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第4話 言えなかった願い

雨は、夜のうちに上がっていた。


 けれど、朝になっても空は晴れなかった。窓硝子には細かな水滴が残り、庭の石畳をぼんやりと滲ませている。門の向こうへ続く道は、白い霧の中で途中から見えなくなっていた。


 レイ・ヴェイルは、食堂へ向かう途中で足を止めた。


 廊下の窓から森へ続く道が見える。


 そのさらに奥に、領地の外れへ向かう細い道がある。


 古い鉱山跡。


 もう使われていない場所だと聞いている。大人たちは、奥へ入ると危ないと言う。崩れた木材や錆びた金具が残っているとも、ずっと前にロウエンから聞いたことがあった。


 その時は、ただ興味なく聞いているだけだった。


 けれど今朝、その話をふと思い出した。


 誰も使わなくなった場所なら何も気にせず魔術の練習ができるかもしれない。そんな事を考えていると食堂の方から、銀食器の触れ合う小さな音が聞こえた。


(…食堂に行かないと)


駆け足で食堂へ向った。


 食堂の扉の前に立ち、レイは一度だけ息を吸った。


「おはようございます」


 扉を開けると、温かいスープの匂いがした。


 古い木製の長い食卓には、黒パンと野菜のスープ、酸漬けの赤実が置かれていた。銀食器はきちんと磨かれているが、柄のあたりには細かな傷が残っている。


 上座には父ガルドが座っていた。


 背筋はいつも通り伸びている。黒灰色の髪も乱れていない。けれど、手元の報告書に落ちた視線は、昨夜よりも少し重く見えた。


 エリオは父に近い席に座っている。食卓の端に置かれた別の紙へ目を通し、時折、短く父に答えていた。


 ミアはレイの向かい側に座っていた。肩には薄い羽織がかけられている。両手で蜂蜜湯のコップを包み、冷ましながら飲んでいた。


「兄さま、おはようございます」


「おはよう、ミア。寒くない?」


「大丈夫です。エマが、今日寒いからって、羽織をかけてくれました」


 ミアは小さく笑った。


 その笑みに、食堂の空気が少しだけ柔らかくなる。


 レイは自分の席に座った。


 父と兄は領地の話をしていた。畑、井戸、石垣、修繕費。レイの知らない言葉ではない。けれど、自分がそこに入れる気がしなかった。


 ガルドの手元の報告書が、ふと目に入る。


 井戸水。


 畑の育ち。


 家畜小屋。


 修繕費。


 魔力巡りの不調。


 文字の全部が読めたわけではない。だが、いくつかの単語だけが、紙の上から浮かぶように見えた。


「レイ」


 ガルドが口を開いた。


 レイは顔を上げる。


 父の厳しい目が、こちらを見ていた。


 父は、責めなかった。


 神殿から戻った後も、ただ、黙っていた。


 その沈黙が、レイには辛かった。


「……体調はどうだ」


 ガルドはそれだけ言った。


「大丈夫です」


 レイは答えた。


 声は、思ったより普通に出た。


 ガルドは頷いた。


 そして、何かを言おうとしたように唇を動かした。


 レイは、次の言葉を待った。


 しかし、言葉は続かなかった。


 父の視線は一度レイの指先へ落ち、それから報告書へ戻った。


 食堂に、スープをすくう音だけが残る。


 失望したと言われたわけでもない。


 けれど、何も言われないことが、逆レイのここをを削った。


 レイは黒パンを小さくちぎった。


 言わなければ、と思った。


 僕も何かできます。


 雷だけでも、何か。


 家の役に立てることを探します。


 けれど、その言葉は喉の奥で止まった。


 父は今まで領地運営を必死に行なってきている。


 そこに、自分の小さな雷を差し出して何ができるのか。


 レイには分からなかった。


