第58話 あの一振り
レイが痛む身体を起こし、両足で黒い床を踏みしめた。
それを確かめたかのように、杖を持つ影が動き始める。
(僕が動けるようになるのを、待ってくれていたのか?)
考える間もなく、杖の先へ風が集まった。
床に散った砂埃が吸い寄せられ、空中で渦を巻く。生まれた風球は二つ。透明な球体の周囲で、砂埃が激しく回っていた。
(今度は二つ……)
レイは腰を落とし、影の杖先を見つめる。
重たい風切り音とともに一つ目が放たれた。
風球が一直線に迫る。レイは右足へ魔力を通し、左へ踏み込んだ。
風球が肩の横を抜ける。すぐに二つ目が続いた。
同じ軌道。
同じ速さ。
(これなら——)
左足に魔力を通し、もう一度横へ跳ぶ。
(二つなら、もう慣れた)
そう思った瞬間だった。
通り過ぎるはずだった二つ目の風球が、レイの右横で急に揺らいだ。
球体の片側だけ、砂埃の渦が強くなる。
(あれ……さっきと、砂の動きが——)
風球が左へ進行方向を変えた。
(曲がった!?)
レイは反射的に上体を後ろへ逸らした。
鼻先を、風球が横切る。
風圧で身体が大きく傾いた。踏ん張ろうとした踵が床を滑り、そのまま背中から倒れる。
「……っ!」
レイは床へ片手をつき、すぐさま起き上がった。
(まさか、途中で軌道を変えるなんて……)
風球だけを見ていては間に合わない。
生成される時の砂埃。球体を包む風の流れ。それが、飛んでくる軌道を見分ける手掛かりになる。
顔を上げたレイの呼吸が止まった。
影の前に、五つの風球が浮かんでいた。
(——五つ)
同時に見ようとした。
(駄目だ、追えない)
風球全体を見るのをやめた。
周りの砂埃。渦の向き。それだけを見る。
杖先が下がった。
一つ目。
直線。
右へ踏み込む。左肩の横を、風が抜けた。
二つ目が、進行方向へ回り込む。
足を止めれば当たる。
進む勢いを殺さないまま、上体だけを後ろへ倒した。胸のすぐ上を、風球が通り過ぎる。服の裾が引きちぎられそうに巻き上がった。
三つ目。
足元。
「——っ!」
右脚へ、魔力を叩き込む。
床を蹴る。跳ぶ。着地。膝が、沈む。
そこへ、四つ目。
体勢を整えられない。
レイは肩から床へ飛び込んだ。転がる。背中の上を風球が通過し、弾けた風圧が横から身体を殴った。
止まれない。
床の上を、二回、三回と転がされる。
「くっ……!」
手をつく。片膝を立てる。
息が、続かない。
喉の奥が乾く。膝が、自分のものじゃないみたいに震えている。汗が目に入って、視界が滲んだ。
その時、
足元で、何かが鳴った。
からん。
古剣を納めていた鞘が、肩から落ちた音だった。
拾う余裕はない。
(——五つ目)
風球が見当たらない。
(どこだ)
顔を上げた。
頭上。
五つ目の風球が、真上で静止していた。
(あれが落ちてきたら、頭に——)
考えるより先に、後方へ跳んだ。
風球が、レイのいた場所へ叩きつけられる。
圧縮された空気が、床で一気に解き放たれた。
吹き上がった風が、跳び退いたレイの身体を、下から掬い上げる。
「うわっ……!」
浮いた。
自分で跳んだ高さを、越える。
黒い床が、遠ざかっていく。
(まずい)
足場がない。
視線の先で、影が杖を上げていた。
その先に、もう次の風球が生まれている。
(また、同じだ)
落ちるしかない身体へ、風球が放たれた。
——避けられない。
その時。
視界の端で、何かが光った。
さっき落とした鞘だ。吹き上がった風に巻き込まれて、レイと一緒に宙を舞っている。
(あれしか、ない)
腕を伸ばした。
指先が、空を切る。
鞘が、離れていく。
「届け……っ!」
身体を捻る。もう一度、伸ばす。
——指が、鞘の端に触れた。
掴む。引き寄せる。両手で、握り締める。
風球が、来る。
逃げ道はない。受ければ、また何もできずに終わる。
(けど——)
アイ先生の、あの一振りを思い出した。
振り抜いた先で、すでに裂かれていた光。
(アイ先生みたいに——!)
レイは両手で鞘を振り下ろした。
刹那。
鞘と風球が、ぶつかった。
——軌道が、わずかに——
逸らせない。
風球が直撃。
鞘ごとレイを呑み込む。腕から肩、胸へ——衝撃が突き抜けた。
「——っ!」
身体が、後ろへ吹き飛ぶ。
上下が分からない。
次の瞬間、背中が黒い壁へ叩きつけられた。
(っ……)
肺から空気が押し出された。視界の端から、暗闇が滲んでくる。
指から鞘が滑り落ち、床の上を、からから、と転がっていった。
身体が、壁をずり落ちる。
意識が途切れる、その一瞬。
「その心意気、見事」
低い声が、聞こえた。
師匠の声だったのか。
それとも、薄れていく意識が聞かせたものなのか。
確かめるより先に、レイの視界は暗闇へ沈んだ。
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