第5話 廃坑へ
翌朝、レイは夜が明けきる前に目を覚ました。
夜のあいだに雨は降らなかったはずなのに、窓の外には低い霧が残っていた。灰色の空が屋敷の屋根を押さえつけるように広がり、庭の草は白く湿っている。
レイ・ヴェイルは、外套の留め具に指をかけた。
指先に、かすかな紫電が弾ける。
ぱち、と小さな音がした。
慌てて手を握る。
廊下には、まだ誰の足音もなく静まり返っていた。
昨夜、レイは父に、廃坑へ行きたいと伝えた。
廃坑の浅層までなら、一人で行ってもよい。
父はそう言った。
ただし、条件があった。
奥へは行かないこと。
昼前には戻ること。
雨の日は行かないこと。
ロウエンに行き先を伝えること。
それ以上の言葉は、なかった。
レイは外套の襟元を直し、玄関へ向かった。
そこに、ロウエンが立っていた。
いつからいたのか分からない。老執事は、いつものように背筋を伸ばし、静かにレイを待っていた。
「廃坑へ行かれるのですね」
「……はい。浅層までです」
レイは少しだけ視線を落とした。
「旦那様とのお約束は」
「奥へは行かないこと。昼前には戻ること。雨の日は行かないこと」
「その三つをお守りくださいませ」
ロウエンはそれ以上、何も言わなかった。
「レイ様、それともう一つ」
「はい」
「これは老人の戯言だと思って聞いてくださればいいのですが」
「廃坑では、足元より先に、音をお聞きくださいませ」
「音、ですか」
「はい。古い木は、折れる前に軋みます。石は、崩れる前に鳴ります。暗い場所では、目より先に耳が道を教えることもございます」
レイは、その言葉をすぐには理解できなかった。
音が、道を教える。
少し不思議な言い方だった。
「……覚えておきます」
「どうか、お気をつけて」
ロウエンが一歩下がる。
レイが扉へ向かおうとした時、廊下の途中で衣擦れの音がした。
「兄さま」
振り返ると、ミアが薄い肩掛けを羽織って立っていた。銀灰色の髪はまだ少し乱れていて、起きたばかりなのが分かる。けれど、その目だけはしっかりとレイを見ていた。
「ミア」
「雨の日は、行かない約束です」
「うん。今日は降っていないから」
レイは窓の外を見た。
霧は濃い。けれど、雨は降っていない。
「……無理も、しない約束です」
その言葉に、レイは少しだけ返事に詰まった。
無理をしない。
簡単な約束のはずなのに、すぐに答えることができなかった。
「気をつけるよ」
ようやくそう答えると、ミアは小さく頷いた。
レイが玄関の扉を開ける。
外へ出ると、湿った草の匂いがした。
地面は夜の湿り気を吸って、靴底に柔らかく沈んだ。庭の先にある門は霧で半分ほど隠れている。
レイは門を抜けた。何だか大きな一歩を踏み出した感じがした。
屋敷が背後で小さくなる。
森へ続く道は、整備されていないが、踏みならされており、歩くのには不自由がなかった。
草の先についた水滴が外套の裾を濡らす。冷たい土が靴裏にまとわりつき、歩くたびに小さな音を立てた。
この道は、父に許された範囲の内だ。屋敷から離れているのに、遠くの場所へ行った気にはならない。
それでも、一人でここまで来られた。
(少しは前に進めているのかな)
廃坑は、森の外れにあった。
黒ずんだ木の支柱が入口を支え、錆びた鉄柵の一部が傾いている。完全に塞がれてはいない。けれど、歓迎しているようにも見えない。古い木材の匂いと、湿った土の匂いが混じり、その奥から錆びた鉄の匂いが冷たく漂ってきた。
入口から差す薄い光は、奥へ進むほど弱くなる。
レイは立ち止まった。
廃坑からは重い空気が流れてきている気がした。
中に入ると水滴がどこかで落ち、遅れて音が返ってくる。
ぽたり。
ぽたり。
靴を一歩進めると、足音が壁に当たって戻ってきた。
ロウエンの言葉が浮かぶ。
古い場所では、足元より先に、音をお聞きくださいませ。
レイは足元だけを見るのをやめた。
耳を澄ませる。
水滴の音。
自分の靴音が、細く伸びて戻る音。
遠くで、小石が転がるような音。
レイは浅層の壁際へ進んだ。そこには錆びた金属片がいくつか落ちていた。古い工具の欠けた部分なのか、壊れた留め具なのか、今のレイには分からない。ただ、赤茶けた錆の下に、まだ金属の芯が残っているように見えた。
レイは膝をつき、指先を近づける。
紫雷を軽く通した。
ぱち、と弾ける。
金属片の表面で、紫の光が一瞬跳ねた。
それだけだった。
「……もう一度」
声は小さく、坑道の中で頼りなく消えた。
今度は少し強くする。
