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第2話 窓の外の世界

雨は、夜明け前に止んでいた。

けれど、ヴェイル領の朝は晴れなかった。


窓の硝子には細かな水滴が残り、外の景色をぼんやりと滲ませている。庭の石畳は黒く濡れ、低い霞が森の方からゆっくり流れてきていた。


レイ・ヴェイルは、朝の寒さでいつもより早く目を覚ました。


遠くで、小鳥の声がした。

朝を告げる音のはずなのに、霧に包まれたヴェイル領では、どこか頼りなく聞こえた。


井戸水は冷たかった。

顔を洗うと、眠気だけが少しずつ引いていく。


けれど、昨日の夜に指先で弾けた紫電の感触だけは、まだ消えていなかった。


今日もまた、ヴェイル領の一日が始まった。


昨日の出来事があったせいか、身体は少しだるかった。


古い屋敷の廊下は、朝になるといつも少し冷える。床板から足裏へ冷たさが上がってきて、足先がじんとした。


それでも、レイはその場を離れなかった。


窓の向こうに、屋敷の門が見える。

そのさらに向こうには、森へ続く細い道があった。


レイは、無意識に自分の指先を見た。

昨日の夜、そこに弾けた紫の光。

ほんの一瞬だったはずなのに、その名残がまだ指先の奥に残っている気がした。


庭や屋敷の周りなら、何度も歩いたことがある。ロウエンやエマに付き添われて、領内の近い場所まで出たこともあった。


大きくなれば、あの道を一人で歩けるのだろうか。

ロウエンやエマに手を引かれず、自分の足だけで、門の向こうへ行けるのだろうか。


 前の自分は、窓の外を見ることしかできなかった。


行きたい場所へ、自分の足で歩いて行くことができなかった。


レイは、床を踏む自分の足を見た。


今は、歩ける。

窓まで行って外を見ることができる。

庭へ出て走ることもできる。


それだけで、十分なはずだった。


けれど、門の向こうに続く道を見ると、なんだかソワソワしてしまう。


あの先には、何があるのだろう。


「レイ様」


 背後から声がした。


 振り返ると、ロウエン・アッシュ(ロウ爺)が廊下の奥に立っていた。白い髪をきちんと撫でつけた老執事は、銀の盆を手にしている。


「レイ様の好きな赤実をお持ちしました」


 盆の上には、湯気の立つ薬草茶と、小さく切った黒パンが載っていた。横には、酸漬けの赤実が二つ添えられている。


「はて、今日も外を眺めていらっしゃるのですか」


 からかうようではなく、いつもの穏やかな声だった。


 レイは少しだけ視線を落とす。


「……少しだけです」


「少しだけ、でございますか」


 ロウエンはそれ以上聞かず、小卓に盆を置いた。


 薬草茶の湯気が、湿った朝の匂いに混じる。苦みのある草の香りは、いつも不思議と落ち着いた。


 レイは椅子に座り、まず薬草茶を一口飲んだ。


 ロウエンの淹れる茶は、熱すぎず、苦すぎない。


 次に黒パンを齧る。


 少し硬い。


 けれど、噛むほどに麦の味が出てくる。


 パンを薬草茶で流し込んでから、酸漬けの赤実を一つ口に入れた。


 甘酸っぱい味が、舌の上で弾ける。


 ヴェイル領では昔からよく作られている保存食だ。疲れた時に効くと、大人たちは言っている。


 本当にそうなのかは、レイには分からない。


 けれど、この味は好きだった。


 湿った朝でも、これを食べると少しだけ目が覚める。


 そんなことを考えながら赤実を噛んでいると、ロウエンが隣に立ち、小さく頭を下げた。


「書庫の鍵を開けてございます」


 レイは顔を上げた。


「書庫、ですか」


「古い地図をお探しだったように見えましたので」


 ロウエンは深く聞かなかった。


「古い地図でよろしければ、まだ何枚かございます。旅人の記録も、奥の棚に少し」


「旅人の記録……?」


「ええ。昔、この領に立ち寄った旅人たちが残していったものです。路銀の代わりに、見聞きした土地の話を書き置いていく者もおりましたので」


ロウエンは、そこで言葉を切った。

それ以上は、レイが尋ねるまで話さないつもりのようだった。


「古いものばかりではございますが、レイ様のお好きそうなものも、いくつか」


 その言葉に、レイの指先がカップの縁で止まった。

「……見ても、いいですか」


「もちろんでございます」


 ロウエンは小さく頷いた。


「地図を眺めていると、まだ見ぬ場所の景色まで、少しだけ身近に感じられるものでございます」


 レイは、すぐには返事ができなかった。


知らない街。

知らない人。

まだ見たことのない空。


領地の外には、どんな景色があるのだろう。


その言葉を聞いただけで、門の向こうにある世界を、もっと知りたくなった。


「ですが、書庫も冷えます。薬草茶を飲んでからになさってください」


「……うん。わかった」


 レイは頷いた。


 今度は、ちゃんと返事ができた。


 書庫は、屋敷の北側にあった。


 ヴェイル家の書庫は古い。

手入れはされているが、壁の石には細かなひびがあり、部屋の隅には補修の跡が残っていた。豪華な装飾は少ない。代わりに、長く使われてきた机と椅子、大人の背丈ほどある本棚が二列、静かに並んでいる。


