第8話 奥へ続く音
翌朝、目を覚ました時、昨日の倦怠感は消えていた。
昨夜、古剣へ紫雷を流そうとした感覚が薄く蘇る。刃元から刃先へ、細く長く這わせようとして、途中で途切れた紫の線。
(結構難しかったな…)
レイは寝台の上で手を開き昨日の感覚を思い出していた。
レイは寝台から降り、木箱の前に膝をついた。
ロウエンが用意してくれた古い木箱の蓋に手をかけると、金具が小さく鳴った。
ヴェイル家の武器庫にも、もっと整った剣ならある。
父や兄が使うための剣。手入れされた護身用の剣。古くても、少なくともこの錆びた鉄屑よりは、剣らしい剣がいくつか残っている。
(やっぱりこの剣は紫雷を通しやすいみたいだから練習にちょうどいいな)
それに、ボロボロの剣が自分自身にに少し似ているとなんとなく感じた
思慮にふけながら箱を持ち上げようと力を入れた瞬間
刃が箱の縁に当たりそうになり、思わず手を止める。
レイは少し困ったように、布の上から古剣を見た。
(…持ち運び大変そうだな)
着替えを済ませ、古剣を布で包み直して廊下へ出ると、屋敷の空気はまだ少し冷えていた。暖炉で燃える薪の匂いが、廊下の奥から薄く流れてくる。
階段の下で、エマが箒を持っていた。
「レイ様」
「あ……おはようございます」
「おはようございます。昨日の今日で、また廃坑ですか?」
明るい声だったが、目はレイの手元を見ている。布に包まれた細長いものを見て、エマは少しだけ眉を寄せた。
「少しだけ、確かめたいことがあって」
「レイ様の“少しだけ”は、あまり信用しておりません」
「……気をつけます」
「本当に、気をつけてくださいね」
エマはそう言ってから、少し思い出したように廊下の奥を見た。
「そういえば、ロウエンさんが探しておられましたよ。昨日、物置の掃除で古いものが出てきたので」
「古いもの?」
「私は何に使うものか分かりませんでしたけど、ロウエンさんが見て、レイ様にちょうどよいかもしれないと」
ちょうどよい。
その言葉に、レイは少しだけ首を傾げた。
食堂の前まで行くと、ロウエンが待っていた。
いつものように背筋を伸ばし、静かな顔をしている。その手には、古びた鞘があった。
黒に近い焦げ茶色の革は乾き、ところどころ擦れている。金具は鈍く曇っていた。派手な装飾はない。けれど、長く誰かに使われていた形跡が見て伺えた。
「レイ様」
「ロウエン、それは」
「古い物置に残っていたものでございます。エマが掃除中に見つけました」
ロウエンは鞘を差し出した。
「合い物ではございません。少々、大きいですが…」
レイは布をほどき、古剣を見せる。
ロウエンは何も聞かない。
ただ、古剣の長さと鞘を見比べ、用意していた古布を鞘の内側へ詰める。さらに革紐を取り出し、刃が中で動きすぎないように軽く縛った。
手つきは静かで、迷いがなかった。
「これで、布のまま持ち歩くよりは安全かと存じます」
「……ありがとうございます」
レイは古剣を鞘へ収めた。
ぴたりとは合わない。中で少しだけ揺れる。けれど、欠けた刃が布から覗くよりずっとましだった。
腰に下げるには長く、重さも偏る。だからレイは革紐を肩にかけることにした。
少し歩きにくい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「廃坑へ行ってきます」
「承知いたしました」
ロウエンは静かに頷いた。
「奥へは行かないこと。昼前にはお戻りになること。雨の日は行かないこと。具合が悪い日は休むこと」
「はい」
「それと」
ロウエンの視線が、鞘へ一度だけ落ちる。
「古い場所では、足元より先に音をお聞きくださいませ」
「……昨日も、そう言われました」
