛が、少しだけ遠くなった。
隊長が帰った。外套の上の留め金を、戸口で一度留めかけて、やめた。留めないまま、夜の通りへ出ていった。
組合長が、二階へ上がった。片足を少し引いて、一段ずつ。
俺は、天井を見上げて、しばらく待った。
七歩は、鳴らなかった。
*
最後の客が帰った。
俺は、椅子を一つずつ卓に上げた。木の脚が卓の縁に当たる、乾いた音が、夜半の店に続いた。
店の隅の長椅子で、ヴィルマが眠っていた。布の包みを枕にしている。割符の包みだ。首から下がった組合の札が、胸の上でかすかに上下していた。
俺は、ヴィルマの肩に、店の古い毛布を一枚かけた。
裏口の外で、歌が聞こえた。
ハクとチィだった。祭りの夜で、二人も遅くまで下町にいたらしい。谷へ帰る途中なのだろう、足音が、裏の路地を遠ざかっていく。月の歌の、三つ目の節の終わりで、チィが一つ音を外した。ハクが止まって、歌い直した。チィも歌い直して、また同じところで外した。
足音と歌が、遠くなって、聞こえなくなった。
カウンターの脇の樽には、栓の跡が残っていた。抜いたばかりの木の色が、まわりより少しだけ明るい。
樽の札は、縄に結んだまま外されなかった。誰も外さなかった。




