38 子爵邸での淑女教育
晴れやかな朝が訪れる。
寝ぼけ眼の弟は、使用人たちに連れられ、ずいぶんと前に寝所を後にしていた。
ソフィアは身支度を整え、サラとともにホールへ足を踏み入れる。
「ソフィア様、おはようございます」
「おはようございます、バーナードさん」
「昨晩はお戻りになられた際にご挨拶できず、大変申し訳ありませんでした。予定表にはお目通しいただけましたでしょうか?」
「もちろんです」
彼の引いた椅子に腰をおろしてから、ソフィアは深々と頭を下げた。
「二日間のご指導、よろしくお願いいたします!」
そばに控えるイザベラたちは、状況をつかむことができないのか、不思議そうな顔で互いを見つめている。
改めて今朝方に確認した予定表には、不在にしているジラールに代わり、家令から学びを得てほしいと書き込まれていた。
バーナードはゆっくりうなずいて、それから軽く手を叩く。
「では早速ですが、朝食を食べながらレッスンといたしましょう」
それを合図に、いくつか料理が運ばれてきた。
昨夜はたくさんのご馳走を楽しんだはずなのに、すっかりお腹が空いてしまっているわ。
ナプキンをひざに置きながら、ソフィアは幼い弟のことを考える。あの子はちゃんと、朝ごはんを食べられたのかしら。近衛隊の厳しい訓練で、無理をしていなければいいのだけれども。
それから、長いテーブルを独り占めにしたまま、朝食が始まった。
ふっくらとしたオムレツは、触れただけでも中身が溶け出すぐらいにやわらかくて、その繊細さに驚いてしまう。
一見質素に思える、ナッツがごろごろと入った焼きたてのケーキスライスも、色鮮やかなベリーが添えられたヨーグルトも、ほっぺたが落ちそうなくらいに美味しい。
静かに食事を続けるソフィアを見て、バーナードがふっと頬を緩める。
「素晴らしい。私から伝えなければならないことは、なにもないようです。ソフィア様は、どちらかでそういったマナーを学ばれていたのですか?」
「いえ。ですが、食事の作法については、幼少のころより母が厳しく教え込んでくれましたので」
「左様でございますか。では、ご母堂のご教育の賜物ですね」
彼はサラたちが食器を下げるタイミングを見計らい、控えめな声で続けた。
「ソフィア様がモンドヴォール公爵令嬢に代わり、お見合いに臨まれるということを知る人間は、この屋敷の中に三人います。レオン様と私、そして子爵夫人のニーナ様です。明日はニーナ様にもご協力いただき、予行練習を行いますので、そのつもりでいてくださいね」
子爵閣下には状況を明かしていないようで、もしも当主と遭遇した際は、うまく誤魔化してほしいと釘を刺されてしまう。
なぜだか、どんどん難易度が高くなっている気がしてならない。面倒ごとには巻き込まれたくないし、子爵とは出会わないように気をつけなくっちゃ。
「ではソフィア様。そちらのカップが空になりましたら、別室へ移動し、王都の流行物についてお話しさせていただきますね」
「は、はい!」
家令の声がけを受けて、ソフィアはマグカップの中身を一気に飲み干した。
その日、ジラールが邸宅へ戻ってきたのは、夜も更けたころだった。
ケビンは疲れ切っていて、馬車の座席で眠りこけたまま、目を覚ましそうにない。そのまま御者に抱き上げられ、屋敷の中へ連れて行かれる。
この様子だと、風呂に入るのも明け方あたりになるかもしれない。
ジラールは襟元を緩めながら、出迎えにきたバーナードに問いかける。
「どうだった? 今日のソフィア嬢は」
「とても頑張っておられましたよ。メモも細かくとられていて、分からないことは都度ご確認いただけましたし」
「それはよかった、明日もよろしく頼む。それと、バーナードに聞きたいことが」
「おかえりなさいませ、坊ちゃま!!」
「うわぁ!?」
背後から大声をかけられ、ジラールは軽く飛び上がる。
「あのですね、坊ちゃま。これをソフィア様のお部屋まで届けていただけませんか!?」
はしゃぐイザベラの手元には、ティーセットと軽食の載ったトレイが用意されていた。
「お前たちが行くのならまだしも、こんな夜更けに俺が淑女の部屋を訪れるのは、さすがに失礼だろう?」
「なーに言ってんですか! 昨日はソフィア様を遅くまで連れ回していたこと、みーんな知ってるんですからね!」
そう啖呵を切るイザベラの奥で、サラも何度かうなずく。
「私は、レオン様がお戻りになりましたら、夕餉の準備を始めますので」
次期子爵が相手であっても、使用人たちは臆することなく意見を述べてくる。
ジラールは大きな息を漏らしながら、彼女たちの申し出をしぶしぶ承諾した。
「バーナード、続きは後で。とりあえず行ってくるよ」
「承知いたしました。ホールにてお待ちしております」
届け物を託された青年は、客間の戸を叩き、静かに声をかける。
「ソフィア嬢、ケビン? レオンです。部屋に入ってもいいでしょうか?」
けれども、彼女たちからの返事はない。
「失礼しますね」