「古い場所は、同じ音を二度鳴らすとは限りませんので」
その言葉の意味が、レイには少しだけ怖く聞こえた。
けれど、頷く。
「気をつけます」
ロウエンはそれ以上、何も聞かなかった。
玄関へ向かう途中、廊下の窓辺にミアが立っていた。
薄い羽織を肩にかけ、両手で袖を握っている。朝の光の中で、顔色は悪くない。
「兄さま」
「ミア。起きてたんだ」
「はい」
ミアの視線が、レイの抱えた古い鞘へ向かう。
「昨日の剣ですか」
「うん。ロウエンが鞘を用意してくれた」
「……また廃坑へ?」
「まだ、確かめたいことがあるんだ」
ミアはじっとレイを見た。
心配している目だった。
「無理はしないでくださいね」
「エマにも、似たようなことを言われた」
「エマは正しいです」
真面目な声だった。
レイは困って、少しだけ笑った。
「気をつける」
ミアはすぐには頷かなかった。
それから、小さく言った。
「帰ってきてくださいね」
レイはその言葉に、一瞬だけ返事が遅れた。
「うん。帰ってくる」
屋敷を出ると、朝の空気は澄んでいた。
霧が低く残り、森へ続く細い道の先を白くぼかしている。靴底が湿った草を踏むたび、柔らかな音がした。
肩にかけた鞘が、歩くたびにわずかに揺れる。
廃坑は、領地の外れにあり採掘者以外はほとんどここに来ない。
もっとも、盛っていたのはもう随分も昔のことらしい。
けれど、レイにとっては、自分の紫雷を確かめられる唯一の場所でもあった。
廃坑の入口は、昨日と同じように口を開けていた。
黒ずんだ木の支柱。錆びた鉄柵。湿った土と古い水の匂い。入口から差し込む薄い光は、奥へ行くほど弱くなり、石壁の冷たさだけが濃くなる。
レイは小さな携帯灯に火を入れた。
浅層なら入口の光も届く。けれど、壁際や足元を見るには灯りが必要だった。携帯灯の火は小さく、油の匂いがかすかにした。
水滴が落ちる音が、坑道の奥で響く。
ぽつん。
遅れて、靴音が返ってきた。
レイはロウエンの言葉を思い出し、立ち止まって耳を澄ませる。
足元より先に、音。
遠くで石が転がるような音がした。
けれど、それ以上は何もない。
レイは浅層のいつもの場所まで進み、壁際の平らな石の上に携帯灯を置いた。肩から鞘を下ろし、古剣を抜く。
(やっぱりボロボロだ)
指先に紫雷を灯す。
ぱち、と小さく鳴る。
最初に鍔へ触れさせた紫雷は、表面で散った。
昨日の夜と同じだった。
強すぎる。
レイは息を細く吐く。
撃つのではない。
押し込むのでもない。
錆の上を走らせるのではなく、その下に残っている細い隙間を探す。
もう一度、指先の紫雷を細く長くする。
今度は刃元へ。
紫電が、古剣の表面で弾けかける。レイは少しだけ力を抜いた。
紫雷が、刃の奥へ沈んだ。
ほんの一瞬。
刃の内側に、細い線が浮いた。
昨日より長い時間、紫雷を通すことができた。
(ほんのわずかな時間だけど)
口元が、少しだけ緩む。
その時だった。
坑道の奥で、かすかな音がした。
細い金属が、遠くで震えたような音だった。
レイは顔を上げた。
携帯灯の火が揺れる。
音は、浅層の端にある古い資材通路の方から聞こえた気がした。
父との約束が頭をよぎる。
奥へは行かないこと。
レイは古剣を握ったまま、足を止めた。
奥へ行くつもりはない。
少し、音のした場所を確かめるだけ。
そう思ってしまった時点で、もう足は前へ出ていた。
資材通路の近くは、床板の一部が黒くなり、支柱の根元には細かな噛み跡がある。
鉱石鼠のものだろう。
木の表面を軽く触れると、古い粉が指についた。
レイは視線を上げる。
壁際に、細い糸のようなものがあった。蜘蛛の糸に似ている。けれど、携帯灯の光を受けた端が、わずかに金属色を帯びている。
(これはなんだろう?)