「レイ」


 今度はエリオが声をかけた。


「昨日のことは、あまり気にしすぎるな」


「……はい」


「適性は、すべてではない。だが、雷だけで領地の仕事まで背負おうとしなくていい」


 エリオはそこで少し言葉を選ぶように間を置いた。


「今は、無理をするな。体を壊したら、それこそ何もできなくなる」


 それは優しさだった。


 レイにも分かる。


 エリオは自分を馬鹿にしているわけではない。見下しているわけでもない。むしろ、傷つけないように言葉を選んでいる。


 それでも、匙を持つ手が止まった。


 雷だけで領地の仕事まで背負おうとしなくていい。


 今は、無理をするな。


 その言葉は、静かにレイを傷つけていた。


 お前には期待していない。

 とは言われていない。


 だけど、そう聞こえてしまった。


 家のことは父上と自分がやる。


 領地のことも、屋敷のことも全部。


 だから、お前は無理をしなくていい。


 エリオの手元には、土の巡りを記した小さな図面があった。畑の区画と、石垣の補修場所を示すものだろう。兄はそれを見て、父に短く答えることができる。


 レイにはできない。


 兄は、充分に父の補佐を務めている。


 レイは酸漬けの赤実を一つ取った。


 赤い実を噛むと、薬草と塩の酸っぱさが舌に広がった。目の奥が少しだけきゅっとなる。


 この時だけは、酸っぱさで目が滲んだ。


 レイは赤実を飲み込んだ。


「……分かりました」


 それだけ言った。


 エリオは小さく頷いた。


 ガルドは何も言わなかった。


 ミアはカップを両手で包んだまま、レイの方を見ていた。


 食事が終わるまで、会話は少なかった。

 食堂を出る時、扉のそばにロウエンが控えていた。


「レイ様。今日は湿気が多く、汗をかきますな、こちらのタオルをどうぞ」


「ありがとうございます」


 ロウエンはタオルを渡してからいつものように静かに頭を下げる。


 何を言うでもない。


 ただ、そこにいてくれる。


 その沈黙は、父の沈黙とは少し違った。


 レイは小さく頭を下げ、廊下へ出た。


 体の熱が背中から離れていく。


 部屋へ戻るつもりだった。


 でも、足は途中で止まった。


 廊下の先に、小さな書棚のある部屋がある。古い地図や旅行記が置かれている場所だった。


 レイは扉を開けた。


 窓から入る光は弱く、机の上に置かれた地図を照らしている。レイは椅子に座り、地図を広げた。


 羊皮紙の表面はざらついていた。指先で触れると、細かな繊維が少し引っかかる。古いインクは紙の凹凸に沈み込み、森や川の線に小さな影を作っていた。


 地図の上では、道はどこまでも続いている。


 指でなぞれば、屋敷の外へ出られる。


 森を越え、川を渡り、宿場を抜けて、大きな街道へ出ることもできる。


 白い天井。


 ベッドの上から、窓の外を見ることしかできなかった時間。


 雨上がりの空を、一筋の雷が走った。


 白でも、金でもない。


 あの時のレイには、それが紫に見えた。


 どこまでも遠くへ行ける線。


 自分の代わりに、空の向こうへ進んでいく道のように見えた。


 自分には届かなかった場所へ、先に進んでいく光。


 レイは地図の端に指を置いたまま、窓の外を見た。


 今ではもう12歳になった。行こうと思えば自由に冒険だってできる。


 レイは机の端に置かれていた小さな金属片に目を向けた。魔法の基礎練習で使う、何の変哲もない古びた金属だった。


 この紫雷には何ができるのだろう。


 指先に、小さな感覚が集まった。


 ぱち、と乾いた音がした。


 細い紫電が、指先で一瞬だけ弾けて

 すぐに消えた。


 レイは、その消えた場所を見つめた。

(きっと何かできることがあるはず)


