第10話 良い雷だ
影は動かなかった。
レイも動けなかった。
ただ、指先の紫雷だけが、ぱち、と小さく弾けた。
その音が、黒い床に力なく響く。
レイは息を呑む。徐々に呼吸が浅くなっていく。
(ただ向かい合っているだけなのに……)
影は、まだレイを見ている。
いや、レイではない。
レイの指先。
そこに残っている紫雷を見ていた気がした。
検査官が来た日のことを思い出した。
水晶を覗き込んだ大人たちの目。どの属性か。魔力量はどれくらいか。将来、どれだけ役に立つか。
「無理はするな」
兄に言われた言葉。
けれど、この影の視線は純粋にただ、雷の流れだけを見ている感じがした。
それが、何より不気味だった。
「……あの」
ようやく声が出た。
けれど、廃坑の奥で出した声は、自分のものではないみたいに弱々しかった。
「あなたは……誰ですか」
影は答えない。
灰色の外套が、音もなく揺れた。
風はない。
なのに、外套の裾だけが、ゆっくりと風に撫でられたように動いている。
レイは古剣を握り直した。
さっき扉を開ける時に力を使ったせいか、少し倦怠感を感じる。
(僕に何かできるかわからないけど)
影が一歩、近づいた。
足音はしなかった。
レイの喉が小さく鳴る。
逃げるべきだ。
頭では分かっていた。
けれど、どこへ逃げればいいのか分からない。背後は今通ってきた道。その奥には、落ちてきた場所と、戻れない闇がある。帰り方なんてわからない。
前には、この影がいる。
影はレイの数歩前で止まった。
近い。
近すぎる。
古剣を構えてはいる。逃げ出すにはもっと距離が必要だった。
もうすでに影の間合いに入っている。
それでも、レイは古剣を胸の前に上げた。
剣の構えなんて、ほとんど知らない。屋敷で習った護身の型を、うろ覚えでなぞっただけ。刃先は震えている。
自分でも分かる。
これでは、構えになっていない。勝負にすらならない。
影は、古剣を見た。
それから、レイの指先を見た。
長い沈黙が落ちる。
レイは唇を結んだ。
胸の奥で、心臓が強く鳴っている。その音が部屋中に響き渡っているようにさえ感じた。
影が、初めて口を開いた。
「細い」
低い声だった。
だが、身体の芯まで届くような声だった。
「え?」
何を言っているのか理解できない。
「弱い」
続けて、影は言った。
その言葉に、胸の奥がズキっと痛む。
分かっている。
レイの雷は強くない。
金色に輝く雷ではない。大きく弾けて敵を焼く雷でもない。父や兄の土魔法のように、領地を支える力でもない。
雷属性のみ。
魔力量も多くない。
何度も聞いた。
何度も、言葉にされなくても感じてきた。
食堂の沈黙。
父の黙った横顔。
そのどれもが、責めるものではなかった。
それでもレイには、自分が役に立てないと言われているように聞こえた。
いつも思い出すだけで心が打ちのめされる。
いっそ、責めてくれた方が楽だと思ったこともある。
レイはすでに自分自身に負けそうになっていた。
「だが」
レイは影の顔をよく見る。
「良い雷だ」
思考が止まった。
良い雷。
レイは、その言葉の意味が分からなかった。
けれど、その一言がとても嬉しかった。
「僕の、雷が……」
声は途中で消えた。
何と言えばいいのか分からなかった。
本当に?
どうして?
ありがとうございます?
どれも違う気がした。
影は答えなかった。
ただ、片手に持っていた剣を、ゆっくりと上げた。
それだけで、敵意はないと無意識に感じた。
しかし、すぐにレイの背筋に冷たいものが走る。
レイの第六感が危険だと訴えていた。逃げろと。
影が言った。
「受けてみろ」
次の瞬間、影が消えた。
消えたように見えた。
速い、と思う暇もなかった。
ただ、目の前にいたはずの影が、いつの間にか目の前に迫っていた。
「っ……!」
レイは古剣で防ごうとした。
遅すぎる。
自分でも分かった。
腕が動ききる前に、肩へ衝撃が走った。
斬られたのか、打たれたのか分からない。
痛みは一拍遅れて来た。
息が止まる。
体が横へ飛ばされ、黒い床に叩きつけられた。
肺の中の空気が抜ける。
視界が白く弾けた。
次に、黒く狭まった。
「……っ、は……」
声にならない息が漏れる。
全身が痛い。
蹴られた?
けれど、それよりも強く残ったのは、何もできなかったという事実だった。
見えなかった。
受けられなかった。
避けることもできなかった。
レイは床に手をついた。
立とうとする。
腕に力が入らない。
古剣は、まだ手の中にあった。
それだけは離さなかった。
影は、最初と同じ場所に立っていた。
いつ戻ったのか、分からない。
レイは歯を食いしばった。
敵意はないと思った。でも攻撃された。
(いや、その気があれば今の刹那の瞬間で何十回も殺せるはずだ……)
悔しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
影の声が低く聞こえてくる。
「遅い」
短い言葉だった。
ただ、事実だけを伝えているように感じた。
レイは唇を動かした。
「……まだ」
声はほとんど出なかった。
まだ、立てる。
そう言いたかった。
けれど、体は動かない。
指先だけが震えている。
レイは指先に紫雷を弾けさせる。
暗い廃坑で、古剣が初めて応えてくれた時の線。
雨の夜、窓の向こうに見た紫。
母が怖がらずに見てくれた指先の光。
誰にも価値を測られなかった、ただ綺麗だと思ってしまった雷。
それを、良い雷だと言われた。
なら。
この影の意図はわからないけど多分、立てと言っていると思う。
レイは古剣を握る指に、ほんの少しだけ力を込めた。
もう剣を構える力は残っていない。
指先から紫雷を撃つ。
それは細くて今にも消えてしまいそうな雷。影に届かず霧散する。
(相手に届かせることすらできない)
(悔しい、せめて立ち上がることくらいは)
レイは最後の力を振り絞り、ゆっくりとよろよろしながら立ち上がる。
影が、それを見ていた。
けれど、レイにはなぜか、その視線が少し柔らかくなった気がした。
「小僧」
影が言った。
「立つか……覚えておけ」
レイの体は限界だった。
レイの意識が、徐々に薄れていく。
言葉の続きを聞こうとした。
だが、耳が遠くなる。
目の前が徐々に暗くなる。
壁の細い線も、灰色の外套も、顔の見えない影も、少しずつ輪郭を失っていく。
最後に残ったのは、低い声だった。
「その雷は、撃つものではない」
意味が分からなかった。
けれど、レイはその言葉を忘れたくなかった。
撃つものではない。
なら、何だ。
問いかける声は出なかった。
レイの意識は深い暗闇へ沈んでいく。
「まずはその剣に雷を通してみろ」
最後にそう聞こえた気がした。
ここまで読んで頂きありがとうございました。