そっと扉を開くと、寝台で横になっているケビンの姿が目に映る。ソフィアはというと、手書きのメモを抱えたまま、机に腕を預けて眠っているようだ。
こうなるのも無理もないか。いきなり知らないところへ連れてこられて、膨大な知識を詰め込まれているのだから。
音を立てぬよう、サイドテーブルに盆を置いてから、少女の寝顔を見つめる。
ジラールは昨夜、領地へ戻る道中で、ソフィアに改めて謝罪をしていた。公爵からの忠言を受けて、己の提案がどれほど軽率なものであったのか、ようやく気づくことができたからだ。
彼女はむしろ恐縮しながら、ここへきたのは私のためでもありますので、と囁いた。
多くを語ろうとはしなかったが、急ぎ金策に走らねばならない理由でもあるのかもしれない。
ジラールはソフィアのひざ裏に腕を回し、体を抱き上げる。簡単に折れてしまいそうな痩身に、無理をさせているのが他ならぬ自分自身だと考えると、胸のあたりが苦しくなった。
それからケビンの隣に彼女を横たえ、乱れた髪をふわりと整える。
「おやすみなさい、ソフィア嬢」
どうかこのまま、何事もなく見合いが終わりますように。そんなことを考えながら、再びトレイを手に取ろうとしたところ、部屋の中へ滑り込んできたサラが、ティーセットを目の前でかっさらっていく。
驚いているジラールに、イザベラはにんまりと笑いかけ、勢いよく親指を立てて見せた。
そして、次の日。ソフィアはガーデンテーブルの向かいに腰掛ける女性と対面していた。
「初めまして、レオンの母のニーナです」
朗らかな笑みを浮かべた子爵夫人は、小柄でとても若々しく、スズランのようなふんわりとしたドレスがよく似合っている。
「初めまして。ソフィアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
久しぶりにつけた、がっちりとしたコルセットに姿勢を正されつつ、ソフィアは挨拶を返す。
「気楽にいきましょう。王太子とも、会談をするわけではないのですから」
美しい茶菓子を堪能しながら、しばらく二人は話に花を咲かせる。
けれども、ソフィアには気がかりな点があった。夫人はこちらに目を向けたまま、一向に視線を外そうとはしないのだ。
「ニーナ様。もしかすると、私の髪型や服装に、おかしなところでもあるのでしょうか」
「いいえ? そんなことはありませんよ。どうしてですか?」
笑顔で答えながらも、やはり彼女は熱心にこちらを見つめている。
「なんとなくですが、私の所作ではなく、外見を眺めていらっしゃるように思えたものですから」
ソフィアの言葉に、彼女は目をぱちくりさせた。
「どんな内容であっても受け止めます。気になることがあれば、ぜひおっしゃってください!」
「違うのよ、ソフィアさん。実は昔、私にはあなたと同じ黒髪を持つ友人がいたの。だから、なんだか懐かしくて」
「そうなのですか?」
「ええ。遠いところへ行ってしまったので、再び会うことは叶わないのだけれども。大切なお友達だったのよ」
もの哀しい眼差しに、はっと思い及ぶ。この方が話しているのは、モンドヴォールの亡き公爵夫人のことではないかしら。
「ごめんなさいね。じろじろ見つめられて、さぞ不愉快だったでしょう」
「いいえ。そのようなご事情があったとも知らず、こちらこそ失礼いたしました」
「ねえ、ソフィアさん? あなたはいま、幸せですか」
この質問は、おそらく私だけに向けられているものではない。
息子でさえ察していたモンドヴォール家の内情を、彼女が知らぬはずもないだろうから。
「はい。家族がそばにいてくれて、些細なことで笑い合える。そんな日々こそが幸せなのだと、最近ようやく分かったところなんです」
ソフィアの答えに、夫人は温かな笑顔を見せる。
「それはよかったわ。ソフィアさん、私たちは変わった出会い方をしましたが、こうしてお話ができて、とても嬉しいのよ。またいつでも遊びにいらしてね」
ソフィアは少し躊躇ったが、差し出された細い指をそろりと握り返した。
その晩、遅くに帰宅したジラールへ、家令は密かに語りかける。
「本日の予定も、ソフィア様は難なくこなされました。レオン様のおっしゃる通り、要領がいいだけではないと思います。本当はどこぞの貴族の血を引かれた、ご令嬢ではないでしょうか」
「やはり、お前もそう感じたか」
「よろしければお調べいたしましょうか?」
バーナードの問いへ、ジラールは即座に答えた。
「いや、詮索するのはやめよう。協力してもらえるだけでも、じゅうぶんありがたいことなのだから」
自室へと戻る子息を見届けて、バーナードは肩を落とす。
本当は王太子と同じように、ご自身のお相手を探し始めてもいいころなのに。
ソフィア様がやんごとなきご身分であれば、なんの障害もなく奥方にすることができる。けれどもあの様子では、そのような期待は抱いてらっしゃらないだろう。
次期子爵のこれからを憂いながら、家令は職務へと戻っていった。