書庫の扉を開けると、古い紙と、わずかに湿った木の匂いが流れてきた。


書庫の奥には、小さな炉があった。

ロウエンが先に火を入れてくれていたらしく、細い炎が赤く揺れている。


 まだ小さな火だった。細い薪の先で赤い炎が揺れ、灰の中から、ぱち、と乾いた音がする。


 部屋全体を温めるには足りない。


けれど、火があるだけで、寒さは少しだけやわらいでいた。


 本棚には、革表紙の本が並んでいる。


魔法書。

領地の帳簿。

古い家系記録。


それから、奥の棚に、大切にしまわれたままの旅行記と地図があった。


『中央街道巡覧記』

『水の都リューベル紀行』

『北方山脈越境記』


知らない名前ばかりだった。


それなのに、文字を目で追うだけで、外の世界に少しだけ触れられた気がした。


 レイは一冊を取り出しかけて、その隣に丸められた地図が置かれていることに気づいた。


ロウエンが言っていた古い地図だろうか。


紐は古く、端が少し擦り切れている。

レイはそれを机の上へ運び、そっと広げた。


 地図を広げると、古い羊皮紙のざらつきが指先に触れた。


それは、数ヵ月前、屋敷を訪ねてきた行商人から、ロウエンが譲り受けた地図だった。


古びた木箱に入れられていた。木箱の角は擦れ、蓋には革紐の跡が残っている。屋敷の本とは違って、外の土と、乾いた革と、雨に濡れた道の匂いがした。


「古い地図はもう要らぬと言うので、譲っていただきました。見るだけなら、坊ちゃまにもよろしいでしょう」


そう言って、ロウエンは少しだけ笑っていた。


レイは、その時のことをよく覚えている。

うれしくて、思わず木箱の中を覗き込んでしまった。


「道は、見ているだけでも面白いですよ」


そう言って、ロウエンは指先で街道の線を軽く叩いた。


その時のレイには、何が面白いのか分からなかった。


けれど、その日から何度も、こうして地図を開くようになった。


 ヴェイル領は、地図の端に小さく書かれていた。


その名前の横から、一本の細い街道が伸びている。


レイは、その道を指でなぞった。


森を抜ける。


その先に川がある。


川のそばには、小さな宿場町が記されていた。


宿場町からは、さらに太い街道が、王都の方へ伸びている。


地図の上では、指一本でそこまで行けた。


けれど、実際には違う。


森を越えるには、荷物がいる。


川を渡るには、橋まで歩かなければならない。


宿場町に着くまでの道も、レイは知らない。


地図の上では線でつながっているのに、王都はまるで違う世界のように思えた。


それでも、名前を追うだけで、胸の奥が少しずつ熱を持っていく。


大きな川のところで、レイの指が止まった。


川には、橋の印があった。


向こう側へ渡るためのもの。


言葉では知っている。

けれど、レイはまだ、本物の大きな橋を見たことがなかった。


どれほど広いのだろう。

どんな音がするのだろう。

川の上を歩く時、足元は揺れるのだろうか。


 父は、領地を守っている。


兄エリオは、家を継ぐために勉強し、領地のことを覚えようとしている。


それなのに、自分だけが外の世界を見ていていいのだろうか。


そう思うと、地図の上を進んでいた指が止まった。

 


