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第3話 雷属性のみ

霧の濃い朝だった。


 窓硝子の向こうで、庭の石畳が白く滲んでいる。雨は降っていない。けれど、夜の湿り気だけが屋敷の壁に残り、古い石造りの廊下まで湿らせていた。


  レイ・ヴェイルは、自室の鏡の前に立っていた。


 十二歳になった子供が受ける、正式な属性適性検査。そのために用意された服は、普段着より少し硬かった。濃い灰色の上着に腕を通すと、布が肩のあたりでわずかに突っ張る。以前なら袖の先が指にかかっていたはずなのに、今は手首の少し先で止まっていた。


 背が伸びたのだと、実感した。


  レイは襟元に指をかけた。折り目が少しだけ曲がっている。直そうとして、指先が布の端をうまくつかめなかった。


 こういう時、母なら何も言わずに直してくれた。


 指先が、襟元に触れたまま止まった。


 部屋の棚の上には、小さな花瓶が置かれていた。白い花が二本。そばには、淡い青色の石が嵌められた古い髪留めがある。母セリアが使っていたものだ。


 もう、誰の髪にも留められないまま、そこにある。


 レイは少しだけ視線を落とし、それからもう一度、襟元を直した。


  ぎこちない手つきで、レイはなんとか襟元を整えた。


 母が直してくれた時ほど綺麗ではない。

 それでも、これでいいことにした。


 ふと、右手の指先が、かすかに疼いた。


 小さな紫電が弾けそうになる。魔法を使おうとしたわけではない。ただ、今日が正式な属性適性検査の日だと思うだけで、指先の奥に細い熱が集まる。


 レイは右手を握った。


 期待しているわけではない。


 そう思おうとした。


 火でも、水でも、風でも、土でも、何かひとつでも家の役に立つ属性が見つかるかもしれない。父や兄のように、領地を支えられる力があるかもしれない。


 母がいなくなってから、父は以前よりも長く書斎にこもるようになった。

 夜遅くまで灯りが消えない日もあった。


 少しでも手伝えたら。


 そんなことを考えてしまった。


 けれど、今まで指先に現れたのは、あの小さな紫電だけだった。


 火の熱も、水の揺らぎも、風の気配も、土の重さも。

 レイの手には、結局、一度も現れなかった。


 胸の奥に、静かな不安が広がる。


 レイはそれを押し込めるように、右手を握った。


 廊下に出ると、石床の湿り気が靴底越しに伝わってきた。


 食堂では、弱い暖炉の火が揺れていた。火はついているのに、部屋全体を温めるほど強くない。磨かれた銀食器には細かな傷が残っていた。


 父ガルドは、すでに席についていた。


 黒灰色の髪に、以前より少しだけ白いものが混じっている。背筋はまっすぐで、食卓に置かれた手は大きい。父は食卓でも、必要なこと以外はあまり口にしなかった。


 兄エリオもいた。


 父に似た黒髪と、落ち着いた目をしている。レイより体格がよく、座っているだけで、どこか安心感を与える印象を受ける。


 そして、食卓から少し離れた壁際に、ひとつの椅子が置かれていた。


 母が使っていた椅子だった。


 背もたれには、薄い肩掛けが丁寧に畳まれている。暖炉のそばにあるのに、誰も使わず片付けない。

そこに、まだ母がいるかのように。


 レイは、その椅子を長く見ないようにして、自分の席についた。


 黒パンと薄いスープ。少しの干し肉。皿の端には、酸漬けの赤実が二つ置かれていた。


 誰も、検査のことを話題にしなかった。


 そのことがかえって、今日が検査の日なのだと強く意識させた。


 レイは黒パンを小さくちぎった。指先に力が入りすぎて、欠片が皿の上に落ちる。拾おうとした瞬間、右手の人差し指に紫が滲みかけた。


 レイは、それを隠すように手を握った。


「レイ」


 父の声がした。


 低く、短い声だった。


「はい」


「体調は大丈夫か」


「大丈夫です」


 答えは、すぐに出た。


 大丈夫。


 そう言えば、それ以上心配されずに済む気がした。


 父はレイの顔をしばらく見ていた。何かを確かめるような目だった。けれど、その奥にあるものまでは分からない。


「……そうか」


 父はそれだけ言って、視線を食卓へ戻した。


 エリオが一度、レイを見た。


 何か言おうとしたように唇が少し動いたが、声にはならなかった。レイもそれに気づいたのに、気づかなかったふりをした。


 酸漬けの赤実をひとつ口に入れる。


 酸味が舌に広がった。少しだけ目が覚めるような味だった。けれど、緊張がほぐれることはなかった。


 食事が終わる頃、老執事のロウエンが静かに食堂へ入ってきた。


「旦那様。検査官の方がお見えになりました」


 ガルドは短く頷いた。


 レイは膝の上で手を握った。


 検査は、屋敷の奥にある古い部屋で行われることになっていた。


 近隣の神殿から来た検査官は、薄い灰色の衣をまとった年配の男だった。丸い眼鏡をかけ、動きは丁寧だが、どこか事務的な印象を受けた。そばには記録係の若い男が座り、羽ペンを手にしている。


