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第1話 雷は綺麗だった

よろしくお願いします。

雨は、急に降り出した。


春先にしては、冷たい雨だった。


けれど、すぐに止む気配はなかった。


 屋敷は古い石造りで、天井には太い梁が渡り、廊下は長く伸びていた。ところどころに補修の跡があり、手入れはされているのに、屋敷にはどこか寂れた空気が漂っていた。


 暖炉では火が燃えていた。けれど、部屋全体を温めるほど強くはなく、炉の中で頼りなく揺れているだけだった。


 レイは小さな歩幅で窓辺へ向かった。

古い床板の冷たさが、足の裏からじんわりと伝わってくる。


 窓辺に近づくほど、空気は冷たくなった。


 8歳のレイ・ヴェイルは、木枠の硝子戸に手をのせたまま、雨に濡れた庭の先に広がる灰色の空を見ていた。


 今日は、雲が低かった。


 窓のすぐ上まで降りてきそうなほど黒く、重い。


 木枠にのせた手に力が入った。


 どうしてか、胸の奥が変に落ち着かなくなった。


 見たことがあるような、ないような気がした。


 思い出そうとすると、もう分からなくなった。


 遠くで、低い音が鳴った。


 雷だった。


 レイは息を止め、空を見上げた。


 音だけが聞こえ、空にはまだ何も見えなかった。庭も森も、雨と霧に沈んでいた。


 もう一度、低い音が転がるように響いた。


 今度は、雲の奥にかすかな光が見えた。


 暗い雲の隙間を、一筋の雷が走った。


 その色は、白でも黄色でもなかった。


 レイには、一瞬、紫に見えた。


 その光を見た瞬間、雨音が少し遠くなった。


 代わりに、別の匂いがした。


 薬草でも、薪でもない。白い布に、冷たい薬の匂いが混じっている。


 白い天井。


 薄い布団の重さ。


 どこまでが自分の足なのか分からないほど、冷えた足先。


 体は重くて動かない。


 それなのに、目だけは窓の外を見ていた。


 その向こうに、別の空があった。


 レイは瞬きをした。


 目の前にあるのは、ヴェイル家の部屋だった。古く色の変わった壁。くたびれた暖炉。木枠の硝子戸を叩く雨の音。


 それなのに、さっきまで別の場所にいたような気がした。


 そこにも、空があった。


 雨上がりの夕焼け空。


 遠くで、低い音が聞こえた。


 雲のあいだを、あの色の雷が走っていた。


 あの体は、布団の中で向きを変えることさえ、自分ではできなかった。


 窓の外は、見ることしかできなかった。


 でも、その雷だけは、空のずっと先へ進んでいけるように見えた。


 レイは木枠をぎゅっと握ったつもりだった。


 けれど、指先だけが少し震えた。


 これは何だろう。


 分からなかった。


 さっき見えた紫の雷は夢のようだった。


 それなのに、瞬きをしても、あの色だけは消えなかった。


 雷の音がまだ残っているあいだ、胸の奥がいつもより速く鳴っていた。


 外で、また雷が鳴った。


 今度は近かった。


 硝子が小さく震え、部屋の隅に置かれた燭台の影が、壁でゆらりと揺れた。


 そのとき、レイの指先がぴり、とした。


 痛みではない。熱くもない。


 細い糸が、指先を走ったような感覚だった。


 レイは思わず手を引っ込めた。


「わっ」


 その拍子に、人差し指の先で小さな紫の光が弾けた。


 レイは驚いて、人差し指を見つめた。


 もう一度、細い紫の光が走った。ほんの一瞬だけ弾けて、すぐに消えた。


 小さくて頼りない光。


 すぐになくなってしまいそうなのに、綺麗だと思った。


 思ってしまった。


 もう一度、出ないだろうか。


 どうすればまた光るのか、レイには分からなかった。


 紫の光は、もうなかった。


 それでも、さっきの光を忘れたくなかった。


 もう一度見たい。


 そう思った自分に、少し驚いた。


「レイ?」


 背後から声がした。


 レイの肩が小さく跳ねる。


 振り返ると、扉のそばに母のセリア・ヴェイルが立っていた。淡い銀灰色の髪を後ろでゆるく結い、薄い羽織をまとっている。手には小さな燭台。蝋燭の火が揺れるたび、母の横顔に柔らかな影が落ちていた。


