古い木箱
第7話 古い木箱
もう昼過ぎだろうか、太陽がだいぶ高い所にある。そんな事を考えながら屋敷の裏口より中に静かに入る。
廃坑の湿った土が、靴にも、膝にも、袖口にもついていた。
腕の中には、布に包んだ古い剣がある。
片手で軽々と持てるほど、軽くはなかったが、両手で持てば振る事ができる程度の重さ。
レイが持つには少し長く感じた。
父との約束を思い出す。
奥へは行っていない。たぶん、昼前にも戻ってきた。
けれど、廃坑から古い剣を持ち帰ったことを、どう説明すればいいのか分からなかった。
(剣なんて持って帰ったのがバレたら、危ないことをしてるって思われて廃坑に行かせてもらえなくなっちゃうよね…)
レイは古剣を抱えなおした。
屋敷の中は、天気が良いおかげか、少し暖かかった。遅れて弱い暖炉の匂いが薄く流れてきた。
人の気配は少ない。
(きっと領地の話し合いとかしてる)
その静けさに、少しだけ安心する。
「レイ様」
背後から声がした。
「!?」
レイは、肩を小さく跳ねさせた。
振り向くと、エマが洗濯籠を抱えて立っていた。栗色の髪を後ろでまとめ、いつものように明るい顔をしている。けれど、その目はすぐにレイの袖口と足元へ落ちた。
「お戻りでしたか。……ずいぶん、土がついておりますね」
「あ……すみません」
レイは反射的に謝った。
「廊下は汚さないようにします」
「廊下より先に、レイ様の方です」
エマは籠を脇の台に置き、レイの近くへ来た。
その視線が、レイの手の甲で止まる。
「その手はどうなさったんですか」
レイは自分の手を見る。
廃坑で木片に引っかけた傷は思ったよりも深くまだ血が出ており、土も少しついている。
「少し、木片で切っただけです」
エマは困ったように眉を寄せた。
「本当に、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは、手を洗ってから判断いたします」
言い方は柔らかいのに、有無を言わせない響きがあった。
レイは返事に詰まる。
腕の中の古剣が、微かな音を立てる。
エマの視線が、布に包まれた細長いものへ向かう。
「それは……」
聞きかけて、エマは言葉を止めた。
レイは、思わず古剣を抱え直した。隠したつもりはない。けれど、その動きは自分でも分かるほどぎこちなかった。
エマはそれを見て、少しだけ目を細める。
けれど、深くは聞かなかった。
「先に手を洗いましょう。泥が入って炎症が起きたら大変ですから」
「……はい」
レイは小さく頷いた。
洗い場の水は冷たかった。
指先に触れた瞬間、廃坑の石壁を思い出す。湿った土の匂い、錆びた鉄の匂い。
水で土を落としても、その感触だけは消えなかった。
エマは手早く傷を拭き、薬草を練った軟膏を薄く塗った。包帯を巻くほどではなかったが、白い布を小さく当ててくれる。
「もう、あまり無理をなさらないでくださいね」
「はい」
「本当に分かっておりますか?」
「……たぶん」
「たぶん、では困ります」
エマは少しだけ笑った。
その笑い方に責める響きはなかった。だから余計に、レイは何も言えなくなる。
廃坑で何を見つけたのか。
どうしてそれを持ち帰ったのか。
聞かれれば答えなければならない。
けれど、エマは聞いてこなかった。
エマは湯気の立つ小さな杯をレイの前に置いた。
「薬草茶です。苦いですが、飲んでください」
「ありがとうございます」
杯を受け取ると、温かさが指に移った。
レイは布に包んだ古剣を床に置こうとして、少し迷う。
ただの錆びた剣なら、それでよかったはずだ。けれど、手を離そうとした瞬間、欠けた刃が床に当たる音を想像してしまった。
結局、レイは壁際の古い椅子に、そっと立てかけた。
(何だか宝物みたいだ)
布に包んだ古剣を見ながらそう思った。
屋敷は静かだった。
廊下の向こうから、紙をめくる音が聞こえる。父が領地の報告書を見ているのかもしれない。低い声が少しだけ響き、すぐに聞こえなくなった。
レイは古剣を抱え、できるだけ足音を立てずに自室へ向かった。
見つかって困るものではないはずだが、父には言いにくかった。
自室の扉を開け、レイは中へ入った。