 古い部屋は、普段あまり使われていない場所だった。


 高い窓から白い光が差し込んでいる。霧のせいで光は薄く、石床の上にぼんやり広がっていた。古い木の机が中央に置かれ、その上には布をかけられた水晶がある。


 埃と古い木、それからインクの匂いが、部屋の空気に薄く混じっていた。


 壁には、ヴェイル家の古い紋章が掛けられていた。


 霧の中を走る一本の細い雷線。


 昔からそこにあった。意味を考えたことはない。ただ、今日はなぜか、その細い線が妙に気になった


「レイ・ヴェイル様ですね」


 検査官が確認する。


「はい」


「本日は正式な属性適性検査を行います。水晶に手を置き、こちらの指示に合わせて魔力を流していただきます。合図があるまでは、力を抜いてお待ちください」


 レイは頷いた。


 検査官は水晶にかけられた布を外した。


 水晶は、子どもの頭ほどの大きさだった。透明なはずなのに、奥の方には白い霧を閉じ込めたような濁りがある。窓からの光を受けて、静かに鈍く光っていた。


「まず、動作を確認いたします」


 検査官が言った。


「ガルド様。恐れ入りますが、見本として一度、水晶に触れていただけますか」


「分かった」


 ガルドが前に出た。


 レイは少し後ろへ下がった。


 父の手は大きかった。指は太い。その手が、水晶の表面に静かに置かれる。


 検査官が短く言葉を唱えた。


 水晶の奥に、鈍い土色の光が沈んだ。


 重みのある光がゆっくり広がり、水晶の底に静かに留まる。


 崩れかけたものを押さえ、壊れそうなものを補い、足元を固め、領地の道を整え、石壁を守り、領民を支えるのに不可欠な力。


 ヴェイル家に必要な力。


 レイは父を見つめた。


 すごい、と思った。


「問題ありません」


 検査官が頷く。


 ガルドは水晶から手を離し、部屋の隅へ戻った。


 水晶の中の土色の光は、ゆっくりと薄れていった。


「では、レイ様。こちらへ」


 レイは水晶の前に立った。


 先ほど父が触れた場所に、自分の右手を伸ばす。


 水晶に触れた瞬間、ひんやりとした感触が指先から手のひらへ広がった。


 検査官が小さく詠唱を始める。


 水晶の中の白い濁りが、ゆっくり揺れた。


 レイの全身に、少し力が入る。


 さっきの父の反応が、まだ目に残っていた。


 鈍い土色の光。

 水晶の底に静かに留まった、重みのある光。


「火属性」


 検査官の声がした。


 水晶は変わらなかった。


「水属性」


 白い濁りが、わずかに揺れる。

 けれど、それだけだった。


「風属性」


 高い窓の向こうで、霧が薄く流れた。

 水晶の奥には、何も現れない。


「土属性」


 レイの指先に、少し力が入った。


 父の土色の光を思い出す。


 崩れそうなものを支える力。

 領地に必要な力。


 レイは水晶の奥を見つめた。


 何も起きなかった。


 白い濁りは、ただ静かにそこにあるだけだった。


 火でもない。

 水でもない。

 風でもない。

 土でもない。


 胸の鼓動が速くなる。


 何の適性もないのかもしれない。


 レイは父の顔を見たかった。


 けれど、見ることができなかった。


「雷属性」


 検査官が最後の属性を告げた。


 その瞬間だった。


 水晶の奥に、細い紫の線が走った。


 ぱち、と小さな音がする。


 雷鳴ではなかった。

 部屋を震わせる力でもない。

 針の先で硝子を軽く叩いたような、短く乾いた音だった。


 けれど、レイにははっきり見えた。


 白く濁った水晶の奥を、紫の光が一筋だけ伸びる。迷うように、探るように、すぐ消えそうになりながら、それでも確かに走った。


