第9話 深層の扉
暗闇の奥で、細い紫の線が、まだ消えずに震えていた。
息を吸おうとすると脇腹が痛み、吐くと肩が軋んだ。右膝にも鈍い熱がある。手をつくと、掌に細かな砂と石の欠片が刺さった。
落ちた。
その事実だけが、少し遅れて伝わる。
レイはゆっくりと首を動かした。上を見ても、そこにはただ黒い闇があるだけだった。落ちてきた穴は見えない。わずかに崩れた土の匂いが上の方から漂っている気もしたが、それがどこからなのか分からなかった。
微かに照らされる、紫の光によって周囲を確認することができた。
(暗くてよく見えない)
携帯灯は、少し離れた場所に転がっていた。
手を伸ばして拾い上げる。硝子の覆いは割れ、金具は曲がっていた。中の火は完全に消えている。油の匂いだけが、湿った石の匂いに混じって残っていた。
もう、灯りにはならない。
レイはそれを握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
父達との約束を破るつもりはなかった。奥へ行くつもりもなかった。ただ、音がした場所を少しだけ確かめようとしただけだ。
でも、レイは今、浅層ではない場所にいる。
古い場所は、同じ音を二度鳴らすとは限らない。
あの言葉の意味が、今さら背筋を凍らせる。
レイは唇を結び、壊れた携帯灯をそっと床へ置いた。
帰らなければならない。
ミアにそう言った。
帰ってくる、と。
膝をついて、手探りで古剣を引き寄せる。古い鞘の金具は大きく歪んでいた。革紐は落下の途中で切れ、布の端には土と錆がこびりついている。
それでも、古剣は折れていなかった。
レイは鞘を外し、古剣を抱え直した。
レイは指先に紫雷を灯す。
ぱち、と小さな音がした。
闇が一瞬だけ薄くなる。
石の床。
散った木片。
崩れた土。
そして、床に刻まれた円のような傷。
紫雷が消えると、周囲はまた暗がりに戻る。
もう一度、紫電を灯す。
今度は壁が見えた。壁の奥へ伸びる細い線がある。鉱脈にも見える。けれど、自然にできたものにしては、変な感じだ。
線は何本かに分かれ、床の円へ向かい、さらに暗闇の奥へ続いていた。
レイは浅く息を吸った。
ここは、何なんだ。
声にはならなかった。
水滴の音がする。
ぽつん。
それだけだった。
浅層にあった音が、ここにはない。
鉄殻虫の硬い殻が石を擦る音もない。鉱石鼠が木材をかじる細かな音もない。薄羽蝙蝠が天井で羽を動かす気配もない。
静かすぎる。
廃坑なのに、生き物の気配が薄い。
それが、暗闇そのものよりも怖かった。
レイは古剣を握る手に力を込めた。
(ここにあるのは紫雷と古剣)
なら、完全に何もないわけではない。
レイは壁に片手をつき、慎重に立ち上がった。膝が痛み、思わず息が漏れる。肩も重い。脇腹は呼吸のたびに軋んだ。
それでも動ける。
歩ける。
帰る方法を探さなければならない。
弾ける紫雷を頼りに暗闇の中で一歩進む。もう一度灯し、足元を確かめる。
床は浅層よりも硬かった。
土や木材ではなく、石が均されている。ところどころ割れてはいるが、ただの坑道の床には見えない。誰かが長い時間をかけて整えたような平らさがあった。
レイは足を止めた。
紫雷を灯す。
奥に、扉があった。
最初は、石壁の影に見えた。
けれど、紫の光が一瞬走った時、その表面に細い線が浮かんだ。鉱脈のようで、傷のようで、それでいて何かの模様にも見える。
けれど、そこだけ空気が違っていた。
レイは動けなかった。
近づいてはいけない。
そう思った。
父との約束が、また蘇る。
奥へは行かないこと。
けれど、もう落ちてしまった。ここでうずくまっていても、浅層へ戻れるわけではない。
(動かないと)
レイは一歩、扉へ近づいた。
水滴の音が背後で響く。自分の靴音が、思っていたより大きく返ってきた。
扉の前に立つと、古剣の鍔が小さく震えた感じがした。
レイは鞘を外し、古剣を抜いた。
暗闇の中で見ても、剣はやはりひどく古い。刃は欠け、錆は深く、柄の革も剥がれかけている。
それなのに、鍔の細い傷だけが、扉の線と同じ向きを向いているように見えた。
偶然かもしれない。
レイは古剣を両手で持ち直す。右肩が痛み、腕が少し震えた。
表面をよく見ると、端の方に細い溝があった。
(ここにこの剣が入りそう。)
レイは剣を細い溝へ差し込んだ。
(あれ?何も起こらない?)
