第26話 休息日と図書館
結局、眠りが深くなったのは明け方だった。
目が覚めたときには、日はもうだいぶ高い所にあった。訓練が始まってから、こんな時間まで寝たのは初めてだ。体のあちこちがまだ重いが、昨日までの、芯が抜けたような感覚は消えている。
(魔力は完全に戻りきっていない気がする)
身体が少し怠い。
昨日、空になるまで使い切った。一晩では、戻りきらないらしい。
朝食とも昼食ともつかない食事を取りながら、レイは今日の予定を考えた。
休息日。でも、ただ寝ているだけというのも、落ち着かない。
——器が傷つくって、本に書いてあったよ。
ふと、メルに言われたことを思い出した。
ザック先生は「古い説」だと言っていた。でも、メルはそれを本で知っていた。自分は魔法のことを、体で試すばかりで、調べたことが一度もない。
(図書館、行ってみようか)
考えてみれば、行ったことがなかった。
領主館には書庫があって、本ならたくさんあった。読みたければ、書庫に行けばいい。だから町の図書館に足を運ぶ理由が、今までなかったのだ。
(本を探しに、外へ出る)
家で本を探すのもいいけどせっかくなので、外に出ることにする。
図書館は、領主館から歩いて少しの、古い石造りの建物だった。
扉を開けると、乾いた紙と埃の匂いがした。外の明るさに比べて、中は薄暗い。高い窓から差す光の帯に、細かい塵がゆっくりと舞っている。
訓練場とは種類の違う静けさだ。
「いらっしゃい。おや、ヴェイル家の」
帳場に座っていた眼鏡の男が、顔を上げた。柔らかい物腰の、四十くらいの人だ。ここの司書——ということは。
「魔法の本を、探していて」
「魔法書は奥の棚です。ただ、うちにあるのは基礎的なものばかりですよ」
礼を言って、レイは奥へ進んだ。
——そこだけ、風が吹いていた。
窓際の机に、本の山。その山の向こうで、淡いミルクティーベージュの髪が、ふわりと揺れていた。
メルだった。
机に頬杖をついて、本を読んでいる。窓は、閉まっている。なのに彼女の周りだけ、微かな風があった。頁をめくり、毛先を揺らす、小さく穏やかな風。
その風に乗って、ページが、ひとりでにめくれた。
(風魔法……)
指一本動かさず、風でページをめくっている。なんて贅沢な使い方だろう、と思ったが、当の本人はそれが当たり前のような顔で読み続けている。
やわらかな髪は、まっすぐというより風を含んだ綿毛のようで、淡い茶色の毛先が、動くたびに窓の光を拾って蜂蜜色ににじんだ。片側だけゆるく編み込まれ、耳元に、羽根と葉を合わせたような小さな飾りが差してある。
(……同じ人、だよな)
訓練場で見るメルと、目の前のメルが、うまく重ならなかった。あそこでは静かに端にいる子なのに、ここでは、この建物ごと彼女のもののように見える。
「あ」
メルが顔を上げた。目が合う。
明るい青緑の瞳が、ぱっと開いた。新しい本の頁を開いたときのような顔だった。
「……レイ君」
「えっと、その。本を、探しに」
「そう」
メルは短く言って、視線を本に戻した。が、すぐにもう一度顔を上げた。
「何の本?」
「魔力のこと、調べたくて。器のこととか」
「……ふうん」
メルは本を閉じた。それから、少しだけ得意そうな顔になった。
「こっち」
メルは棚の間をすいすいと歩いた。
白いブラウスに灰緑のベスト、長いスカート。肩から下げた古びた革鞄には本や紙片が詰め込まれていて、歩くたびに本の角が革の内側をこつこつと叩いた。図書館に、その音だけが規則正しく響く。
自分の家の庭みたいだ、と思ったら、本当にそうなのだった。司書の娘。ここはメルの庭だ。
「魔力の基礎なら、これ。器の話は、これの三章。あと、これは古いから、書いてあることは半分くらい疑ったほうがいい」
ぽん、ぽん、と本が積まれていく。迷いが、一度もない。棚を見もせずに手が伸びる。
「……詳しいね」
「全部読んだから」
こともなげに言う。この棚を、全部。
「メルは、そんなに本が好きなの?」
「ん……」
メルは少し考えてから、棚の背表紙を指でなぞった。
「本にはね、必ずどこかに風がいるの」
「え?」
「物語でも、図鑑でも、歴史でも。帆をふくらませたり、種を運んだり、誰かの髪を揺らしたり。どの本を開いても、風だけは絶対に出てくる。それを見つけるのが好き」
そう言ったメルの周りで、ふわ、と空気が動いた。棚の埃が、小さな円を描いて舞い上がる。本人は気づいていないらしい。嬉しいと、風が出るのだ。
(本当に、風が好きなんだ)
「雷は?」
気づいたら、聞いていた。
「え?」
「雷が出てくる本は、ある?」
メルは、ぱちりと瞬きをした。それから、ゆっくりと棚を見渡して——少しだけ、眉を寄せた。
「……少ない、と思う」
「少ない?」
「風とか火とか水の魔法書はいっぱいあるけど、雷って、章の隅にちょっと書いてあるくらい。『扱いが難しい』とか『使い手が稀』とか、そういうことしか」
メルは棚から一冊、薄い本を引き抜いた。属性魔法の概論書らしい。ぱらぱらとめくって、あるページで止める。
「ほら。雷、これだけ」
見せられたページには、雷属性の記述が半ページ。他の属性は、それぞれ何十ページもあるのに。
(……本の中でも、期待されてないんだ)
胸の奥が少し締め付けられた。
でも、不思議とすぐに、別の考えが浮かんだ。
(誰も書いてないなら——僕が試すしかない、ってことだ)
「レイ君?」
「あ、ううん。ありがとう。これ、借りていく」
レイは積まれた本を抱えた。
メルは少しの間レイの顔を見てから、「ん」と頷いて、自分の席へ戻っていった。またページが、風でめくれ始める。
帳場で手続きをしていると、司書がふっと笑った。
「娘があんなに喋るのは、珍しい」
「え?」
「ゆっくりしていってください」
それ以上は、何も言わなかった。
夕方まで、レイは図書館の隅で本を読んだ。
魔力の器のこと。回復のこと。無属性魔法の理屈。知らないことばかりだった。
魔力が尽きる直前、視界が明滅するのは、目ではなく魔力の流れが乱れるせい。
(あれ、そういうことだったんだ)
あの日、訓練場で倒れる寸前に見た、ちかちかした景色。あれには、ちゃんと理屈があった。
体で覚えたことに、あとから言葉が追いついてくる。その感覚は、思っていたよりずっと面白かった。
時々、棚の向こうから、こつ、こつ、と革鞄の音が通り過ぎた。そのたびに、微かな風が頁の端を撫でていった。
窓の外が茜色になり始めた頃、レイは本を抱えて図書館を出た。
夕暮れの道を、領主館へ向かって歩く。頭の中はまだ、読んだばかりの魔力の理屈でいっぱいだった。
——訓練場の方角で、何かが光った。
足が止まる。
淡い光が、浮かんでは、消える。一つ。また一つ。
(……魔術? 誰か、いる?)
休息日のはずだ。訓練は、ない。
レイは道を逸れて、訓練場のほうへ歩き出した。
ここまで読んで頂きありがとうございました。