 細くて、小さい。


 けれど、綺麗だった。


 安堵感が全身を満たした。


 怖いより先に、安心してしまった。


 あった。


 まだ、自分の中にあった。


 水晶の奥の紫はすぐに薄れた。けれど、消えた後も目の奥に残っている。暗い場所で見た細い糸のように、頼りなくて、静かで、なぜか目を離せなかった。


「……雷属性、反応あり」


 検査官の声がした。


 記録係の羽ペンが止まった。


 ほんの一瞬だった。


 それでも、レイには分かった。


 部屋の空気が、少しだけ変わったことが。


 検査官は水晶を覗き込み、もう一度、別の確認を行った。水晶の奥で、紫電がかすかに散る。けれど、光は大きく広がらず、細いまま消えていく。


「魔力量を確認します」


 レイは頷いた。


 水晶の冷たさが、手のひらに張りついている。


 検査官は記録紙へ目を落とした。それから、少しだけ言葉を選ぶように口を開いた。


「結果をお伝えします」


 レイは水晶から手を離した。


「属性は、雷属性のみ、ですね」


 のみ。


 その言葉が、重くのしかかる。


「魔力量は……多くはありません」


 検査官の声は穏やかだった。


「制御の反応は悪くありません。ただ、実戦向きと判断するには、現時点では難しいかと」


 記録係の羽ペンがまた動き出す。


 さらさらと、紙の上を走る音がする。


 雷属性のみ。


 魔力量は多くない。


 現時点では難しい。


 誰も笑わなかった。


 けれど、部屋の中から何かが静かに引いていくのが分かった。


 もしかしたら、という小さな期待。


 父の土色の光を見た時、レイの中にほんの少しだけ生まれてしまったもの。


 それが、霧に溶けるように薄くなっていく。


 レイは父の方を見た。


 ガルドは水晶を見ていた。


 それから、レイを見た。


 目が合いそうになる。


 父の右手が、わずかに握られた。


 口が開きかける。


 何かを言おうとしているのだと、レイには分かった。


 けれど、父は何も言わなかった。


 ただ、短く息を吐いた。


「……そうか」


 それだけだった。


 なのに、その声はどこか遠く聞こえた。


 レイは視線を落とし、手を隠すように握った


 握った手の中で、ぱち、と小さく紫電が弾ける。


 誰にも見えないくらい小さな光。


「本日の検査は以上です」


 検査官が記録紙を整えた。


「後ほど正式な記録をお渡しします。雷属性は扱いが難しいため、基礎訓練は無理のない範囲で行ってください。魔力量の消耗にも注意を」


「分かった」


 父が答えた。


 声はいつも通りだった。


 けれど、頼りなく聞こえた


 レイは検査官に礼をした。


「ありがとうございました」


 自分の声は、思ったよりも落ち着いていた。


 検査室を出ると、廊下の空気が肌にまとわりついた


 扉の向こうでは、検査官と父がまだ何かを話している。小さな声で、内容までは聞こえない。記録紙をめくる音。羽ペンを置く音。父の低い返事。


 レイは廊下の途中で立ち止まった。


 父のように、領地を支える力ではなかった。


 兄のように、家を継ぐための力でもないかもしれない。


 火のように何かを暖めることができない。


 水のように畑や井戸を助けることもできない。


 風のように知らせを運ぶこともできない。


 できるのは、指先に小さな紫を弾かせることだけ。


 そう思った時、白い天井が少しだけ頭をよぎった。


 遠い場所の記憶だった。


 あの時は、行きたい場所へ行けなかった。


でも今は違う。どこにでも行ける。


 それなのに、検査官の声を聞いた瞬間、また何もできない自分に戻されたような気がした。