部屋には机と椅子、古い棚、壁際に置かれた本。窓辺には、何度も広げた地図が畳まれている。
レイは古剣を机の上に置こうとして、すぐにやめた。
机の上には地図と本がある。
床に置くのも違う気がした。
少し考えて、レイは壁際の空いた場所に古剣を置いた。布に包まれたまま、なるべく丁寧に。
それでも、置いた瞬間に軽い音がした。
こつん。
レイはしばらく古剣を見下ろしていた。
布の端から、欠けた刃がほんの少しだけ覗いている。錆びた灰黒い色。とても綺麗とは言えない。
少し雷を通してみようと思ったが、
机や床を焦がすかもしれないので我慢した。
「兄さま」
小さな声がして、レイは振り向いた。
開きかけの扉の前に、ミアが立っていた。
淡い髪が肩にかかり、薄い室内着の上に羽織をまとっている。体調のいい日なのか、顔色は悪くない。けれど、両手で袖を握っていた。
「ミア。どうしたの」
「エマが、兄さまが戻ったと教えてくれました」
「……心配かけた?」
「少し」
ミアは素直に頷いた。
その視線が、壁際の布へ向かう。
レイはわずかに身じろぎした。
「それは?」
「拾ったものだよ」
言ってから、自分の声が少し硬いことに気づいた。
ミアは近づいてこなかった。扉のところで立ち止まったまま、レイと、布に包まれたものをジーーっと交互に見る。
「廃坑で、ですか」
「うん」
「危ないものですか?」
レイはすぐには答えられなかった。
危ないものかもしれない。
錆びている。刃も欠けている。持ち方を間違えれば怪我をする。父に見つかれば、きっといい顔はされない。
「たぶん、剣だったもの」
「剣?」
「今は、もうほとんど使えないと思う」
ミアは少しだけ首を傾げた。
「でも、持って帰ってきたんですね」
レイは言葉に詰まった。
拾っただけなら、置いてくればよかった。
使えないなら、なおさらだ。
それでも、そうしなかった。
「……少し、気になって」
「雷ですか?」
レイは顔を上げた。
ミアは静かにこちらを見ている。責める感じはない。ただ、いつものように、レイが自分でも気づいていないものを見ている目だ。
「どうして、そう思ったの」
「兄さま、今日は少し……嬉しそうです」
「嬉しそう?」
「はい。雷を見ている時と、少し似ています」
レイは否定しようとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
嬉しい。
そう言われると、何も言えなかった。
ただ、紫雷が通しやすかった。
そのことを思い出すと、わずかに口元が緩む。
「……そう見える?」
「はい」
ミアは小さく頷いた。
廃坑で見た、刃の中の細い紫雷。
とても綺麗だと思った。
「危ないことは、しないでくださいね」
ミアが静かに言った。
レイは反射的に「大丈夫」そう答えた
「兄さまは、大丈夫と言って、あまり大丈夫ではない時があります」
「……エマにも似たようなことを言われた」
「エマは正しいです」
ミアの声は真面目だった。
レイは少しだけ困って、それから小さく頷いた。
「気をつける」
ミアはそれ以上聞かなかった。
布の中身を見たいとも言わなかった。
「兄さまが、大切にしたいものなら」
そこで言葉を切り、少しだけ考えるように目を伏せる。
「なくさないようにしてください」
「……うん」
ミアが部屋を出ていったあとも、レイはしばらく扉の方を見ていた。
大切にしたいもの。
そう言われると、やはり答えに困る。
これは大切なものなのだろうか。
午後になると、屋敷の中はさらに暖かくなりとても過ごしやすくなった。
弱い暖炉の火が廊下の端に揺れ、古い石壁に橙色の影を作っている。レイは自室で本を開いていたが、文字はあまり頭に入らなかった。
何度も、壁際の布へ目が向く。
布に包まれた古剣は、何も変わらない。光りもしない。震えもしない。もちろん、何かを語ることもない。
それでも、そこにあるだけで、部屋の中にひとつ違う空気が混じったようだった。
扉を叩く音がした。
「レイ様」
ロウエンの声だった。
「はい」
レイが返事をすると、扉が静かに開く。
ロウエンは、いつものように背筋を伸ばして立っていた。年齢を感じさせる白い髪、深い皺、けれど動作には無駄がない。