紫雷は指先から伸びたが、金属片に触れた瞬間、細かく散った。まるで水面に落ちた砂のように、形を保てないまま消えていく。
強すぎると、散る。
弱くすると、届く前に消える。
レイは息を整えた。
もう一度。
紫雷を細くする。
今度は、置くように。
金属片の端に紫が触れた。ほんの一瞬、錆の下を細い線が走ったように見えた。
レイは金属片を見つめた。
(雷を通すって難しいな……)
もう一度試そうとした時だった。
水滴ではない音がした。
かり、と硬いものが石を擦る。
レイは息を止めた。
耳を澄ます。
かり。
かり、かり。
岩陰の方から聞こえる。
足元を見るより先に、音を聞く。
ロウエンの声が、頭の奥で静かに重なった。
レイはゆっくりと立ち上がる。
岩陰の暗がりで、何かが動いた。
黒褐色の小さな影。
普通の甲虫よりも大きい。背中には錆びた鉄片のような模様が浮き、硬そうな殻が薄い光を鈍く返している。
鉄殻虫。
廃坑に棲む低級魔獣だと、レイも聞いたことがあった。錆びた金属や鉱石を食べる。強い魔獣ではない。けれど、硬い殻を持ち、近づけば噛みつくこともある。
鉄殻虫が、脚を動かした。
かり、とまた音がする。
レイは後ろへ半歩下がった。
心臓が少し速くなる。
逃げるべきか。
浅層とはいえ、魔獣が出たなら戻った方がいい。そう思った。けれど、踏みとどまった。
指先に紫電が弾ける。
ぱち、ぱち。
レイは右手を前に出した。
小さな紫電を、鉄殻虫へ向ける。
ぱち、と音がした。
紫雷は鉄殻虫の殻に触れた。けれど、表面で弾けただけだった。鉄殻虫は一瞬だけ脚を止めたが、すぐにまた動き出す。
効いていない。
もう一度。
紫雷が飛ぶ。
硬い殻の表面で、また弾けた。
鉄殻虫の背がわずかに光っただけで、その奥へは届かない。
この紫雷じゃ全く効果がない。
(やっぱり、僕の魔力量じゃ……何の役にも立たない)
レイは唇を噛みかけて、やめた。
(僕とこの紫雷が、どこまで通用するのか確かめる)
覚悟を決め、鉄殻虫に集中する。
鉄殻虫が近づく。
かり、かり、と石を擦る音。
レイは後ろへ下がった。その踵が、床に落ちていた金属片に触れる。
レイは足元を見た。
錆びた金属片。
さっき、紫雷が一瞬だけ走ったもの。
鉄殻虫の殻は錆びた鉄片のような模様をしている。
レイは膝を落とし、金属片へ指先を向けた。
鉄殻虫ではない。
床の金属片へ。
紫雷を、細く、通すように。
ぱち。
紫雷が金属片に触れた。
今度は、弾けて消えなかった。
紫の線が、錆びた表面を這う。床の赤茶けた錆へ移り、石の隙間に残った古い金属粉を伝うように細く伸びた。
レイは息を止める。
紫雷が、鉄殻虫の殻へ届いた。
表面で弾けるのではない。
殻の模様に沿って、細く流れる。
鉄殻虫の脚が跳ねた。
硬い殻が石床を打ち、鉄殻虫の体が横へ倒れた。脚が小さく痙攣する。かり、かり、とさっきまでの音が乱れ、やがて止まった。
石床の上で、鉄殻虫は沈黙した。
レイはしばらく動けなかった。
右手を前に出したまま、指先を見る。
紫雷は、まだほんの少し残っていた。
勝った、という感じはしなかった。
偶然に近かった。けれど、鉄殻虫の硬い殻の中に届いた。
レイは指先に残る紫を見た。暗い坑道の中で、その光はとても小さい。けれど、輝いて見えた。
口元が、ほんのわずかに緩む。
まだ、何もできないわけじゃない。
そう思った瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
自分の指先から伸びた紫雷が、硬いものの隙間を探して、届いた。その感触だけが、手の中に残っていた。
レイはゆっくり息を吐いた。
鉄殻虫には近づきすぎず、動かないことだけを確かめる。廃坑の奥はまだ暗い。父との約束もある。ここで調子に乗って進むべきではない。
そう思って、立ち上がろうとした時だった。
坑道の入口近く、横手に崩れた木材の山があることに気づいた。
来る時には、ただの瓦礫だと思っていた。
古い資材倉庫の跡かもしれない。黒ずんだ木材が重なり、錆びた工具が半分土に埋もれている。鉄の輪、折れた柄、腐った板。どれも長く放置されたものだった。
レイは足を止める。
指先の紫雷が、勝手に小さく弾けた。
ぱち。
崩れた木材の奥で、何かがかすかに応えた。
音ではなかった。
けれど、レイの指先の紫雷が、それに引かれるように細く伸びたように見えた。
瓦礫の奥。
錆びた鉄屑のさらに向こう。
そこに、何かがある。
レイは息を止めた。
紫電が、もう一度だけ小さく弾けた。




