第11話 戻された前室
冷たい。
最初にそう思った。
頬に触れているものが、ひどく冷たい。熱を持たない石の感触が、床からじわりと伝わってくる。
(気を失ってた?)
レイはゆっくりと息を吸った。
「……っ」
体の奥が鈍く軋む。右肩には、もっとはっきりした痛みが残っていた。斬られたわけでも、血が流れているわけでもない。けれど、体の深いところを強く打たれたように、腕を軽く動かそうとするたびに痛みが走った。
指先も痺れている。
魔力を使いすぎた後の倦怠感だけが、全身を包んでいた。
薄暗い。
目の前に、あの扉があった。
影との勝負にすらなっていない戦いをした場所だ。
レイは慌てて周囲を見る。影の姿はどこにも見当たらない。
(夢?)
そんなはずはなかった。記憶が身体の痛みが数刻前に起こったことだと訴えかけてくる。
扉の表面に刻まれた線のいくつかが、消え残りの火のように薄く紫を帯びていた。
レイはしばらく、その光を見つめていた。
レイは体を起こそうとした。肩に力が入った瞬間、痛みが走り、思わず息が詰まる。床に片手をつき、片膝立ちの姿勢で、どうにか上体だけを起こした。
古剣は、すぐ近くに落ちていた。
良かった、折れていない。
レイはそれだけで、少し安心した。
刃は相変わらず欠け、錆びていて、柄の革も剥がれかけている。
レイは古剣を手元へ引き寄せた。
握るだけで、指が震える。
さっきの刹那の戦闘の恐怖が遅れてやってきた。
(死んでないよね?)
そんなことを考えながら戦闘を思い返す。
戦闘にすらならなかった。ただ、吹き飛ばされて意識を失っただけ
レイは一つ気になることがあった。
それは
(どうして魔術を限界まで使用したわけじゃないのに倦怠感が? 魔力が残り少ない?)
分からない。
分からないことばかりだった。
「良い雷だ」
でも、その声が、耳の奥に鮮明に残っていた。
嬉しかった。
そのことを認めるのが、少し怖かった。
あれほど怖い影に、あれほど何もできずに倒されたのに、その言葉だけは忘れない。むしろ、痛みよりもはっきりと残っていた。
あの影はなんなのだろうか?雷を褒めたり、急に攻撃してきたり。
今度、あった時にはもう少しまともに戦えるだろうか?
受けることも、避けることもできなかった。古剣を構える前に倒された。紫雷は影に届く前に消えた。
(敵意や殺意はあまり感じなかったけど…)
どんなに考えてもあの影を理解することは難しいと考えるのをやめた。
「その雷は、撃つものではない」
レイは小さく唇を動かしながら復唱した。
(撃つものじゃないって言われても…どういうことだろう?)
レイは、ずっと雷は撃つものだと教わってきた。指先から弾けさせ、相手を攻撃するための魔術だと。だから魔力が少ないと出力が出ず、使い物にならないと・・・
レイは立ち上がろうとした。
上手く踏ん張れなかった。
「……っ」
その場で片膝をつく。
早く帰らないと。
ミアに、帰ると言った。
昼前には戻ると、父とも約束している。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
ここは、落ちた場所と扉の間にあった前室のようだった。あの空間へ続いていた扉は閉じている。
そして、その横。
壁の一部に、人一人が通れるような通路が見えた。
来た時にはなかった。
隙間の向こうから、湿った土と、古い木材の匂い。浅層に近い匂いがした。
「……戻れる、かもしれない」
小さな希望が見えた気がした。
レイは古剣を鞘に収めようとした。
鞘の金具は歪んでいる。革紐も切れかけていた。うまく入らず、何度か刃が引っかかる。それでもどうにか収めると、胸の前に抱えるように持った。
壁に手をつき、足を動かす。
一歩。
全身の倦怠感のせいでなかなか前に進めない。
もう一歩。
それでも、動ける。
(帰らなくちゃ)
レイは細い通路へ体を入れた。