行きたい。


そう言ってしまうには、まだ早い気がした。


言ってしまえば、本当に願ってしまう。


願ってしまえば、届かなかった時に苦しくなる。


その時だった。


指先で小さな音がした。


ぱち、と。


レイの人差し指に、細い紫電が弾けていた。


「……あ」


紫電は弱かった。


地図を焦がすほどでもない。


紙を揺らすほどでもない。


ただ、紫色の小さな光が、指先で震えているだけだった。


その光が、地図の上へ落ちる。


本当に触れたのか。


ただ映っただけなのか。


分からない。


けれど一瞬、ヴェイル領から伸びる街道の上を、紫の光がすっと走ったように見えた。


森へ。


川へ。


宿場へ。


その先へ。


紫電はすぐに消えた。


地図は何も変わっていない。


古い羊皮紙の上には、さっきと同じ街道の線が残っているだけだった。


それでも、レイはしばらく目を離せなかった。


今のは、何だったのだろう。


紫電が、一瞬だけ道を示してくれたように見えた。


行けるのだろうか。


この足で。


答えは、誰も教えてくれない。


屋敷の外のことを、レイはまだほとんど知らない。


一人で森を抜けたこともない。


旅に必要なものも、道の先にある危険も分からない。


それに、ヴェイル家の子として、ここにいるべきだという気持ちもあった。


だから、行きたいとは言えない。


まだ、自分の願いだと認めるのも少し怖かった。


「兄さま」


 扉の方から、小さな声がした。


 レイは顔を上げる。


 ミアが、扉の隙間からこちらを覗いていた。


 銀灰色の柔らかな髪が、肩のあたりで少し揺れている。厚めの肩掛けを羽織り、両手で小さな本を抱えていた。


「ミア。どうしたの?」


「エマが、兄さまは書庫にいるって言ってたので」


ミアは少しだけ視線を落とした。


「それで……見に来ました」


「体調は大丈夫?」


「大丈夫です」


そう言いながら、ミアは机の上の地図を見た。


「兄さま、また地図を見てるの?」


「うん。少しだけ」


「その町、遠いの?」


ミアは、地図の上に描かれた宿場町を指さした。


 レイは少し考えてから答える。


「遠いと思う。森を抜けて、川を渡って、それから……たぶん、一日では着かない」


「そんなに」


 ミアは地図を覗き込む。


 その横顔は真剣だった。


「じゃあ、王都はもっと遠い?」


「うん」


「どのくらい?」


「……分からない」


 レイは正直に言った。


「でも、馬車で何日もかかると思う」


「何日も」


 ミアは小さく繰り返した。


 それから、何気ない声で言った。


「兄さまは、外に行ってみたいの?」


 レイは、すぐに答えられなかった。


 炉の火が迷うように揺れた。


 行きたい。


その言葉は、胸の中にあった。


けれど、それを口に出すには、まだ怖かった。


レイは地図の端を、指でそっと押さえた。


「……見ているだけだよ」


声は、思ったより小さかった。


「知らない場所が、少し気になるだけ」


ミアはレイを見た。


問い詰めるような目ではなかった。


ただ、兄が何かを言えずにいることだけは、分かっているようだった。


「兄さま、地図を見ている時、少し嬉しそうです」


レイは返事に詰まった。


「そうかな」


「うん」


ミアは頷いた。


「雷を見ている時と、少し似ています」


レイは、自分の指先を見た。


さっきの紫電は、もう消えている。


「さっき、光ってた?」


ミアが地図の上を見ながら言った。


「少しだけ。紫の光が見えました」


ミアは怖がっていなかった。


ただ、不思議そうに見ている。