よく扉を見る。
扉の線がなんだか雷のように見えてくる。
(もしかして…)
浅層で、刃の奥に一瞬だけ紫の線が残った時の感覚を思いだしながら剣に紫雷を流す。細く長く、刃の先へ通すように。
ぱちん、と乾いた音がした。
その音にレイはびっくりして肩を震わせた。
音は空間に響き渡った。
そして
まず、溝から伸びている細い線が一本だけが紫色になった。
次に、その周りの線も徐々に呼応するように紫色になり広がっていく。
最後に全ての線が紫色になり蜘蛛の巣のように見えた。
雷が産声を上げたような低い音がした。
床に刻まれた円形の傷にも、紫の光が走った。
レイは反射的に古剣を引こうとした。
けれど、引けなかった。
(いったい何が…)
その瞬間、今度は何かが崩れるような音がした。足場が抜けた時とは違う。石や木ではなく、目に見えない細い線が、無理に断ち切られるような。
レイは恐怖を感じた。得体のしれない何かに。
剣から魔力が少しずつ削られていくのが分かる。
それでも、紫雷を保った。
(なんだかここでやめるのはよくない気がする)
扉の線が、さらに奥へ走る。
すると、扉の表面が薄く輝いた。
扉が糸を巻き上げられるようにゆっくり解けていく。
開いた先では、奥に続く空間が見えた。
湿った土の匂いがなく、代わりに、乾いた金属の匂いがした。
剣に力を入れると今度はすぐに抜けた。少しだけ倦怠感を感じた。
(扉を開くのに魔力が必要だった?)
レイは恐る恐る、扉を抜け奥へ進む。
床は石ではなかった。黒い板のように硬く、淡い光をわずかに返している。壁にも細い線が走っているが、亀裂ではない。何かが通るための道に見えた。
無意識に足が止まり、レイは振り返る。
落ちてきた場所は、もう暗闇の向こうにある。そこへ戻る道は見えない。上へ登る手がかりもない。
(ここまで来たら進むしかないな)
そう思っても、足はすぐには動かなかった。
レイは古剣を胸の前で握る。
指先で紫雷を弾けさせる。
ぱち。
その音で少しだけ落ち着くことができた。
(よし、行ける)
そして、レイは一歩踏み出した。
進むにつれて、空気が変わる。
すごく空気がひんやりする。
肺に入る空気は薄く、足元の黒い床は硬く、靴音が短く返ってくる。
こつ。
その音は、浅層の坑道とは違っていた。
反響が少ない。
明かりは灯ってないはずなのに薄暗い。
レイは進む。
奥に、何かがあった。
びっくりして声が出そうになる。
(あれは人の影?)
空間の奥に、影が立っていた。
黒に近い灰色の外套。
古い軍装のような服。
片手には、剣。
顔は、霧がかかったように薄れていて、目元も口元も分からない。
生きている人間なのか、ただの影なのかも分からなかった。
レイは声を出そうとした。
けれど、今度は恐怖で声が出なかった。
その影が、ゆっくりとこちらを向いた。
指先で紫雷を弾けさせることしかできなかった。それはレイにできる小さな威嚇。
霧のように顔の薄れたその影が、レイの指先に残る紫雷を、静かに見ていた。
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