その手には、古い木箱があった。
レイは思わず立ち上がる。
「ロウエン?」
「古いものを置くなら、こちらをお使いください」
ロウエンはそれだけ言って、木箱を机の脇に置いた。
大きすぎず、小さすぎない箱だった。古いが、丁寧に磨かれている。角には金具がついていて、蓋は少し重そうだった。派手な装飾はない。ただ、長く使われてきたもの特有の、落ち着いた色をしていた。
レイは木箱と、壁際の布を見比べた。
「……これは」
「お部屋の床に置くには、少々錆が移りやすいかと存じます」
ロウエンの声は、いつも通り静かだった。
レイは喉の奥で言葉を探す。
「中身は、聞かないんですか」
「レイ様が必要だと思われたものなのでしょう」
ロウエンは、それ以上を言わなかった。
レイは返事に詰まった。
必要だと思った。
本当に、そうなのだろうか。
古剣が必要なのかどうかは分からない。何に使えるのかも分からない。そもそも、使えるものなのかさえ分からない。
けれど、置いて帰ることはできなかった。
ロウエンは壁際の布へ一度だけ視線を向けた。
「大切なもののようでございますね」
静かな一言だった。
レイはすぐに否定しようとした。
大切。
そんな言葉を使うほどのものではない。ただの錆びた剣だ。今日見つけたばかりで、まだ使ったこともない。
けれど、口を開いても、否定の言葉は出てこなかった。
「……分かりません」
ようやく出たのは、それだけだった。
ロウエンは小さく頷いた。
「分からないものを、すぐに捨てる必要はございません」
それだけ言うと、ロウエンは一礼した。
「では、薬草茶を替えてまいります」
「あ、ありがとうございます」
レイが礼を言うと、ロウエンはいつもの静かな足取りで部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に、木箱と古剣だけが残った。
レイはしばらく動けなかった。
分からないものを、すぐに捨てる必要はない。
その言葉が、胸の奥に残る。
レイは壁際へ行き、布に包んだ古剣を両手で持ち上げた。
やはり少し重い。
木箱の蓋を開ける。
中には古い布が敷かれていた。いつ用意したものなのか、柔らかくはないが、しっかり包めそうだ。
レイは古剣をそっと入れた。
欠けた刃が箱の底に当たらないように、柄の傷んだ部分に負担がかからないように。
そこまでしてから、ふと気づく。
自分は、この剣をかなり丁寧に扱っている。
レイは箱の中の古剣を見下ろしながらそう感じた。
夜になると、屋敷の中は少し寒くなった。
レイは寝台に入らず、机の前に座っていた。
木箱は机の下ではなく、手の届く場所に置かれている。
何度も見ないようにしようとして、結局、蓋へ手を伸ばした。
古い金具が小さく鳴る。
箱の中の古剣は、昼間よりもさらに暗く見えた。錆びた刃は月明かりをほとんど返さない。柄の革は乾き、欠けた刃の輪郭だけが薄く浮かんでいる。
鍔の細い傷に、レイの視線が止まった。
雷線のような傷。
(少し雷を通すだけなら)
レイは右手を伸ばす。
指先に、紫雷を灯した。
ぱち、と小さな音がする。
夜の部屋では、その音がはっきり聞こえた。
レイは息を整え、古剣の鍔へ紫電を近づける。
強く流さない。
細く。
廃坑でそうした時のように。
紫雷が、古剣に触れた。
一瞬、刃の奥に細い紫が浮かびかけた。
けれど、すぐに散った。
レイは目を凝らす。
もう一度、角度を変えて試す。
今度は、鍔の表面で小さく弾けただけだった。
ぱち。
紫雷は、刃の奥へ沈まない。
レイは指を止めた。
ここでは、届かないのかもしれない。
それとも、自分の流し方が違うのかもしれない。
けれど、分からないなら、もう一度確かめるしかない。
レイは古剣を見た。
紫雷を細く長く、刃の上を刃凶から徐々に鋒へ這わしていく。先端まで行ったところで集中力が切れて紫雷が、ぱちっと弾けて消えた。
レイは古剣を木箱に戻し、蓋に手を添えた。
軽い倦怠感を感じた。
(以外に難しいな…)
続きはまた明日やってみよう。そう考え、レイは床についた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。