「眠れなかったの?」


 セリアの声は静かだった。


 レイは少しだけ頷いた。


「……雷が、鳴っていたので、気になって」


「そう」


 セリアはゆっくり部屋に入ってきた。足音はほとんどしなかった。近づくと、部屋の冷たさが少しだけやわらいだ。


 レイは手を後ろに回そうとしたが、指先のしびれが気になってうまく隠せなかった。


 セリアはレイの前で膝を折り、目線を合わせた。


「手を見せてくれる?」


 レイはゆっくりと、隠していた手を前に出した。


 指先には、もう何もない。


 さっきの紫は消えていた。


 ほっとした。


 なのに、少しだけ残念でもあった。


 その気持ちにも、レイは戸惑った。


 セリアはレイの手を取った。


 母の手は温かかった。冷えた指を包まれると、肩の力が少し抜けた。


「何か、出たのね」


 レイは黙った。


「熱かった?」


 小さく首を振った。


「冷たかったわけでも、風みたいに動いたわけでもないのね」


 レイは、もう一度頷いた。


 セリアはレイの指先をゆっくり握った。


 その指が、ほんの少しだけ止まった。


 けれど、セリアは手を離さなかった。


 それだけで、レイは少し落ち着いた。


「怖かった?」


 レイは答えられなかった。


 怖かったのかもしれない。


 急に指が光ったのだから。


 でも、最初に胸で感じたのは、それだけではなかった。


 レイは自分の手を見た。


 今はただの小さな手だった。細くて、まだ何も掴めない子どもの手。


 それでも、さっきそこに紫の光が走った。


「……わかりません」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


 セリアは叱らなかった。


「そう」


 それだけ言って、セリアはレイの指先を握る力をわずかに強めた。


 レイの肩から、少しだけ力が抜けた。


「じゃあ、レイはどう思った?」


 レイは顔を上げた。


 セリアは言葉を急がせなかった。レイの手を包んだまま、静かに待っていた。


 レイの喉が小さく動いた。


 言っていいのか分からなかった。


 何の光なのかも分からなかった。


 でも、外で見た雷とどこか似ていた。


 雷は、大きな音を立てる。


 硝子も震える。


 怖いもののはずだった。


 けれど、さっきの紫は怖いだけではなかった。


 雨の夜に、ほんの一瞬だけ現れた細い光。


 遠くへ伸びていきそうな線。


 あの空で見た雷と、同じ色。


「……綺麗、でした」


 言い終えると、レイは指先に少し力を入れた。


 声が震えていた。


 変に思われるかもしれない。


 そう思ったが、セリアは小さく微笑んだ。大きな笑いではなく、弱い暖炉の火が少しだけ明るくなるような笑みだった。


「そう」


 セリアはレイの手を両手でさらに包んだ。


「綺麗だったのね」


 レイは頷いた。


 一度頷くと、胸の奥につかえていたものが少しほどけた。


「レイ」


 セリアが静かに名前を呼んだ。


「好きなものを、無理に嫌いにならなくていいのよ」


 レイは、その言葉の意味をすぐには分からなかった。


 好き、嫌い。


 自分があの紫を好きなのかどうか、まだ分からない。


 ただ、消えてしまった指先の雷を、もう一度見たいと思っている。


 それが好きということなのか、レイにはまだ分からなかった。


 セリアは続けた。


「誰かが怖いと言っても、変だと言っても、あなたが綺麗だと思ったなら、その気持ちまで捨てなくていいの」


 母の手の温かさが、指先から腕へ、胸の方へゆっくり広がった。


 レイは母の顔を見つめた。


 セリアは何も急がせなかった。答えなさいとも言わなかった。ただ、レイの手を温めてくれていた。


 その温かさだけで、レイは少し息がしやすくなった。


「……嫌いに、ならなくていいんですか」


 聞いたあとで、変なことを言ったかもしれないとレイは思った。


 まだ好きかどうかも分からないのに。


 だが、セリアは少しも笑わなかった。


「ええ」


 それだけで十分だった。


 レイはもう一度、外を見た。


 庭も森も夜の闇の中に沈んでいた。雷はもう見えない。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


 軒先から落ちる水の音だけが、ぽつり、ぽつりと残っていた。


 レイは自分の指先を見下ろした。


 紫雷はもうなかったが、さっき光った場所には小さなしびれが残っていた。


 遠い空へ伸びていった、あの雷の色。


 レイはその指をすぐには握れなかった。


 握ってしまったら、光の跡まで消えてしまいそうで。


 セリアは何も言わず、隣にいてくれた。


 レイは指先を見つめた。


 紫の光はもうない。


 それなのに、まだ胸の奥に残っている気がした。


 でも言葉にはできなかった。


 ただ、忘れたくなかった。

ここまで読んで頂きありがとうございました。

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