通路は狭かった。大人なら肩がつかえるかもしれない。崩れた石が床に転がり、ところどころ天井から砂が落ちている。壁に手をつくと、ざらりとした感触が掌に残った。
暗くて前が良く見えない
レイは指先に紫雷を灯そうとした
ぱち、と弱い音がする。
一瞬だけ、暗がりが薄くなる。
すぐ消えた。
「……短い」
自分で言って、悲しくなった。
さっきの影の声を思い出した。
弱い
レイは唇を噛んだ。
短くても、何も見えないよりはいい。
もう一度、指先に力を込める。
紫雷はほんの少しだけ灯り、足元の石を照らして消えた。
それを繰り返しながら、レイは進んだ。
通路はまっすぐではなかった。少し曲がり、少し下がり、また上がる。どこかで古い支柱が倒れかけていて、レイは身をかがめてくぐった。途中で少し立ったまま休憩を取りながら少しずつ進んでいった。
息が切れる。
立ち止まりたい。
座り込みたい。
けれど、ここで座れば動けなくなる気がした。
どれくらい歩いたのか分からなかった。
肩は動かすたびに鈍く疼き、脇腹の痛みは呼吸を浅くさせる。額には汗が滲んでいる。
やがて、前方に薄い光が見えた。
灰色の、弱い光。
廃坑の入口から差す朝の光に似ていた。
レイは足を止めた。
浅層だ。
そう分かった瞬間、膝から力が抜けそうになった。
帰れる。
生きて戻れる。
その安心が胸に広がる前に、急に心が重くなる。
(今、何時だろう?)
父との奥へ行かないという約束を破った。
ミアに、帰ってくると言った。
エマにも、ロウエンにも、また廃坑へ行くと伝えていた。
その全員に、嘘をつくことになる。
レイは出口の手前で立ち止まったまま、古剣を見下ろした。
話せない。
あの扉のことも、黒い床の空間のことも、灰色の外套の影のことも。
話せば、きっと廃坑へは行けなくなる。
それは当然のことだ。
父は怒るかもしれない。
いや、怒るよりも先に、きっと黙る。
あの、何を言えばいいか分からない沈黙が食堂に落ちる。
レイはそれが怖かった。
叱られることよりも、失望されることよりも、またあの沈黙を見ることが怖かった。
それでも、帰らなければならない。
レイは古剣を鞘に押し込み、少し曲がった金具を布で押さえた。
入口に近づくにつれ、空気が少しずつ軽くなっていく。
湿った土の匂い。
古い木材の匂い。
薄い霧を含んだ外の匂い。
廃坑の浅層に戻ってきたのだと、ようやく体が理解した。
外へ出ると、朝の光が眩しかった。
霧はまだ森の低いところに残っている。木々の葉先に水滴がつき、薄い光を受けて鈍く光っていた。いつもの廃坑前の景色だった。
何も変わっていない。
それが、少しだけ不思議だった。
レイの中では、何かが変わってしまった気がするのに。
外の世界は、いつもと同じように、静かだった。
屋敷へ戻る道は、倦怠感のせいか思っていたより遠く感じた。
普段なら三十分ほどの道が、今日は倍以上に感じられた。何度も足を止め、木の幹に手をついた。
森の途中で、指先に紫雷を灯した。
ぱち。
小さく弾けて、すぐに消えた。
レイはそれを見て、苦笑いを浮かべた。
今日は、レイと同じように紫雷まで疲れている。
屋敷が見えた時、全身の緊張がほぐれた気がした。
レイは深く息を吸い、いつもよりゆっくり門をくぐった。
裏口に回ろうとしたところで、声がした。
「レイ様?」
エマだった。
水桶を持っていた手が止まり、彼女の明るい表情が一瞬で変わる。
「また廃坑ですか?」
「……はい」
レイはできるだけ普通に答えたつもりだった。
けれど、声は少しかすれていた。
エマの視線が、服の裾へ落ちる。土がついている。肩をかばっていることにも、すぐ気づいたらしい。
「なんだか疲れ切っていますが」
レイは目をそらした。
「少し動きすぎただけです」
言ってから、自分でも下手な言い訳だと思った。
エマはしばらく黙っていた。
そして彼女は、水桶を置き、ため息をひとつだけついた。
「レイ様の“大丈夫”は、あまり信用しておりません」