「兄さまは、その雷が好きなの?」


レイはすぐには答えられなかった。


好き。


その言葉は、確かに胸の奥にあった。


けれど、誰かに伝えるには少し恥ずかしかった。


「……嫌いじゃない」


そこまで言って、レイは言葉を止めた。


その先は、まだ口に出せなかった。


ミアは少しだけ笑った。


「知ってます」


「え?」


「兄さま、地図を見ている時と、雷を見ている時、少し似た顔をします」


レイは返事に困った。


指先には、もう紫電はない。


それなのに、そこだけ少し温かい気がした。


「怖くはなかった?」


レイが聞くと、ミアは首を横に振った。


「怖くはなかったです」


そして、少し考えてから言った。


「細くて、すぐ消えちゃうけど……兄さまの光みたいでした」


兄さまの光。


その言葉を、レイは胸の中で何度か繰り返した。


不思議と、指先の奥が少し温かくなった気がした。


母の声が、遠くで重なる。


好きなものを、嫌いにならなくていい。


レイは、そっと手を開いた。


紫電はもうない。


けれど、消えたあとにも、指先にはかすかな温度が残っている気がした。


「……ありがとう」


ようやく、それだけ言った。


ミアは小さく頷いた。


 その後、エマが膝掛けを持って書庫に来た。


「ミア様、レイ様に会えてよかったですね。でも、書庫は冷えますよ」


明るい声が、静かな部屋に少しだけ温度を足す。


エマは机の上の地図を見て、それからレイの手元に目を落とした。


「レイ様、また指先を見ていましたね」


レイは少しだけ手を引いた。


「見ていたわけでは……」


「では、考え事ですか?」


「……たぶん」


エマは困ったように笑った。


「地図を見るのも、考え事をするのも構いません。ですが、体が冷えて風邪をひいては困るので、温めてください」


そう言って、膝掛けの一枚をレイのそばに置く。


「ミア様もです。書庫は冷えますから、長くいるなら肩まで掛けてくださいね」


ミアは素直に頷いた。


「はい」


エマは、地図の端が丸まらないように、小さな文鎮をそっと乗せた。


「古い地図ですね」


「ロウエンが、出してくれました」


「ロウエンさんらしいですね」


エマはそう言って、ロウエンに一瞥してから炉に細い薪を一本足した。


「もっとあったかい格好をさせて上げてください」


火が少しだけ大きくなる。


赤い光が、地図の端を淡く照らした。


レイは、もう一度地図へ視線を落とす。


ヴェイル領から伸びる細い街道。


森を抜け、川を越え、知らない町へ続く道。


指先を近づける。


紫電は、もう出なかった。


けれど、それでよかった。


さっき見た光が本当だったのか、ただの見間違いだったのかは分からない。


それでも、道はそこにある。


地図の上にも。


門の向こうにも。


レイは、地図を閉じかけた。


けれど、途中で手を止める。


もう一度だけ、開いた。


ヴェイル領の名前を見る。


その小さな文字から、細い道が伸びている。


まだ、外へ行きたいとは言えなかった。


父にも。


兄にも。


ロウエンにも。


ミアにも。


自分自身にも、はっきりとは言えなかった。


それでもレイは、地図の道を指でなぞった。


書庫の小さな窓の外で、朝の白さが少しだけ薄くなっていた。


レイは、そっと掌を握る。


その奥で、消えたはずの紫電が、小さく震えた気がした。


まだ、言えない。


けれど。


いつか、その道を歩いてみたいと思った。

ここまで読んで頂きありがとうございました。

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