レンの質問
一組の教室に、ルーヴァ先生がやってきた。
小柄な老女だった。白髪を後ろで束ね、白と薄い灰紫の神官衣。節くれだった手で、木の杖を握っている。
(……本当に、あの人だ)
父さんの仕事に付いていった時、治療院で何度か見かけた。治療室で誰かの腕に手をかざしていた背中。
まさか、先生として教室に立つとは思わなかった。
「ルーヴァじゃ。よろしくおねがいしますじゃ」
しわがれた声で、先生は名乗った。
「今日は、質問タイムにしようと思っておるのじゃ」
杖を、軽く床に突く。
「なんでもよいぞ。わしに答えられることなら、なんでもこいじゃ」
何人かが、手を挙げた。
ルーヴァ先生はどんどん質問に答えていく。
(レイは、何を聞いたんだっけ)
昨日の昼、食堂でレイが言っていた事を思い出す。
見えないところから飛んでくる魔術を、どうやって避ければいいか。レイは、そんなことを先生に質問したという。
(——躱しきれず、直撃したらどうするんだろうか?)
朝練で、僕は倒れた。カイも倒れた。レイだけが、最後まで避け続けていた。
(これから先、みんなの魔法は上達していくと思う。特にメルの魔法の精度や威力は格段に上がると思う…それが直撃したら…)
治療院の匂いを、思い出した。薬草と、鉄と、湿った布の匂い。
父さんに連れられて行った日、待合の長椅子に、防衛隊の人が座っていた。上着の袖が、血で濡れていた。
その人は、父さんに笑いながら挨拶をしていた。
魔獣相手にしくじったと。
僕は、あの時、目を逸らした。
(……あの時、ルーヴァ先生以外に何かできた人はいたんだろうか)
気づいたら、手を挙げていた。
「どうぞ」
視線が、集まる。
僕は生唾を飲み込んだ。
「水魔法の治療を極めれば……腕とかが、千切れても治せますか」
教室が、教室が静まり返る。
ルーヴァ先生の目が、一瞬だけ開いた。
「……王都には、おるかもしれぬ。じゃが、それほどの才があれば、とうに——」
そこで、言葉が止まる。
先生は、杖を持ち直した。
「いや。できない理由は、ないのじゃ」
胸の鼓動が早くなる。そうか、無理じゃないんだ。
その答えだけ聞けただけで十分だ。
「逆に、できる理——」
「ありがとうございます。それだけ、聞きたかったので」
言い終えてから、気づいた。
先生の言葉を、途中で切ってしまった。
(……最悪だ)
聞き直そうと口を開く。けれど、声が出てこない。
ルーヴァ先生は、小さく息をついた。
それから、誰にともなく呟く。
「……二組でも、同じようなやり取りをした気がするのじゃ」
後ろの方で、くすくすと笑う声がした。
振り返る。
クラスメイトが二人、口元を押さえていた。先生の呟きが聞こえたのだろう。
カイとメルは、こちらをまっすぐ見ていた。
僕は、前に向き直る。
——できない理由は、ない。
今は、それだけあればよかった。
「まぁ、よい」
ルーヴァ先生が、教室全体に向き直る。
「いずれにせよ、身体の造りを知らねば話にならんのじゃ。骨の数や創傷の治癒過程、動脈・静脈の機能の違い、病態。まずは、そこからじゃ」
そして、こちらを見た。
「困った時は、相談するのじゃ。教科書くらいなら、貸してやれるからの」
(——貸してもらえる)
自分で読めるなら、少しは進める。
「先生」
僕は、また手を挙げていた。
「後で、教科書を見せてください」
ルーヴァ先生が、目を丸くした。
「……早いのじゃ」
杖に体重を預けて、先生は笑う。
「じゃが、動くのが早いのは悪いことではない。授業のあと、わしのところへ来なさい。一緒に選ぶのじゃ」
授業のあと、僕は二冊の本を受け取った。
思っていたより、ずっと重かった。
表紙は擦り切れていて、角が丸くなっている。とても使い古されていた。
(ルーヴァ先生はこれ以上、多くの本を読んでいる)
「読めん字があったら、聞きに来るのじゃ」
「は…い」
本の厚さに圧倒されてしまいすぐに返事ができなかった。
「……焦らんでよい」
先生は、それだけ言って、杖をついて歩いていった。
(この二冊に圧倒されたなんてみんなには言えない。
——ここからだ)
まだ、何も分かっていない。
けど、一歩は踏み出せた気がした。
僕は、二冊の本を大切に落とさないように持ち直して、廊下を歩き出した。
八月ももうすぐ終わりですね。
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