「……大丈夫です」
「ほら、また言いました」
エマは困ったように眉を下げた。
その顔を見て、レイは少しだけ胸が痛くなった。
心配されている。
それなのに、本当のことは言えない。
「お部屋へ。薬草茶と布を持ってまいります。旦那様にお伝えするほどではないか、まず確認いたします」
「父上には……」
思わず声が出た。
エマはレイを見る。
レイは言葉を探した。
「まだ、言わないでください。お願いします。本当に、少し動きすぎただけなので」
エマは完全には信じていない顔をしていた。
けれど、深くは追及しなかった。
「では、少し動きすぎた方として、手当てを受けてくださいませ」
「……はい」
レイは小さく頷いた。
部屋へ戻る途中、廊下の冷たさが足裏に伝わった。いつもの屋敷の冷たさだった。弱い暖炉の匂い。古い木の床。窓の外の霧。
そのすべてが、さっきまでいた黒い床の空間とは違っていた。
自室に入ると、ロウエンの用意してくれた古い木箱が目に入った。
レイは古剣をそこへ置こうとして、手が止まった。
まだ離したくなかった。
結局、木箱のそばに座り、古剣を膝の上に置いた。
しばらくして、エマが薬草茶と布を持ってきた。
手当ては静かに行われた。
肩を動かすと痛む。エマはそこを見て、少しだけ目を細めた。
「本当に、少し動きすぎただけですか」
「……はい」
「では、廃坑の浅層はずいぶんと広いんですね?」
レイは返事に詰まった。
エマはそれ以上聞かなかった。
ただ、温かい薬草茶を机の上に置く。
「飲んでください。今日はもう廃坑は禁止です」
「はい」
「明日も、できれば禁止です」
「……はい」
「“できれば”ではありません。禁止です」
少しだけいつもの調子に戻った声に、レイは小さく頷いた。
エマが出ていった後、扉の前で足音が止まった。
軽い足音。
ミアだ。
「兄さま」
扉の向こうから、静かな声がした。
「入ってもいいですか」
「うん」
ミアが入ってきた。
いつもの控えめな室内着。銀灰色の髪が肩に落ちている。顔色は少し白いが、目はまっすぐレイを見ていた。
ミアは部屋に入ると、まず古剣を見た。
それから、レイの肩を見た。
最後に、指先を見た。
レイは無意識に手を握った。
「兄さま」
「うん」
「無茶はしないでください」
レイは返事に詰まった。
ミアは責めなかった。
どうしてそんな怪我をしたのか、とも聞かなかった。
ただ、レイのそばまで来て、椅子の隣に立つ。
「廃坑で、何かあったんですね」
「……少し、動きすぎただけ」
また同じ言葉を言った。
ミアは、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
信じていない。
レイにも分かった。
けれど、問い詰めない。
その優しさが、かえって心を痛みつける。
本当のことを言いたい。
扉のこと。
灰色の外套の影のこと。
自分の紫雷を、良い雷だと言ってくれたこと。
でも、言えない。
言えば、ミアは心配する。
父に伝わるかもしれない。
そうしたら、もう廃坑へは行けない。
レイは膝の上の古剣を見下ろした。
「ミア」
「はい」
「ごめん」
何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
心配をかけたことか。
嘘をついていることか。
帰ってくると言ったのに、危ないことをしたことか。
ミアは少しだけ首を横に振った。
「帰ってきてくれて、よかったです」
その一言で、レイは言葉を失った。
それは、当たり前のことのはずだった。
けれど、あの扉の奥で倒れていた時、自分は本当に帰れないかもしれなかったのだと、今さら理解した。
「……うん」
小さく答える。
「ただいま、ミア」
ミアは少しだけ笑った。
「おかえりなさい、兄さま」
その笑顔を見て、胸の奥が痛んだ。
夕方、ガルドが部屋を訪れた。
ここまで読んで頂きありがとうございました。