「レイ」


 声がして、レイは振り返った。


 エリオが廊下の向こうに立っていた。


 兄はレイの顔を見て、それからレイの顔を見た。何かを察したように、少し眉を寄せる。


「検査、終わったのか」


「はい」


「そうか」


 エリオはそこで言葉を切った。


 何かを言おうとしているのが分かった。


 大丈夫か。


 気にするな。


 無理はするな。


 どの言葉が来ても、きっと痛い。


 エリオは結局、何も言わなかった。


「父上が呼んだら、戻れよ」


「はい」


 短い会話だった。


 悪意はなかった。


 心配してくれているのだと、分かる。


 レイはエリオに軽く頭を下げ、廊下の奥へ向かった。


 途中、食堂の前を通った。


 扉は少しだけ開いていた。


 中には誰もいない。


 暖炉の火はまだ小さく揺れている。食卓の椅子は戻されていたが、壁際の椅子だけは、いつもの場所にあった。


 母の席。


 もう、そこから声はしない。


 レイは立ち止まりかけたが、すぐに視線を外した。


 今、そこを見続けると、何かが崩れそうだった。


 窓辺にたどり着く。


 そこは、昔からよく立っていた場所だった。


 窓硝子には細かな水滴が残っている。外の景色は霧に滲み、庭の先にある門は半分だけ白く隠れていた。その向こうには、森へ続く細い道がある。


 地図で何度も見た道。


 けれど、まだ一人で歩いたことのない道。


 レイは窓枠に手を置いた。


 木の枠は少し湿っていて、冷たかった。


 父は何も言わなかった。


 何か言われた方が、まだ良かったのかもしれない。


 けれど、父は黙った。


 何か言おうとして、言葉を失ったような顔をして、ただ「そうか」と言った。


 レイは、その沈黙を思い出すたびに、胸の奥が静かに痛んだ。


 本当は、言ってほしかった。


 大丈夫だ、と。


 お前なら何かできる、と。


 その雷でも、きっと意味があると。


 けれど、そんなことを望んでいた自分が、少し恥ずかしかった。


 期待していたわけではない。


 そう思いたかったのに、期待していたのだと分かってしまった。


 レイは右手を開いた。


 手のひらには何もない。


 ぱち、と小さな音がする。


 水晶の中で見たものと同じ色だった。


 細くて、弱くて、すぐに消えそうな光。


 父の土のように、領地を支える力には見えない雷。


 雨上がりの空を走った、遠い紫の雷を思い出す。


 白い天井の下で、窓の外を見ることしかできなかった自分。


 その時見た、一筋の光。


 どこまでも遠くへ行けるように見えた光。


 レイは紫雷の光を見て深く息を吐いた。


 父の沈黙も、検査官の言葉も、記録係の止まったペンの音も、まだ消えない。


 母に聞くことも、もうできない。


 それでも、紫雷を嫌いになることはできなかった。


 嫌いになれたら、楽だったのかもしれない。


 何も期待しなければよかったのかもしれない。


 けれど、指先の紫は、冷えた窓辺で小さく弾けた。


 レイは、ほんの少しだけ唇を結んだ。


 遠くから、母の声が聞こえた気がした。


 好きなものを、嫌いにならなくていいのよ。


 その言葉を思い出し、泣きそうになるのをこらえる。


 明日から何かが変わるわけでもない。


 父に何を言えばいいのかも、兄にどう顔を向ければいいのかも、まだ分からない。


(でも、立ち止まりたくない)


そう思った。

ここまで読んで頂きありがとうございました。

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