 思った瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。


 雷属性しか適性がなく、魔力量も多くない。


 父は黙り、兄は無理をするなと言った。


それでも、自分が好きな紫雷を最後まで信じてみようと思った。


 紫雷が弾けた指先を見ていると、遠い雨の夜の声が胸の奥によみがえった。


 ――好きなものを、嫌いにならなくていいのよ。


 母の声は、長く思い出そうとすると輪郭がぼやける。


 けれど、その言葉だけは残っていた。


 小さな火種のように。


「兄さま?」


 扉の方から声がした。


 レイは顔を上げた。


 ミアが立っていた。食堂で見た時よりも厚い羽織を肩にかけ、小さな本を胸に抱えている。


「ミア。具合は悪くない?」


「大丈夫です。エマが、今日は羽織をもう一枚かけるようにって」


 ミアはそう言って、ゆっくり部屋に入ってきた。


 足音は軽い。


 レイのそばまで来ると、机の上の地図を覗き込んだ。


「地図を見ていたんですか?」


「うん。少しだけ」


「ここが王都ですか?」


 ミアが小さな指で、地図の遠い場所を示した。


「たぶん。この道をずっと行くと、途中に宿場があって、それから大きな川を越えるみたい」


「遠いですね」


「うん。遠い」


 レイはそう答えた。


 遠い、という言葉が口の中に残った。


 ミアは地図を見たまま、ぽつりと言った。


「でも、兄さまは好きですよね。こういうの」


「……そう見える?」


「はい」


 ミアは迷わず頷いた。


「地図を見ている時の兄さま、楽しそうです」


 レイは返事に困った。


 そんなつもりはなかった。


 ただ、地図を見ていると少しワクワクしてしまう。

 知らない地名を見ると、そこにある風や土や水の匂いを想像してしまうからだ。


 ミアの視線が、レイの指先へ移る。


「今、雷を出していましたか?」


 レイは思わず手を引いた。


「少しだけ。勝手に出ただけだよ」


「兄さまの雷、綺麗ですよね」


 ミアは静かに言った。


 その声に、レイは動きを止めた。



 指先の紫雷を、変なものを見るようにも、危ないものを見るようにもしていない。ただ、兄の大切なものを見るように、じっと見ていた。


「兄さまって、雷を見てる時、少し口元が緩んでいますよ」


 レイは、びっくりして反応が遅れてしまった。


「……そう見える?」


 ようやく出た声は、小さかった。


「はい。うまく言えないですけど」


 ミアは少し考えるように、地図とレイの指先を交互に見た。


「兄さま、雷を見る時、ちょっとだけ目が違います」


「目が?」


「はい。地図を見ている時と、似ています」


 レイは地図の上の道を見た。


 それから、自分の指先を見た。


「兄さまは、外へ行きたいんですか?」


 ミアの声は、責めるものではなかった。


 けれど、その問いは胸の奥に深く響いた。


 食卓で飲み込んだ言葉が、少しだけ戻ってくる。


 外へ行きたい。


 そう言えたらよかった。


 父に。


 兄に。


 でも、言えなかった。


 領地の報告書を見つめる父の手を思い出す。石垣や畑の話を自然に理解する兄の横顔を思い出す。


 自分だけが外へ行きたいなどと、どうして言えるのだろう。


 レイはしばらく黙った。


 窓の外で、霧がゆっくり流れている。


「……分からない」


 答えは、半分だけ本当だった。


「でも、見てみたいとは思う」


 それ以上は言えなかった。


 ミアは頷いた。


「私は、兄さまが外の話をしてくれるの、好きです」


「ほとんど想像の作り話しなのに?」


「はい」


 ミアは地図を見たまま言った。


「兄さまが話すと、本当に行ったことがあるみたいに聞こえます」


(そういえば時々、ミアに想像で外の世界のことを話していたっけ)



 レイは机の端の金属片へ手を伸ばした。



 触れる前に、紫電が小さく弾けた。


 ぱち、と音がした。


 細い紫が、指先から金属片の方へ伸びた、ように見えた。


 けれど次の瞬間には消えていて、本当にそうだったのか、レイにも分からなかった。


 何かに届こうとするように。


「兄さま?」


 ミアが小さく呼んだ。


 レイは金属片を見つめたまま、考えた。


 僕の雷は、本当に何もできないのだろうか。


 その問いが、胸に中で反響して広がっていく。


 強い雷ではない。


 大きな魔力でもない。


 でも、今の紫雷は、何かを探そうとしていた気がする。


(気のせいかもしれないけど)


 屋敷の中では、雷を出すだけでとても目立つ。


父は何も言わないが、あまり良い顔をしない。


 霧の向こうの、古い鉱山跡なら。


 何も気にせず、紫電だけを見ていられるかもしれない。


 (自分の雷が本当に何もできないのかを、確かめられるかもしれない。)


 レイはそっと手を握った。


「ミア」


「はい」


「僕の雷が、本当に何もできないのか、少しだけ調べてみたい」


 声は小さかった。


 けれど、食卓で飲み込んだ言葉よりは、ずっと確かだった。


 ミアは驚いたように目を開いた。


 それから、すぐには笑わなかった。


 止めもしなかった。


「危ないことは、しないでくださいね」


「……できるだけ」


「兄さまの“できるだけ”は、あまり信用できません」


 その言い方が少しエマに似ていて、レイは困ったように笑った。


 ほんの少しだけ。


 紫雷を見た時と似た笑みだった。


 森へ続く道。


 その奥に、古い廃坑へ向かう細い道がある。


 大人たちは危ないと言う。


 確かに、危ないのだろう。


 けれど、一人で行けない場所ではない。

 

 小さな紫雷が、ぱち、と弾ける。


 消えた後も、そこに細い余韻が残っている気がした。


 その夜、レイは机の上の地図をたたまなかった。

ここまで読んで頂きありがとうございました!

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