第38話 酸漬けの赤実
カイの鍛冶屋に招待されてから数日経った朝、厨房の裏口には、赤い実の詰まった籠が置かれていた。
親指の先ほどの小さな実は、朝露に濡れてつやつやと光っている。ヴェイル領では、この実を塩と薬草で漬ける。夏の疲れた時期や、実の採れない季節の食卓を支える、この土地の保存食だ。
「今年は少し小さいですね」
エマが一粒つまみ、残念そうに眺めた。
「雨が少なかったそうです。でも、酸っぱさは十分ですよ」
「それは喜んでいいことなの?」
隣でミアが笑う。
レイは籠から一粒取り、鼻先へ近づけた。青い匂いの奥に、かすかな甘さがある。
「僕は、酸っぱい方が好きです」
「知っています。去年の分をほとんど一人で食べたでしょう」
「ほとんどではないよ」
「では、半分以上です。まぁきっとロウエンさんがどこからか酢漬けの赤い実をもらってくるのでなくなることはないでしょうけど」
エマが苦笑いしながら答える
言い返せなかった。
三人は井戸水で実を洗い、布の上へ並べた。傷んだものを除き、残った軸を一つずつ取っていく。
レイも椅子に座り、作業を手伝った。
剣を握り続けた手には、まだ薄いまめが残っている。小さな軸をつまむたび、指の付け根がわずかに痛んだ。
「レイ様は休んでいてもいいんですよ?」
「これくらいなら、大丈夫だよ」
「そう言う人ほど、あとで手が痛いと言うんです」
エマは呆れながらも、レイの前から籠を取り上げなかった。
洗い終えた実を乾かし、煮沸した硝子瓶へ入れていく。赤い実、塩、刻んだ薬草。その上に、また赤い実を重ねる。
レイは形を崩さないよう、一粒ずつ瓶の隙間へ収めた。
幼い頃、母と同じ作業をした記憶がある。
あの時のレイは、早く食べたくて、瓶を何度も覗き込んでいた。まだ漬かっていない実を口に入れ、あまりの酸っぱさに顔をしかめた。それを見た母が、声をあげて笑っていた。
その時、どんな話をしたのかは、もう思い出せない。
けれど、窓から入る日の光と、母の指先に残った赤い汁。それだけは、今でも覚えている。
「兄さま?」
呼ばれて、レイは顔を上げた。
手元には、最後の一粒が残っていた。
「どうかしましたか?」
「……いや。少し、思い出していただけ」
それ以上は言わず、最後の実を瓶へ入れた。
エマが塩水を注ぐ。実の間から小さな泡が浮かび、薬草の葉がゆっくり持ち上がった。
「食べられるのは、もう少し先ですね」
ミアが瓶を覗き込む。
「待てますか、兄さま」
「そのくらい待てるし、さっきエマが言っていたみたいにロウエンにもらうから大丈夫」
答えると、ミアは呆れた顔でレイを見た。
レイは瓶の蓋を閉じ、漏れがないことを確かめた。最後に仕込みの日付を書いた布を、紐で口元へ結ぶ。
窓の外には、朝霧がまだ残っていた。
その向こうへ続く細い道は、廃坑の方角へ伸びている。
雷は撃つものだと、ザックは言った。
けれど、あの影は違うと言った。
どちらが正しいのかは、まだ分からない。
「明日は廃坑へ行くのですか?」
ミアが何気なく尋ねた。
レイは瓶から手を離した。
「うん。最近は全然行ってなかったし確かめたいことあるんだ。昼前には戻るよ」
「では、帰ったら味見をしましょう」
「今作ったばかりだよ」
「兄さまが待てるかどうかの味見です」
エマが吹き出した。
窓辺に並んだ瓶の中で、赤い実が朝の光を受けている。
食べられるようになるまで、まだ時間がかかる。