(何かの模様?)
そう思った瞬間、足元が鳴った。
ぎし、と木が軋む。
レイは我に返った。
携帯灯の火が大きく揺れた。支柱の根元から、乾いた粉が落ちている。
遠くで、こつん、と石が転がった
今度は地面が鳴った。
今度は近い。
「……っ」
その瞬間、支柱の根元が折れた。
床が沈む。
浮いた、と思った。
次の瞬間、足場が抜けた。
携帯灯が石の上から転がり落ちる。硝子の覆いが割れる音がして、火が消えた。
闇が広がる。
レイの体が落ちた。
咄嗟に古剣を抱え込む。
古い鞘の金具が、崩れた鉄枠に引っかかった。
体が横へ振られる。
肩が石壁に叩きつけられた。
息が詰まる。
革紐が切れる音がした。
完全には止まらない。
けれど、真下へ落ちるはずだった体は、斜めに崩れた空洞へ投げ出された。
土と木片が落ちる。錆びた鉄の匂いが鼻を刺す。古剣が腕の中から離れかけ、レイは反射的に掴もうとした。
足場。
壁。
何か。
届く場所を探そうとした。
けれど、暗い。
考えが追いつかない。
木材にぶつかり、脇腹に痛みが走る。膝が何かをかすめた。体の向きが変わり、世界が分からなくなる。
そして、冷たい石の床に叩きつけられた。
息ができなかった。
しばらく、音が遠ざかっていた。
耳の奥で、自分の鼓動だけが鳴っている。
レイは、動こうとして失敗した。右肩が痛い。膝も擦れている。脇腹に鈍い痛みが残っていた。
けれど、動けないほどではない。
骨は、たぶん折れていない。
レイは浅く息を吸った。
土埃の匂い。古い金属の匂い。湿った石の冷たさ。
携帯灯の火は、消えていた。
あたりはほとんど真っ暗だった。
レイは手探りで古剣を探す。指先が鞘に触れた。金具が歪んでいる。革紐は切れていた。
それでも、古剣はそこにあった。
レイは胸の奥で、少しだけ息を吐く。
暗闇の中、指先に紫雷を灯した。
ぱち、と小さく鳴る。
その一瞬だけ、冷たい石壁が紫に浮かんだ。
床に刻まれた、円のような傷。
壁の奥へ伸びる、細い線。
そして、暗闇の奥にある大きな影。
紫雷が消えると、すべてがまた闇に沈んだ。
レイは息を止める。
(ここはいったいどこだろう?)
鉄殻虫の音も、鉱石鼠の気配も、薄羽蝙蝠の羽音もなかった。
水滴の音だけが、深い場所で静かに響いている。
怖い。
そう思った。
父との約束。ロウエンの言葉。ミアの「帰ってきてくださいね」という声。
それらが一度に胸の奥へ落ちてきた。
レイは古剣を握った。
指先の紫雷が、もう一度だけ弾ける。
今度は、古剣の鍔にある細い傷が、一瞬だけ紫に浮かんだ。
それに応えるように、暗闇の奥で、細い線がひとつ灯る。
扉のように見えた。
石壁の奥に沈むように立ち、そこには何本もの古い線が刻まれている。そのうちの一本だけが、レイの紫雷に呼ばれたように、かすかに紫を帯びていた。
レイは、動けなかった。
そこにあるものが何なのか、分からない。
けれど、分からないままでも、一つだけ分かった。
ここは、ただの廃坑ではない。
暗闇の奥で、細い紫の線が、まだ消えずに震えていた。
ここまで読んで頂きありがとうございました。




